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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 10

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 10

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/23 6:50
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 青山つれづれ
  まさか青山が燃えるなんて  
 上野 正雄(うえの まさお) その2

 こんな平和な日々も、太平洋戦争の勃発とともに急速に失われて行った。昭和二十年五月二十五日夜半から始まった米軍による東京大空襲。B29による焼夷弾が一斉に落とされ、火災があちらこちらで発生した。渋谷の東横百貨店を中心に火の手がどんどん広がり、空や雲が赤くなり、まるで昼間のように明るく、何か恐ろしいあやしい、空模様だった。

 渋谷方面から炎上が始まり、青山の方へ向って、火の勢いが強くなり迫ってくるようだった。我が家の前の家に焼夷弾が落ち壁に火が移り、近所の人達とバケツで水をかけたが火は消えず、あっという間に一軒が火の海と化した。大人の人達の「早く避難しろ」「逃げた方が良い」という声を聞き、防火用水の水を頭からかぶって、全身ビショビショになりながら、父と母と三人で青山墓地へ一目散に逃げた。この時、運命が分かれたものと思われる。私達より先に逃げた人の中に、明治神宮方面に行かれた人が表参道付近で亡くなられた。
 なお、妹と弟は京王つつじヶ丘駅の北側にあるお寺「金龍寺」(調布市西つつじヶ丘二⊥四)に学童疎開していた。

 青山墓地は、人、人、人で、ごった返していた。タンカで運ばれてきた人は、お腹が裂けて血だらけ、頭を怪我して血を流している人、火傷を負った人。うめき声と悲鳴があちこちで聞こえ、親が子を、子供が親を探していた。辺り一面を強烈な熱風が襲い、まるで地獄絵図を見ているようであった。

 当時の事を、通称「墓地下」という所にある島村花店(約百二十年続く花店で、大正十二年の関東大震災にも、今大戦でも被災せず、昔のままのたたずまいで経営されている)のご主人の父島村金之助さんは、「店の前は避難の人であふれかえっていた」と五月二十五日のことを、よく語り伝えていた。今は、ご主人の義雄さんも金之助さんも故人となられてしまった。

 そして、青山墓地から、自宅の方向に帰るのであったが、見渡す限り、焼け野原で、道路も、家々の境も分からず歩き続け、いつの間にか青山通りに出てしまった。

 そこで見た光景は、今でも脳裏に焼き付いて離れない。この空襲により亡くなられた方々には誠に不謹慎な言い方になるが、見たままを書くと、男か女か、子供か老人か判らない、身には何もつけてなく、全身がツルツルで、まるで蝋人形やマネキン人形のような死体が累々としていた。死体を踏まないように、跨がないように避けながら、この光景の中をどのくらい歩いたであろうか。ようやく我が家に辿り着いたのであった。恐ろしかったこと、恐ろしくて声も出ず、歩きながらガタガタ震えていた事を思い出す。

 あった筈の我が家はまる焼けであった。見なれた風景は、おどろおどろしい恐怖の世界へと一変してしまった。この焼け跡で親子三人は、焼けトタン、焼けぼっくいの柱、板を掻き集め、小さな掘立小屋を作った。電気もガスも水道もない所で、三日間をここで過した。どこからか配られたおにぎりに夢中でかじりついた。今、思い出せば、すぐ近くは、この世の地獄を思わせる場所である。この環境の中で、良く食べられたものだと思う。

 なお、その時の東京の気象状況は下記の通りであった。(気象庁天気相談所資料)

五月二十六日 曇り 最高気温二五・五度 最低気温一六・二度 南 風速20m
五月二十七日 曇り 最高気温二八・一度 最低気温一五・二度 南南西 風速7・3m
五月二十八日 晴れ 最高気温二五・一度 最低気温一四・二度南 風速7・3m

 振り返ってみると、この焼け跡での三日間は、雨にもあわず、気温も昼、夜とも五月下旬にしては比較的暖かい日が続いていたのである。

 青山通り沿いの死体はやがて、警察の人、軍の関係者など、大勢の人の手により、トラック」リヤカー、大八車の荷台に山積みにされ、早朝から青山警察署、青山墓地、都電青山車庫、神宮外苑の空地にそれぞれ運ばれていった。

 毎年三月になると「東京大空襲展」「「平和展」などが各地で催され、特に警視庁報道カメラマン石川光陽氏の撮影された「青山車庫に集められた焼死体」の写真の前では、毎年、いつまでも立ち止まって、見入ってしまう。

 これら写真展を見るたびに、つくづく戦争の悲惨さを繰り返してはいけないと願う。あの穏やかで美しい青山を返してほしいと思う。

 そして、何より戦火により亡くなられた方々へ合掌し、心からご冥福をお祈りしている。

 (赤坂区青山南町六丁目)

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