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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 6

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 6

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/19 8:14
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 焼けた街

 怖い一夜が明けた翌日父が家の様子を見てこようと言い出し、私は怖かったのですが一緒について行きました。まだ地面はぶすぶすといっており、とても熱くて歩くのも大変でした。避難の時に持ってきた薬缶の水を防空頭巾にかけながら家まで帰って行きました。表参道から都電の通っていた青山通りを青山六丁目の方へ行くまで、死体の間を、真っ黒な死体、半焦げの死体、などなど、その無惨な死体の間を、死体をよけながら、見るのも怖いのですが必死の思いで家までたどり着きました。やっぱりと言うか、予想通り家は焼けて無くなっていました。ご近所全部一軒も残らず焼けてしまっていました。

 その晩は神宮前より入ったところにあった青山会館で一夜を過ごしました。炊き出しがあっておにぎりが配られましたが、なかなかのどを通りませんでした。表通りの六丁目のところにあった紳士服専門の洋服屋の土屋さんのご主人は顔に大火傷を負ったため、目だけ出してあとは包帯でぐるぐる巻きでしたが、口も開けにくいようで、父が小さじに少しずつご飯粒を乗せて食べさせてあげていました。そういうのを見て、なんとも言えない無常を感じました。


 怖かった死体の片付け

 その翌日、父は青年団の方々と一緒に表参道の片付けをいたしました。表参道の入り口に安田銀行(現在のみずほ銀行)が、反対側には交番がありましたが、そこから原宿の方へ倒れている死体のうち、お顔のはっきりしている死体をよって、並べてゆきました。身内の方が捜しに来られても、顔さえわかれば引き取ることができるだろうということでした。私もそのお手伝いをいたしましたが、怖くて怖くて、足が震える思いで、何かにつかまらなければ立っていられないような気分でした。

 なかでも表参道の入り口の灯籠のところで目にしたご遺体のことは今でも忘れられません。昔はお年を召したご婦人、ご隠居様になりますと、頭は束髪(そくはつ)にして一つに束ね、被布(ひふ)を着ておられたものですが、そういうお姿で明治神官の方を向いてお辞儀をしたままで亡くなっておられました。真っ黒になって座ってお辞儀しているお姿は今でも頭の中に焼きついて忘れられません。思い出しますと今も涙です。

 何しろ死体の山で、表参道の角の安田銀行の壁にもたくさんの死体が折り重なり、その死体のシミが付いて二メートル以上の高さまで黒くなっていました。銀行はシャッターが閉められていて、中に入れてもらえずに亡くなった方たちのシミなのです。また、原宿の渋谷川、穏田川(おんでんがわ)の中にもたくさんの人が飛び込んで亡くなっておられます。学校のお友達にも家族で川に飛び込んだかたがいらっしゃるようです。

 あの時のことは、五年、十年経っても忘れることができませんでした。よく夢を見ました。夢に真っ黒焦げになった死体が出てくる、真っ黒焦げの死体に追いかけられて目を覚ますことなどよくありました。

 表参道に立って左を見ると議事堂が、右を見ると富士山がまる見えで、その間にさえぎるものが何もありませんでした。それだけ完全に青山一帯が焼けてしまったわけです。それにともなって多勢の人達が亡くなっておられます。私の学校時代のお友達の中にも亡くなった方がいらっしゃいます。一年下のタイル屋さんの娘さん、ご近所の三味線のお師匠さんのご家族も一人として助かったかたはおられなかったようです。渋谷から赤坂、青山一帯、全く何も残っておりませんでした。青山通りは死体の山、死体ごろごろでした。いまだに忘れられません。こうして懐かしの青山は滅びました。


 おわリに

 このような体験のためか、私は戦争の映画とかテレビなどみたこともありません。嫌だったのです。あの死体の山を思い出すのです。でも私も年をとってきました。私たちが経験した悲惨な思いを若いかた達に経験してほしくない。戦争は絶対にやってほしくない、あんな悲惨な思いをしてほしくない。生き残ったものの一人としてそれを強く願っております。一般市民を巻き込んだ悲惨な戦争が二度と起こらないことを願っております。

 (赤坂区青山南町六丁目)

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