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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 5

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 5

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/18 6:44
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦争のないことを願って その2
 神谷 和子(かみや かずこ)


 空襲がはじまる

 戦争の終わりの頃になり、サイパン島が占領された後は毎日毎日米軍の爆撃機のB29が飛んでくるようになりました。そのたびに、朝となく、昼となく、夜となく、警戒警報、空襲警報が発令されました。ラジオで警報発令の放送があると、庭に造った防空壕に入りました。

 私は一人っ子でしたので父と二人で庭に防空壕を掘りました。その中には布団、お米、学校の道具、とっておかなければいけない最低限のものを入れておきました。夜に警戒警報が発令されることは本当につらいことでした。毎晩、電灯を消して真っ暗にし、雨戸や玄関の戸を開けて、いつでも防空壕に入れるように構えているわけです。それが毎晩続くと十分な睡眠もとれませんし、また冬などは寒いこともあって、とてもつらい思いをしました。三月には下町が大空襲で焼けてしまいました。四月には戸越の方にいた親戚が焼け出され、そこの子供、女の子三人を預かりました。小さい子は二歳か三歳で、上の子が五、六歳だったと思います。


 五月二十五日の夜

 あの時は母と預かった子供たちを、落ち合う場所を決めて青山墓地へ一足早めに避難させました。あちらこちらで火の手が上がり、家の近くにも焼夷弾が落ちてくるようになり、煙で空が見えなくなりました。私と父は防空壕に木の蓋をして、その上に土をいっぱい載せ、それに水をかけて簡単には燃えないようにしました。それから父は野宿することになってもいいように布団を一組自転車の荷台にくくり付け、私は水を一杯入れた大きな薬缶(やかん)を持ち、防空頭巾(ぼうくうずきん)をかぶり、もんぺをはいて母と約束した青山墓地に向かいました。途中表参道のところまで来ると、大勢の人が煙に追われて原宿の方へ逃げて行くのが見えました。なにしろ風上の青山墓地方向は煙で五十メートル先も見えない状況でした。空からは焼夷弾がばらばらばらばらと落ちてきますし、それが行こうとする先に落ちるので、そのために出る煙もまた凄まじいものでした。それでみんなのように表参道を原宿の方へ逃げた方がよいのではないかと思い父に話しましたが、父は風下に逃げると煙に巻き込まれてやられるから風上に逃げなければならないのだと言って墓地の方へ逃げて行きました。そのような状況の中を父にしがみつくようにしながら、重い薬缶の水を持って青山墓地までたどり着きました。

 私たちが墓地に着いたとき、取り決めていたところに母たちの姿が見当たりませんでした。父と二人でずいぶん探し回りました。たまたま預かった子のおしっこをさせに外に出てきた母に私が行き会うことができ、ほっとして、お互いに助かってよかったねと嬉し泣きでした。周りを見ると、燃えている火のために空は真っ赤で昼間のように明るく、とても真夜中とは思えないほどでした。また上空にはトタンとか薄緑(うすべり。ふち付きのゴザ)のようなものが爆風のために舞い上がって飛んでおり、すごく怖くてわなわなと震え上がっておりました。青山墓地には墓地裏の方にあった陸軍の歩兵第三連隊の軍馬を避難させるための穴がたくさん掘ってありました。私たちが行った時には馬など全然いませんでしたので、私たちがその穴の中に入って「夜を過ごしました。

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