@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

続 表参道が燃えた日 (抜粋) 7

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

編集者

通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 7

msg#
depth:
1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/20 6:40
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 三度の空襲 その1
 中村 正英(なかむら まさふさ)



 我が家は三度空襲にやられた。東京で空襲にあい、疎開先でまたまたやられたという話はよく聞くが、我が家は青山の同じ家で三回被災した。

 第一回目は昭和二十年二月、焼夷弾のそれ弾がお勝手に続く物置の屋根に落ちた。単発だったので、火たたき棒などで消火した。二度目は五月二十四日、大型の油脂爆弾が我が家に落ちて、二階の物干台をすっ飛ばし、屋根をつき破って一番奥の部屋に落ちた。なんとそこは父母の寝所でもあり、爆弾は母の枕を飛ばし床下につきささった。もし避難をさぼっていたら、完全に即死だったろう。油脂爆弾は破壊力は小さいが、着弾と同時に四方八方に油脂をまき散らし、そこに火が廻って火災になる仕組みなのでたまらない。それでも幸い隣近所の方々に手助けしてもらい、必死の消火でとうとう消し止めた。この事は、敢然として消火活動にあたった行動は賞讃に値するとして町会長より表彰される話まで出ていた。ところが騒ぎも静まらぬ翌二十五日、第三回目の山の手大空襲にあい、とうとう息の根をとめられた。考えてみるとこの不思議な三回の戦災は表参道に関係があるようで、当時としては広々とした表参道の道路が空襲の目安になった。そして爆弾を落とし始めた最初のものが我が家に落ちたのではないか等と勝手な推理をしている。

 当時の私は、出征し満州に居て、幸いなことに二十年四月、本土決戦要員として高射第一師団司令部に配属になり、東京に帰っていた。司令部は、上野の科学博物館に陣取って、関東一円の防空守備の任にあたっていた。戦時中皆さんがよく聞いた東部軍管区情報の元締めもここにあり、敵機来襲の情報は克明にわかった。広い壁面に描き出された巨大な日本地図。それをとりまく多数の情報係と電話。全国の監視所から刻々と流れる敵機の進入状況。そして部屋の大地図に点々と赤い電気がつき敵機の状況が手に取るようにわかる。居並ぶ情報将校達がこれを取り囲みながら大局を判定し、「敵数十機只今相模湾上空を横浜方面にむけ北上中」等の防空情報を流していた。

  条件検索へ