特攻インタビュー(第1回) 前編
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投稿日時 2011/11/30 8:35
編集者
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はじめに
スタッフより
この投稿(含・第二回以降の投稿)は「公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会」の「会報 特攻」よりの抜粋です。
発行人の羽渕徹也様のご承諾を得て転載させて頂いております。
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特攻インタビュー(第1回)
陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その1
特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会
特攻ライブラリー取材スタッフ
「編注・当協会では、特攻に関連する史実とその精神を後世に伝承するため、特攻関係者の体験談等を取材し、記録することを企画し、有志会員により「特攻ライブラリー」を立ち上げ、先ず、関係者のインタビュー記事を記録することにいたしました。特攻出撃の如何を問わず、特攻体験をされて九死に一生を得た方、特攻出撃を待機された経験のある方等で、映像と写真を含めたインタビュー取材を引き受けて頂ける方がおられましたら、自薦他薦を問わず、当協会事務局(担当大澤)までご連絡下さい。」
◇ ◇ ◇
前村 弘氏軍歴(略歴)
陸軍宇都宮航法学校・特別幹部候補生第1期
陸軍飛行第六二戦隊・四式重爆撃機「飛竜」航法士
東海沖特攻、沖縄特攻に参加
○特攻ライブラリー取材スタッフ
(五十音順)
及川 昌彦 世話人
神崎 夢現 進行・構成
倉形 桃代 記録
堤橋 律子 世話人
須貝 智行 写真撮影
高橋 暢 映像撮影
長尾 栄治 インタビュアー
◇ ◇ ◇
◆入隊まで(1)
---------前村さんは長崎のご出身で、商業学校を卒業された後に、一度就職されていますよね?
前村‥東京にある日本電気という会社でした。課長と部長が長崎まで来てくれまして、2人が面接を受けて2人とも入社しました。
当時は戦争中だもんですから、卒業が本当ならば昭和18年の2月のはずですが、昭和17年の12月に繰り上げ卒業となりました。文部省として各学校とも戦時中だから早く卒業させて軍需工場だとか兵隊に出せ、ということだったと思うんです。1月にはもう東京の日本電気に入社したんですよ。
ところが日本電気はその当時住友通信工業と名前が変わっていまして、住友系になったんですね。元の日本電気はアメリカのウェスティングハウス系統だったんだけど、戦争が始まっているもんだから住友通信という名前に変わった。電話交換機や無線機を作っているのが日本電気だったんだけれど、私らが入ったときは、さすがに軍需工場で方向探知機だとか電波探知機だとか作っていましたね。私もその製造ラインのところで働いていました。
--------その後、特幹に志願されるということになるのですが、そのきっかけ?
前村‥日本電気に入社したものの、なぜか皆、入営とか召集とかで周囲の人たちが兵隊に取られてゆくんですよ。我々若い者は、いつとられるか分からんというような不安や落ち着かない気持ちがありました。軍隊というところは早く行った方が楽ができて威張れそうな空気があったもんだから(笑)、どうせ取られるんだったら早く行こうかっていうグループの友達3~4人で示し合わせて願書を出しました。
--------以前、別の特幹に行かれた方の話だと、志願するには両親の証明が必要だったという事だったんですが、長崎まで行く訳には行かず、会社の幹部の方の署名を貰って出したのですか?
前村‥そうだったんでしょうかね。そのへんは私は記憶ないですね。だけど「兵隊に行くばかりが国の為じゃない。こうして軍需工場で働くのも国の為なんだ」って、工場長から怒られた記憶はありますね。
--------応募して、試験はあったのですか?
前村‥ありましたね。体格検査・身体検査、そして学科試験がありました。
--------いまだに記憶に残っているような試験の内容はありますか?
前村‥いや~覚えていませんねえ、もう(笑)。
--------場所はどちらで行われたのですか?
前村‥願書を出したのは、今の信濃町から乃木坂近くにあった「第一連隊区司令部」っていうところに願書を出したと思います。そこで身体検査から学科試験、全部やったと思います。
--------試験をやって、合格通知はすぐに来たのですか?
前村‥1カ月くらいだったでしょうかね。合格通知に、昭和19年4月20日までに浜松の第7教育隊に出頭しろ、と書いてあるんですよ。だからいったん東京から長崎に帰って、長崎の実家から浜松まで汽車に乗って行ったわけです。そのときは当然、兵隊の入営と一緒ですから、皆に駅で万歳万歳で見送られましてね、4月20日浜松に入隊しました。
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その2
--------長崎にいらっしゃったご両親からは「頑張って来い」とか言われたんですか?
前村‥特に……親父はどうも軍隊が好きだったみたいでね、「よく合格した」って私を褒めてくれたんじゃないでしょうか(笑)。親父はそういうところがありました。
--------お母様は?
前村‥親不孝だったかも…(笑)。
--------前村さんは、ご兄弟はいらっしゃったんですか?
前村‥私は男3人、女4人の7人兄弟なんですよ。ちょうど私は真ん中でしたから、一番甘えて一番楽して育ってるんじゃないでしょうか。兄貴2人がすでに働いていたし姉も働いていました。だから、親の金を誤魔化しちゃ遊んでましたよ(笑)。
--------お兄様は軍隊ではなく、どちらかで働いていらっしゃったんですか?
前村‥ええ、三菱造船でね。1人は三菱電機でね。そのうち下の兄貴の方が先に軍隊に召集受けて、まもなく上の兄貴の方も召集受けて軍隊に行きました。そうしたら三菱電機に行っていた姉まで、いつの間にやら北京に行って憲兵隊か何かでしばらく働いていました。
--------それは事務か何かで?
前村‥そうです。私は東京に就職しているし…。家の中は、本当にガランとしていたと思いますよ。妹達、私より3つ下のがいたくらいで…女学校に入ったばかりじゃないですか。
--------お兄様2人は陸軍に取られていったんですか?
前村‥はい、両方とも陸軍でしたね。
--------ご健在で帰って来られたんですか?
前村‥長兄だけはフィリピンで戦死しましたね。2番目の兄は終戦と同時に2~3カ月経ったら帰ってきました。
中国にいたんですよ。満州じゃなくて中国で終戦になったので無事に早く帰って来ましたよ。もちろん姉も早く帰りました。
--------当時は、兵隊になるとき奉公袋とかいろんなのを持って入るっていうのがルールだったという話を聞きますが、特にそういうものもなくて国民服みたいなのを着て浜松に入営されたという感じなんですか? 私物とかはいくらか持って行けたのでしょうか?
前村‥私物はね、多少は…。でも私物はほとんど持って行かないですね。
--------陸軍特別幹部候補生と言われても、我々の世代は解らない人がほとんどだと思うのですが、説明していただけますか?
前村‥おそらく陸軍特別幹部候補生を創設した目的は、軍部の方では士官学校とかいろんな制度がありましたけども、優秀な下士官を養成するという目的で出来たみたいですね。だから、入隊するときは二等兵でなく一等兵で、星2つ (階級章) で入っているわけです。その代わり特別な一等兵だということで星に座金(ざかね)みたいなのが付いた。一応、募集するからには優遇してやらなきやいかんと思ったんでしょうかね。そして兵隊に入って驚いたのは、私ら18歳のほかに15~16歳くらいの年下の人が一緒にいて、子供みたいのと一緒に訓練を受けたことです。だから特別幹部候補生といっても何だかピンと来なかったです。
--------年齢差関係なく一緒ということでしょうか?
前村‥一緒ですね。ただ、体格的に身長が少し小さいとか痩せているとか…。そういう人だけは特別にある斑にまとめられて、牛乳だとかりんごだとか、我々より美味しいものを食べている連中がおりましたよ(笑)。〝増健兵″って言ったっけな。いわゆる健康な兵に育てようという意味の制度があったんですね。
--------兵隊では考えられないくらい羨ましいというか…。
前村‥そうです。我々普通の人間は何でもないのに、あいつらは牛乳が余計に付いている、りんごが1つ余計に付くでしょ……だから羨ましい(笑)。
--------物資は乏しくなるし……食い物の恨みは恐ろしい(笑)。
前村‥そうそう(笑)。増健兵であった人で元気でいるのがいますよ。こないだのテレビの特攻取材に写っていた可愛い顔した男なんかそうですよ(笑)。
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その3
--------特幹兵というのは、歩兵さんとか砲兵さんとかを育てるというより、航空兵になるというのは、最初から決まっていたのですか?
前村‥そうですね。最初から決まっていて、特別幹部候補生としての科目で、操縦と整備と通信と射手も教育したんだろうと思いますね。大体そのような兵科専門の下士官を育てようとしたみたいですね。その中に航法っていうのは当初なかったんです。そのほかには船舶兵をたくさん採用したらしいです。
航法っていうのは、特別幹部候補生として応募して、その後にですね。特別幹部候補生から航法を育てたほうがいいということになって、満州の白城子にあった航法学校・操縦学校を戦争の情勢があまり芳しくないというので、急きょ昭和19年に宇都宮へ引き上げました。宇都宮で新しく航法学校・操縦学校を開始したときに、我々150人の兵隊が初めて航法学生として入ったわけです。それまでは航法士の養成は年間20~25人とか、その程度の人数の教育しかしていなかったんです。
--------それまで陸軍航空部隊で航法というのは、特に勉強もせずにいたのですか?
前村‥それまで陸軍は、山や川や海岸を地上の目印にして飛ぶ地文航法でしたが、敗戦色が濃くなってくると何の目印もない洋上を飛ぶ必要に迫られ、他の航法を勉強せざるを得なくなってきました。それまでは南方で、どうしても洋上での航法が必要になったときは、海軍から偵察員を呼んで派遣してもらって、飛行機は陸軍の飛行機だけど、航法は海軍の入っていうのを結構やっていましたよ。陸軍の雷撃隊だとか爆撃隊なんかそうですね。海軍は〝航法士″って言わないで "偵察員″って称していましたね。
--------浜松に入営したときの話に戻るんですが、入営して最初の訓練は考えていたことと全然違った印象でしたか?
前村‥浜松に入隊しましたらね、我々は中学時代に軍人として基本的なオイッチこ、オイッチこの行進だとか銃の持ち方だとか、ひと通り終わっている訳です。だから、どっちかと言ったら飛行機の整備。つなぎの作業服を着ましてね、当時の中国人みたいな作業帽を被って、飛行機のエンジンの教育をだいぶ受けました。
--------それは後々の職種と関係なく全員が必ずですか?
前村‥そうです。ただし、我々の中隊は重爆のエンジン、8中隊・9中隊は軽爆のエンジンとか。それから違う中隊は機関銃の整備だとかね、そういうものをやっていましたね。
--------そうすると、入隊したときにルートは事前に決められていたのでしょうか?
前村‥決められていますね。入った教育隊でも、中隊ごとに違っているということで、ほぼ決められていましたね。
--------それはご自身の志願ですか?
前村‥違います。
--------前村さんが入隊した時点で、戦闘機の空中勤務者になりたいお気持ちなどありましたか?
前村‥いや、それはとても予測もできませんでしたけれど、入隊した当時は軍隊の命令の赴くままという感じでした。3カ月の基本訓練が終わってから、後輩の第2期生というのが入ってくるわけですね。
その際に、私が班長から信用があったのか、皆、南方や中国に持って行かれて転属になってゆくのに、私と松本と大野っていう3人だけが、次の2期生の指導候補生として残されたんですよ。残されてまた一生懸命、初年兵の訓練・指導をやっていましたけれども、ちっとも面白くないんですね(笑)。
そしたらある日、兵舎の出入口付近に空中勤務者になるための試験の告知ポスターが貼り出されていました。
編集者
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◆空中勤務者試験
--------それは学校に?
前村‥教育隊にです。ポスターを見てから班長に、これこれこういうわけで空中勤務者になりたいと言ったら、すぐ簡単にOKを出してくれたみたいでね、2人が一緒に試験を受けに行くことになりました。京王線の調布に昔、京王閣っていう遊園地があったんです。その京王閣のあった場所で空中勤務者の試験が行われたんです。人によっちゃ3日間試験を受けたとか言いますが、そんなに長く実際には受けていないと思うんだけどね。一晩泊まりくらいで受験したかもしれません。
--------京王閣っていうと、今の調布市の競輪場があるところですか?
前村‥知らないんですけどね。いわゆる京王閣っていう遊園地だけしか覚えていないです。戦後、行ったこともないしね。
--------そうすると、空中勤務者っていうのは、特別な試験みたいなものはあったんでしょうか?
前村‥ありましたね。椅子に座ってクルクル回されたりね、紐があって棒が立っていて、これを手で左と右の棒がピッタリ合うように目祝して動かしてやるというような試験があったり。4桁5桁6桁位の窓から数字がパッと落ちるやつを、瞬間的に数字を記憶するというようなテストがありましたね。上から出る数字もあったし……まあ、あれはいわゆる空中勤務者としての、あるいは航法としての特別な試験だったのかなと思います。パッと落ちてくるやつを瞬間的に捕らえるということは、航法には絶対必要なことですから。
--------空中勤務者の試験ということは、空中勤務者の操縦とか偵察とか、その後に細かく分かれるんでしょうけども、そのときは空中勤務者ということで、具体的な職種とはまだ全然解らなかったんですか?
前村‥解りません。空中勤務者というのは、飛行機に乗るというだけで、飛行機乗りということは、飛行機の操縦ができるというふうに、最初は単純に思っていたんですね。それで合格して……私はちょっと目が悪いんですよ。赤緑(せきりょく)色弱っていう色盲じゃないんだけれども、色弱なんですよ。成績表を見たら全部〝甲〟だっていうのに、目だけが "乙〟と書いてある。これは駄目だなあと思ったら合格。2日目位に宇都宮に行けと。確か東京駅から浜松に戻らないで、真っ直ぐ宇都宮に行った。そして落ちた同期は、浜松に戻ったんですね。こいつはまだ元気です。
--------それで宇都宮に行って、航法の勉強にすぐ入るんですか?
前村‥はい。しかも飛行機は双発の高等練習機〝高練″って言われていた一式高練……(写真をご覧になって)我々はここに乗って……10人位乗ったんじゃないですか? 操縦士とか機関係以外に10人くらい乗ったと思いますよ。でもこれがエンジンの後だから、排気ガスが臭くてね、すぐ乗物酔になってしまいましたよ。でもこれは優秀な飛行機だったらしいね。
--------宇都宮に行けっていう段階には、もう航法士になることは決定していましたか?
前村‥いえ、それは解りません。僕らは宇都宮に行けって言われたときには、操縦士になれるとばっかり思っていました。ほとんど3日か4日目くらいには、慣熟飛行ということで、すぐ飛行機に乗ったと思いますね。それで10分か15分、宇都宮から飛び立って利根川を渡って富士山が見えてなんていうんでね、20分か30分くらいの飛行をやって着陸。ところがそれくらいの飛行でも慣れないから、皆ゲーゲー吐くんですよ。
--------それはさっき伺ったように、ガソリンの臭いとか排気ガスの臭いのせいですか?
前村‥そうだと思いますね。おそらく3回か4回ぐらいまで……だから大体皆乗る際に「靴下持って乗れ」って言われるから。軍隊の靴下を1足持ってね、吐くとき、その靴下の中に吐くのです。あれは嫌だったですね。
--------前村さんも吐いた口だったのでしょうか?
前村‥やっぱり私も1回ぐらい吐きました。
--------慣熟訓練で初めて飛行機に乗られたわけですか?
前村‥そうです。初めて飛行機に乗りました。
--------そのとき、乗客のような気持ちで黙って乗っていたのですか?
前村‥そのときはお客さんみたいなもんで、何もないし……ただ、「お~、あそこに富士山だ! 利根川だー」ってな感じでね。観光旅行みたいなもんですが、もう5分もしないうちに気持ち悪くなってきて…。それも3回か4回の体験飛行で慣れたのかなあ。
それで、最初のときに慣熟飛行をやって、我々は航法というものを勉強する為に宇都宮に来たんだっていうのが、3日目か4日目に教わって解りましてね。飛行機を正しく定時定点まで誘導するのが航法の仕事だと…。久しぶりに《定時定点》 っていう言葉を今思い出して言ったんですがね、当時から《定時定点=決まった時間に決まった点に運ぶ》が航法の任務だというふうに教わっていました。
編集者
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その5
◆航法について(1)
--------でも、先ほどもお話があったように、当時陸軍に航法なんていうものはないし、聞いても「?」という感じでしたか?
前村‥ええ、初めて航法って聞きましたね。だけどね、その前に20人か30人ずつくらい、曹長さんや軍曹・伍長の下士官の教育を受けた人がいたんですよ。その人たちが、我々の内務班長ということでやったけど、この人たちは航法を教えてくれるわけじゃないんです。航法を教えてくれるのは、士官学校の56期くらいの人が、それこそ白城子でみっちり訓練を受けた寺島中尉という主任教官が、非常に熱心に航法を教えてくれましたね。
--------特幹1期生としての航法士、同期生は何人くらいいらっしゃったのですか?
前村‥150人です。150人が、ほとんど一緒に訓練を受けましてね。4カ月間……だから8月に宇都宮に入って、昭和19年12月の末には卒業、航法って言うんで……その間には、宇都宮から仙台まで行って出張訓練をやってみたり、太平洋側の金華山のところまで訓練で飛んだりしてましたね。
--------航法士の勉強っていうのは、最初は教科書開いて座学から始まるのでしょうか?
前村‥そうですね。航法っていうのは、水測航法っていうのと無線航法と天測航法と、3つか4つ航法があるんですね。そのうちの推測航法と天測航法を、私たちは勉強しています。無線航法は、全然、無線機は扱っていませんね。
--------例えば天測航法っていうのは、どういうものなのでしょうか?
前村‥天測っていうのは、このくらいの機械で六分儀とか八分儀っていう望遠鏡みたいなやつがありましてね。昼間は太陽を使いますが、夜間は星を使います。まず星の名前を覚えないといけません。その星の名前とは、1等星、いわゆる恒星です。恒星はほとんど動かない位置にあるから基準になります。よく星の名前を夜中に覚えたものです。今だに15や20の星の名前を覚えています。星にはシリウス、シエダ、ポルックス、カストル、ポラリスなどがありました。
それらの天体を六分儀で捕まえて何時何分何秒とメモをとってね、もう一つ、これとは対照的にポラリス (北極星)を捕まえて、それと恒星がおちあったところが自分の位置です。それを計算して、ちょっとややこしい…。
天測の場合には天測図とか天測略歴とかっていう厚い立派な本を両方、重いのを持っていかないとなかなか出ないんですよね。だから、一生懸命飛行機の上で何時何分何秒って書いたり、天測図には、この星は何月何日何時何分には、こういうような経路で移動していると書かれた表がありましてね、それらの本を持って乗ったもんですよ。
--------そういう星っていうのは飛行機の窓から覗きながら見るのでしょうか?
前村‥そうですね、飛行機の窓から。
--------重爆だと、上にも天窓がありますね。
前村‥ええ。飛行機ってやつは絶えず様々な条件で上下左右に動くから、操縦士が機体をしっかり安定させるために操縦桿を握っています。操縦士に「これから測定開始、保針!」って伝えて……保針っていうのは、針を動かさないように固定してくれと頼むわけです……それに操縦士が「了解」と応えてやっと測定を始めます。そのような連携を取りながらの作業です。だから、保針をいつまでも続けさせると操縦士は疲れてしまいましてね、あまり長時間は駄目らしいです。
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その5
◆航法について(2)
--------測定は何分くらいで行え、という決め事はあったのですか?
前村‥そういう決め事はなかったですけどね。やっぱり操縦士も疲れないような、依頼するにしても状況を考えて依頼しろと言われていましたね。
--------前村さんの経験だと、大体10分か20分、天測で今の位置どのくらい、と計算できるものなんでしょうか?
前村‥10分、20分っていうけれども、ずっと長い間の一連の作業じゃないんですよ。パッと天体を捕まえたところで、それから5分間たってからまた保針をやる、そういう測定の仕方ですからね。さほど労力をかけずに天測できたと思うんです。
--------推測航法っていうのは、また違うのでしょうか?
前村‥推測航法っていうのは、爆撃照準眼鏡っていうのがいつも股のところに挟んでありまして、天板を回せばメーターが回るようになっています。
地図を見たら川の曲がり角がこうなっていて、ここを目標に捉えてスーツと並行して流れるような飛び方をして、針路が何度何分何秒って羅針盤で出るわけですよ。
それからもう一つ、対地速度測定っていうのがあって、爆撃照準眼機の天板を回すと、前方の目標をつかむことができる。それをつかんでまた前方の目標が流れてくるときに、何秒か遅れて流れて来たと。そうすると何度の方向から何キロの風が吹いているっていうのが計算で出てくるわけですよ。
大体地球の偏西風っていうのは常時吹いているもんですからね。その辺を考慮に入れて、常識的に偏西風っていうものを覚えていかなきやいかん。飛行機はまっすぐに飛んでいるつもりでも、すぐ風に流されてしまうので、どれだけ流されているのかを推測し針路を修正してゆきます。
--------やはり洋上航法、太平洋上で、海しか見えないと測定も難しくなるのでしょうか?
前村‥洋上の場合は、大抵波がザブンとなったときに、白波が、泡が出るんですね。その泡が一杯あるわけですけれど、ある泡をポッとひとつかみ、それから目標物として目を外さないようにして測定する。次の泡を追って、この泡と泡の間を何秒で通った、今何キロ走っているというようなことを計算するんですよ。
飛行機の羅針盤というのは、実にいい加減な測定器でして、磁石なんですね。だから、カメラでも持って羅針盤の側に行くと、それだけでも針が動いて誤差が出ます。それから速度計っていうのも、これも実にいい加減。これは速度計というより風圧計なんです。風圧だけで計測する。やはり航法的に正確な風向・風速・飛行機の速度・定時定点に持っていくためには、ただ単純に羅針盤と速度計だけでの計測だけは難しい現実がありましたね。
--------先程、羅針盤の話が出ましたけれど、よく軍刀を持ち込んで飛行機に乗るという映画のシーンがありますが、軍刀なんかでも反応するのでしたら、映画用に撮られた ”やらせ″ なんでしょうか?
前村‥全然だめ。ただ戦闘機に乗る場合には軍刀でもね、羅針盤が狂ったら狂ったまま行けるんでしょうけれども、重爆の場合には、とても軍刀なんか持ち込んではだめですね。
--------じゃあ、実際に軍刀を持ち込むこともなかったのですね?
前村‥なかったですね。少なくとも我々はなかったです。ピストルも持たされなかった。だからね、本当に飛行機っていうのは単純っていうかいい加減。羅針盤と速度計でよく飛んでいるなあと、我々航法士から言ったら、本当に危険だなあと思います。
--------実際にそれでよく行方不明になったっていうのは、戦記とか戦史ではあるんですが、やっぱり航法ミスもあったのでしょうか?
前村‥航法ミスっていうのは結構あったんじゃないでしょうか。特に硫黄島から日本に帰ってくるときとか、サイパンからのときは、燃料が切れて墜落するっていうことが、非常に多かった
と思います。
それから後の昭和19年10月に台湾沖航空戦というのがありまして、あれには海軍の爆撃隊も行ったけれども、陸軍飛行九八戦隊という雷撃隊も行っているんですよ。それで陸軍の場合、海軍は偵察員のような航法の専門家が乗っているから無事に帰って来られるんですが、九八戦隊の場合には、あんまり航法員を乗せてなかったんです。だから行って雷撃はするものの、帰ってくるときには、ちょうど偏西風を逆風に受けて帰ってくる状態でしたからね。あと30分で台湾の航空基地に着くはずが1時間たっても着かない、ということで、燃料切れで海の中に墜落した九八戦隊がずいぶん多かったんです。あれから陸軍が慌てて航法員を乗せようと、積極的にやりだしたのが昭和19年の冬ぐらいかな。
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◆航法士訓練(1)
--------ちょうどそのときに矢面に立たされたのが、前村さんの世代ですね。
前村‥そうなんです。それに呼応して我々が航法を勉強したということですね。
--------最初に実戦機に乗り込んでからキー67しか乗っていないのですか?
前村‥私は双発の高等練習機とキー67、2機種しか乗っていないですね。呑龍にも97式重爆撃機にも乗ったことがないです。
--------キー67の場合だと、操縦士が右側にいて副操縦士がいてというような配置ですが、前村さんの航法士はどちらの配置だったのでしょうか?
前村‥正操と副操の間に機関係の席がありまして、機関係がどいてくれると階段があるんですよ。3つか4つ。その階段を下に降りたところに、手で引っ張ると前に出てくるような丸い椅子があって、それが航法席なんです。機体前方下の風防ガラスの中に座る状態になっちゃうんですよ。両足を着いていると風防ガラスから下の光景が全部見えるのが、我々航法の座席でした。
--------前方が風防だけなので視界がいいということですね?
前村‥そういうことなんでしょうけどね。操縦士との連絡は伝声管と言って、飛行帽の付近に金属パイプが出ていますから(聞き取る方の管)、そのパイプにガチヤツとはめて、口元にはこんなパイプを持って操縦士と話をする。
今は無線で電話ができるんですが、当時は金属パイプを通して会話しました。
--------あれは結構聞こえるものなのでしょうか?
前村‥聞こえますよ。
--------配置から考えて、前方の機銃掃射は前村さんが行ったのでしょうか?
前村‥はいそうです。本当は前方銃も射手がいるはずなんですが、私がこの飛行機で浜松沖に行ったときは、これが無くて前方銃があったんです。だから私は航法と射撃と両方やらなきやいけない任務だったんです。正直なところ、射撃はやったことなかった(笑)。
射撃の訓練は受けたことないんですよ。1回だけ地上で撃てって言われてやったことあったんだけど……機関砲は難しいですね。腹ばいになって機関砲撃してダダダダ~と弾が出て、銃身が全部目の前に弾がボンボン入るような……で、おっかなくなってね、もうやめましたよ (笑)。射手はやるもんじゃないって (笑)。
--------簡単なものじゃないんですか?
前村‥あれは簡単なものじゃないですね。
編集者
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その7
◆航法士訓練(2)
--------爆撃照準するための場所は別の場所にあったのですか?
前村‥(写真を見て)爆撃照準眼鏡は丁度この下にあるんです。ここにL字型に出ている、ピトー管と言いまして、速度計と風圧計はここにあったんですよ。
--------それは爆撃手が別にいて、その人がやるのでしょうか? それとも前村さんが調整するのでしょうか?
前村‥それは爆撃手がやるでしょ、私は航法であって、あまりいろいろな仕事はしてなかったですね。ただ、誰もいないときは射手もやらなきやいけなかったんだけどね。
--------宇都宮の方の航法学生として12月くらいまでいらして、その次は当然演習の日、他の用途機に乗って実地訓練を受けられたわけですが、先ほど仰しゃられたように金華山沖とか仙台の方に行って訓練されたのでしょうか?
前村‥機種はみんな一式高練です。一式高練は教育用の飛行機だから、爆撃照準眼鏡を4台か5台くらい並べて、それぞれやっていましたよ。
--------あれも向き不向きがあるんですか?同期生でも航法士として優秀な人とかちょっとそうでない人とか……。
前村‥ありますね。よくこんなのが航法に受かったもんだなあっていう同期もいますよ、酒ばっかり食らって(笑)。だけど、やっぱりある程度、勘がないとね。航法の場合はプラスとマイナスをよく間違える。プラスとマイナスじゃ全然逆ですからね。そういう些細なことがあると思うんですよ。
--------勘の悪い方の乗った飛行機っていうのは、ほとんど帰ってこなかったのでしょうか?
前村‥まあ、操縦士も航法の基本的なことはやっているから、そうとも言えないでしょうけれど、航法士から「次の進路、何度」 って言われたら、「これ、違うんじゃないか」ということはあると思うんですよ。
--------やっぱり操縦士と航法士のコンビネーションというか、息がピッタリ合うことが重要なのでしょうか?
前村‥やっぱりその辺が重要だと思いますね。
編集者
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その8
◆陸軍飛行第六二戦隊への配属
--------この後、昭和19年12月に卒業されて、すぐにいよいよ実戦部隊へ配属となったのでしょうか?
前村‥そうです。ただ、私たちは12月の20日過ぎに卒業して、10人が飛行第六二戦隊に一緒に赴任しましたが、そのまま宇都宮に2~3カ月残っていたグループもいたんです。翌年3月になってから六二戦隊に来たのがいます。ここにいる花道っていう、この間テレビに出ていました彼なんかは、私らより六二戦隊に来たのが3カ月も遅れている、そういう者もいたんですよ。
--------前村さんは配属が決定されてすぐに?
前村‥はい、すぐですね。10人の中で私が一番年上なのか成績が良かったのか、先任で号令かけて申告したりしたもんですよ。
--------それで西筑波の方に赴任されたわけですね。行ったらビックリされたとか?
前村‥そう、行ったら誰もいないんだ(笑)。その代わり楽でしたよ。炊事場にいけば白米の飯はたっぷりくれるしね。それこそ半分しか食えないくらい大目にくれるんですよ。酒はくれるし航空糧食はくれる。毎日毎日、将棋をやったり。あんまり暇なんで男のくせに刺繍までやりましたよ (笑)。
--------そのとき飛行第六二戦隊の本部隊は南方にいて、筑波に移動中だったのですね?
前村‥そうなんです。フィリピンのクラークフィールドからナムレア、スンゲイパタニ、アピ、サイゴン、海口を経て、台湾の嘉義に1回着陸して、福岡、福生、再び残留者の輸送に台湾へ向かう途中、経由地の上海で戦闘機に攻撃され、その間にずいぶん死んだ人もいましたね。うちの中隊長なんかは上海の飛行場の手前で撃たれて、背中に火傷をして病院に入ったっていうのもいるし、結構帰るのも大変だったみたいですよ。私らは行ったことがないから。
--------前村さんは航法学校、宇都宮に入られた段階では、まだ特幹の学生扱いだったんでしょうか?
前村‥そうです、学生ですね。階級は、もうそのときは上等兵になっていたかな。
--------特幹の卒業生として飛行第六二戦隊に派遣ということになったのですか?
前村‥そうです。ただその辺は、六二戦隊に入って3~4月くらいまでは、皆一列に上等兵として階級章は座金がついていたわけですが、4月になったら、たしか兵長になったと思うんですよ。星がなくて筋1本付いて。それで、私が沖縄に行ったのが昭和20年4月17日なんだけど、兵長で行ったのか上等兵でいったのか、よく覚えていないのですね。
--------候補生だったのですね?
前村‥伍長になって座金がとれなければ候補生なんですよ。まだ一人前の下士官じゃないんです。
--------学生扱いなんですね?
前村‥そうなんです。同期の花道と大内というのは、昭和20年5月25日に出撃しているのですが、この2人が行くときには伍長になって行っているんですよ。私は行かないものだから、こちらは伍長にならないんです。出撃する人間だけ伍長になっている。ということは、伍長で戦死すれば、特攻で戦死した人は少尉になる。ただ我々みたいに兵長で戦死したのは准尉にしかならない。そういう差がありましたね。彼らは特別待遇で行ったんです。だから私の機のすぐ前を飛んでいた同期の近藤と村瀬なんかは、戦死したけど少尉じゃなくて准尉になってるんじゃないのかなあ。
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その9
◆戦隊訓練開始 (1)
--------飛行第六二戦隊が南方から三々五々やってきて、だんだん忙しくなってくると思うんですが、実戦へ向けての訓練という形に変わったのでしょうか? 経験豊富なベテランの先輩方が集まってきて、ようやく部隊としての形ができて…。
前村‥そうです。歴戦3年も4年も南方でイギリスの基地を爆撃してきた人たちが。当時はまだ特攻攻撃は始まっていないので、通常の水平飛行の爆撃です。それでも爆撃に行って戦闘機に撃たれて、すでに相当数死んでいたわけですけれど。
内地に帰ってくる本当の歴戦の勇士っていうのは、数えるほどしかいませんでした。皆初々しく特別操縦見習士官だとか逓信省の乗員養成所出身だとか…。うちには少年飛行兵に操縦士はいなかった。何人かはいたけど。通信には少年飛行兵が多かったです。
--------各務ヶ原飛行場での機体の装備はいかがでしたでしょうか?
前村‥各務ヶ原飛行場周辺を飛んで、部品が足りないのか何か分からないけれど、長野の松本の飛行場まで行ったりしたこともありましたよ。ほとんど各務ヶ原で。ところが、キー67も標準機から「と号機」とか「さくら弾」を受領したのが、4月から5月にかけてですね。
実は、三菱重工の名古屋で造った標準機の機体に、さくら弾を乗っけたり、と号機のように爆弾を2発積むような工作をしたりつていうのは、みんな岐阜の各務ヶ原にあった航工廠という、お役所がみんな装備したみたいだね。三菱とか川崎がやった訳じゃない、みんな航工廠がやったみたいですね。そのへんは、はっきりしたことは覚えていないんですけれども、航空廠と川崎重工か川崎飛行機か三菱重工か……こういう絡みはなかったんです。
--------有名な話で、名古屋の三菱の飛行機で、飛龍なら飛龍を作って、その後、各務ヶ原まで持っていくんですが、三菱の工場近くに大きな飛行場はありません。そこで陸送で持って行かなきやならないんだけど、当時、列車で運ぶには大きすぎてトンネルを通れず、車で持っていくと道路状況が悪く、機体が壊れて揺れてしまうので、牛車に乗せて路上をゆっくりゆっくり運んでいったという話がありますね?
前村‥そういう話、聞いていますよ。戦後になってからですが、牛車で引っ張ってキー67の機体を運んだって話は、よく聞きますよ。
--------飛行第六二戦隊の本隊が帰り、機体を受領した頃は、今までの通常の攻撃で陸軍の爆撃法を訓練していたのでしょうか? 海軍の洋上航法のやり方の訓練は、既にその頃から始まっていたのでしょうか?
前村‥いや、3月末くらいに飛行機がだいぶ揃ったから、洋上航法訓練をやろうっていう場面はなかったですね。ほとんど離着陸の訓練が多かったです。というのは、操縦士が特操の1期・2期とかいう人たちですから、操縦に慣れていない人が多かったんですね。だから、ほとんど夜間や薄暮の離着陸の訓練でしたよ。
我々航法では、航法訓練をやろうというチャンスがほとんどなかったです。ただ、各務ヶ原に出張するときに自分でやったくらいです。うちの部隊に航法をやれという主任はいましたが、この人は飛行機にあまり乗ったことがないですね。中隊長候補の教官をやったくらいの人なんだけど、この人も操縦の途中で転科した人だから、航法の勉強は六二戦隊ではあまりやらなかったですね。
--------離着陸の訓練のときには、前村さんには航空士として担当の飛行機や、一緒に乗ってるだけかもしれないですけど、空中勤務者割でペアが決まっていて、ずっといつも一緒に乗る感じなんでしょうか?
前村‥いや、それが出撃というとペアが決まってしまいましたが、出撃命令の前の段階では、ランダムに乗っていましたね。決まったペアというのは、あまりなかったと思うな。
--------じゃあ、訓練のときには、相手がランダムに乗ってきたらスタートする、みたいな感じなのでしょうか?
前村‥そうなんですよ。ただ、航法のくせに離着陸訓練の飛行機にはしょっちゅう乗っていたんですよ。それがまた恐くてねえ(笑)。操縦の特操の少尉さん二人が訓練しているとね、…俺、着陸苦手なんだよね、お前やってくれよ…っていう会話が絶えず訓練中に聞こえてきて、一緒に乗っている私としては恐かったですよ (笑)。
--------そういえば、飛行機の前方真下の透明な風防のど真ん中にいたのでしたね。
前村‥そうそう!あそこに座っていると伝声管から聞こえてくるんですよ(笑)。