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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 8

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 8

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/21 6:45
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 三度の空襲 その2
 中村 正英(なかむら まさふさ)

 五月二十五日の青山空襲の時は、司令部の屋上から山の手に火の上るのを見ていたが、翌日軍の車で青山方面の視察に出かけた。東郷神社の通りから表参道を青山通りに向かったが、美しいケヤキ並木は無残にも焼けただれ、坂道を上るにつれ見えるはずの青山通りの町並がまったく見えない。その時、衝撃的な風景を眼のあたりにして思わず息をのんだ。はるかかなたに青南小学校の建物が見え、あたりは一面の焼け野原だ。青山通りと表参道の交差点附近は、あちこちに焼け残りのものがくすぶり、安田銀行横には黒こげの死体が折り重なっていた。

 青山墓地に避難した父母が焼け跡の整理をしていた。当時私は、避難するなら明治神官か代々木練兵場が最適で、表参道の広い道を行けば一番安全と考えていたが、これは間違いだった。青山通りは燃えさかる炎が地面を這い、広いと思われた表参道と青山通りの交差点は火の海となった。表参道は明治神宮に近い穏田の方から燃え広がり、代々木練兵場への道を断ってしまった。結果的に表参道方面に逃げた人は被災し、青山墓地に逃げた人達は助かった。

 我が家は青山通りより少し入った路地の奥だったが、我が家の近くの防火水槽や隣家の風呂桶の中には見知らぬ人達の焼死体があった。きっと逃げまどいながら苦しまざれに飛び込んで息絶えたのであろう。我が家の焼け跡に立ち、何もかも焼け尽くされた現実に茫然自失。覚悟していたとは言いながら、好きで蒐集していた映画史資料や昆虫や植物の標本等灰燼に帰して、青春の思い出が一瞬にして消されてしまった。

 何ともかなしくむなしい喪失感に、ぼんやりたたずんでいた。焼け跡をほじくり返していたら少年時代から集めていた古銭が焼けただれ、溶けて塊になったのを見つけた(写真参照)。空襲の火災のものすごさを実証する記念品として、戦後六十五年の現在も大切に保管している。

 当時の青山には青南小学校の同窓生がたくさん住んでいた。山本五十六元帥や菱刈陸軍大将のご子息や小堀遠州流の小堀宗慶さんなど、そうそうたる人達の家も焦土と化し、歴史が消えた。本当に戦争ほどかなしいものはない。

 青山通りと表参道の交差点に当時からあり、今も残っている明治神宮大灯籠の石座には被災者たちの油がしみついている。あの時ここで見た惨状は脳裏に焼きついて離れない。そして二度と戦争はしないでくれと被災者の悲痛な叫び声が聞こえてくるようだ。

 (赤坂区青山南町六丁目)


 右下:5月25日の空襲により溶けた古銭
 左上:電波探知を撹乱するために米軍がまいたアルミ片
 左下:高射砲弾の破片 右下:機関砲弾丸の破片

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