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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 3

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 3

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/16 6:39
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 青山南町6丁目・青山高木町


 白い小さな紙の箱  KI





 軍事教練で富士の裾野にて鍛えられていた青山学院中等部二年生の私達は、昭和二十年五月二十五日夜半からの空襲により、学校が被害を受けたというので、二十七日朝、急遽帰る事となった。

 なんとか大崎駅まで辿りつき、学校まで徒歩で行く間、異臭を放つ道や焼け落ちて瓦礫のみになった焼け野原を見ながら、やっと校庭についた。学校は相当な被害を受けていたが、一部は焼け残っていた。解散後、真っ直ぐ校庭を横切り、我家とおぼしき焼け跡についた。青山学院のすぐそば、青山南町六丁目で旅館を営んでいた。

 人のいる気配がなく、洗面所跡の赤レンガがコの字型に残り、周りを見るとお隣の長澤さんの焼けていないお蔵と、道を隔てた斎藤さんの石塀と、少し離れて焼けたお蔵があるだけだった。

 日が暮れて来たので、指示された通り学校へ戻り、佐藤君と二人で女子部の医務室で寝た。
 翌朝、焼け跡に戻ると、お隣の竹内君(小学校の同期生)の一家が驚いて私を迎えてくれ、鉄兜で炊いたご飯をご馳走してくれた。焼ける寸前まで頑張って消火活動をしていたが、焼夷弾が落ちたので逃げたとの事、そして、私の家族とは今朝まで一人も会っていないので、皆心配していた所へ私が現れたのでびっくりしたと言った。種々情報を伝えてくれた。そして彼の一家は故郷の北軽井沢へと焼け跡を後にした。

 昼過ぎ焼け跡に戻って来ると、煉瓦の所で動く人影があるので声を掛けると、母親であった。
 無事を喜び合い突然現れた理由を聞くと、二十四日朝、千葉の実家へ買い出しに家を出て、少し前に帰ってきた所だと言う。留守を守っていた叔母とその娘や、下宿をしていた学生さん達はどうなったかと心配で、私が探しに行く事になった。

 青山墓地には、肉親を探す人が三々五々集まってきていて、皆無口で腰を屈めながら探していた。敷石が飛び飛びに並んでいる小さな広場に遺体が「定方向に頭を揃え、確認出来易くする為か、少し間隔をあけて並べてあった。そこに運ばれてきた遺体は比較的良好な服装状態が多く、なかには警防団の黒の細い線が入った帽子を被り、濃草色の上着、ズボンにゲートルを巻いて上を向いている遺体があり、生々しかった。モンペ姿の女性たち、手縫いの布袋を肩から斜めにかけた人、裸足の人達が上を向いて家人が来るのを待っている様な恰好だった。所持品と思われる小物が一纏めにしてあった。若しかしたら叔母親娘かもしれない二遺体が一番端に置かれていた。頭髪と着衣はなく、猛火に炙りだされて茶色になった蝋人形の様だった。なぜか寄り添うような感じがする並べ方であった。美しいと感じさせる遺体であった。体型が少し違うので、行きつ戻りつ見直して歩くが、どうしても蝋人形さんの所へ戻ってしまった。

 少し離れた所で見たのは、一瞬声が出なかった。皆きれいな衣類を着てお人形さんかと見聞違うばかりの可愛い赤ん坊や幼児達が、無造作に積み重なっていて、まるで小さな山の様であった。
 わけはどうであれ、あまりの光景に足が止まったが、私は再び肉親探しにその場を後にした。

 結局、親子は見つからなかった。夕方帰って、墓地で見た光景と探す苦労を母親に話すと、うっすらと眼が濡れている様な感じがした。日を経ずして、人づてに遺骨を貰えると聞いたので、徒歩で青山一丁目の石勝石材店の所まで出向いた。町会の方かと思われる男性が、二人分として、こぶし大ほどある遺骨二片と小片を白い小さな紙の箱に入れてくれた。どなたのお骨とも分からないが、焼け跡で待つ母の所へ持ち帰り見せた。後日、墓のある多摩墓地に納骨した。

 叔母親子は祖母の死後、敦賀より青山へ来て約二年ほどなので近辺の地理に疎かった。娘は四月に青山学院の女子部に入学したばかりだった。

 (赤坂区青山南町六丁目)


 写真は「青山南町6丁目・青山高木町 地図」



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