特攻インタビュー(第1回) 前編
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特攻インタビュー(第1回) 前編 (編集者, 2011/11/30 8:35)
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投稿日時 2011/11/30 8:35
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに
スタッフより
この投稿(含・第二回以降の投稿)は「公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会」の「会報 特攻」よりの抜粋です。
発行人の羽渕徹也様のご承諾を得て転載させて頂いております。
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特攻インタビュー(第1回)
陸軍航空特攻 前村 弘氏(前編)その1
特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会
特攻ライブラリー取材スタッフ
「編注・当協会では、特攻に関連する史実とその精神を後世に伝承するため、特攻関係者の体験談等を取材し、記録することを企画し、有志会員により「特攻ライブラリー」を立ち上げ、先ず、関係者のインタビュー記事を記録することにいたしました。特攻出撃の如何を問わず、特攻体験をされて九死に一生を得た方、特攻出撃を待機された経験のある方等で、映像と写真を含めたインタビュー取材を引き受けて頂ける方がおられましたら、自薦他薦を問わず、当協会事務局(担当大澤)までご連絡下さい。」
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前村 弘氏軍歴(略歴)
陸軍宇都宮航法学校・特別幹部候補生第1期
陸軍飛行第六二戦隊・四式重爆撃機「飛竜」航法士
東海沖特攻、沖縄特攻に参加
○特攻ライブラリー取材スタッフ
(五十音順)
及川 昌彦 世話人
神崎 夢現 進行・構成
倉形 桃代 記録
堤橋 律子 世話人
須貝 智行 写真撮影
高橋 暢 映像撮影
長尾 栄治 インタビュアー
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◆入隊まで(1)
---------前村さんは長崎のご出身で、商業学校を卒業された後に、一度就職されていますよね?
前村‥東京にある日本電気という会社でした。課長と部長が長崎まで来てくれまして、2人が面接を受けて2人とも入社しました。
当時は戦争中だもんですから、卒業が本当ならば昭和18年の2月のはずですが、昭和17年の12月に繰り上げ卒業となりました。文部省として各学校とも戦時中だから早く卒業させて軍需工場だとか兵隊に出せ、ということだったと思うんです。1月にはもう東京の日本電気に入社したんですよ。
ところが日本電気はその当時住友通信工業と名前が変わっていまして、住友系になったんですね。元の日本電気はアメリカのウェスティングハウス系統だったんだけど、戦争が始まっているもんだから住友通信という名前に変わった。電話交換機や無線機を作っているのが日本電気だったんだけれど、私らが入ったときは、さすがに軍需工場で方向探知機だとか電波探知機だとか作っていましたね。私もその製造ラインのところで働いていました。
--------その後、特幹に志願されるということになるのですが、そのきっかけ?
前村‥日本電気に入社したものの、なぜか皆、入営とか召集とかで周囲の人たちが兵隊に取られてゆくんですよ。我々若い者は、いつとられるか分からんというような不安や落ち着かない気持ちがありました。軍隊というところは早く行った方が楽ができて威張れそうな空気があったもんだから(笑)、どうせ取られるんだったら早く行こうかっていうグループの友達3~4人で示し合わせて願書を出しました。
--------以前、別の特幹に行かれた方の話だと、志願するには両親の証明が必要だったという事だったんですが、長崎まで行く訳には行かず、会社の幹部の方の署名を貰って出したのですか?
前村‥そうだったんでしょうかね。そのへんは私は記憶ないですね。だけど「兵隊に行くばかりが国の為じゃない。こうして軍需工場で働くのも国の為なんだ」って、工場長から怒られた記憶はありますね。
--------応募して、試験はあったのですか?
前村‥ありましたね。体格検査・身体検査、そして学科試験がありました。
--------いまだに記憶に残っているような試験の内容はありますか?
前村‥いや~覚えていませんねえ、もう(笑)。
--------場所はどちらで行われたのですか?
前村‥願書を出したのは、今の信濃町から乃木坂近くにあった「第一連隊区司令部」っていうところに願書を出したと思います。そこで身体検査から学科試験、全部やったと思います。
--------試験をやって、合格通知はすぐに来たのですか?
前村‥1カ月くらいだったでしょうかね。合格通知に、昭和19年4月20日までに浜松の第7教育隊に出頭しろ、と書いてあるんですよ。だからいったん東京から長崎に帰って、長崎の実家から浜松まで汽車に乗って行ったわけです。そのときは当然、兵隊の入営と一緒ですから、皆に駅で万歳万歳で見送られましてね、4月20日浜松に入隊しました。