特攻インタビュー(第1回) 後編
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投稿日時 2011/12/12 7:39
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その1
特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会
特攻ライブラリー取材スタッフ
―――――――――――――――――――――――
前村 弘氏軍歴(略歴)
陸軍宇都宮航法学校・特別幹部候補生第1期
陸軍飛行第六二戦隊・四式重爆撃機「飛竜」航法士
東海沖特攻、沖縄特攻に参加
◇ ◇ ◇
○特攻ライブラリー取材スタッフ (五十音順)
及川 昌彦 世話人
神崎 夢現 進行・構成
倉形 桃代 記録
堤橋 律子 世話人
須貝 智行 写真撮影
高橋 暢 映像撮影
長尾 栄治 インタビュアー
◇ ◇ ◇
◆初陣!「攻撃ハ特攻トス」
--------特攻なんですけど、初陣というのは気持ちも違うものなんでしょうか。
前村‥緊張しますね。そのときは戦隊長も一緒に行くつていうことを知らなかったもんですから、戦隊長に命令を受けて不動の姿勢をとっているときも、何か自分の顔が歪んでいるような錯覚にとらわれましてね。それほど緊張していました。なにしろ初めてなものだから……。
--------その後、大分の海軍基地で訓練された際に、特攻の訓練ということは解っていたのでしょうか?
前村‥いや、それが解っていませんでした。跳飛弾訓練とはいうものの、跳飛弾を落としもしないで、あんな艦橋すれすれに飛ぶ訓練でしたから、後になって体当たりのための特攻の訓練だと思いました。
--------訓練中は言われたままの跳飛弾訓練なんだろうと思ってやっていたのですね。それでは3月19日の出撃で(攻撃ハ特攻トス)と命令されたのは、あまりに突然だったのではないでしょう
か。
前村‥全隊員が飛行場の控え所(ピスト)に集められて、黒板に敵機動部隊の位置やら出撃計画やらが書いてありました。よく見ると、そこに(攻撃ハ特攻トス)と力強く書いてあったんです。その文字が他の文字より急に大きく見えました。体中に電流が走るような、冷たい流れるようなモノを感じ、一瞬ですが身体が震えました。橋本見習士官が私のかたわらに来て肩を叩きながら、「初陣だぞ。隊長は三浦中尉殿だ。航法には隊長殿と呼吸のよく合う前村候補生。お前は隊長機に乗って貰うぞ」と言いました。
そして、「遺書と遺髪と爪を残しとけ」と言われて、ああこれはもういよいよ体当たりだなあと思いました。いきなり遺書って言われたって筆で書く時間もないし、自分の大学ノートの最後の頁へ、両親宛てに万年筆か何かで簡単に、「生前の親不孝をお許し下さい。私は立派にお国の為に散って行きます。之が唯一の親孝行と思って、褒めてやって下さい。では出来るだけ私の分まで長生きして下さる様にお願いします」と書いて、橋本見習士官に托しました。
--------そのとき、どのように受けとめられたのでしょうか?
前村‥どのように答えたか覚えていないのですが、当時の気概としては、除外されたいとか辞退したいとかの気持などはなかったですね。今の平和の時代の感覚で当時を考えるなら不思議なことかもしれませんが、それが事実でした。
--------記録には出撃の出発時刻が午後3時半くらいと書いてあるのですが、命令を受けてから出撃するまでに3時間ほど時間があったようですね。その待機の時間は、どんなふうにお過ごしになられたのでしょうか?
前村‥眠気が吹っ飛んだね。出撃する1時間か1時間半前には、ピストの前にご馳走が一杯並んでいましてね。それこそ食べたこともないようなカマボコだとか刺身だとかが、きれいに並んでいるんだけど(笑)、やっぱり駄目ですよ、食えないですよ。死ぬんだと思うとね。酒も呑めないしね。まあ、もちろん私は酒はもともと呑まないからだけど。美味しいものも美味しくないですよ。
戦友たちと「俺も後で行くから獲物は残しておけよ」といったような言葉のやりとりをしていました。同期の小見候補生の様子が少々気がかりでね、いかにも沈んだ様子で元気がなく深刻な面拝だったので、つい私まで深刻になり、不動の姿勢をとっても顔がゆがんでいるような錯覚を覚えてコチコチに緊張していました。それと特攻に選ばれた名誉は嬉しかったのですが、隊長機の航法は責任重大だったので、果たして未熟な私の腕で大丈夫なのかという不安が大きかったです。
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その2
◆初陣!「攻撃ハ特攻トス」(2)
--------でも、そうしているうちにいよいよ出撃の時間が来たわけですね?
前村‥情報によると、敵機動部隊は浜松南方150km付近を北東に向かって進行中ということでした。攻撃機には800kg爆弾を一発のみ装備してあり、爆弾倉に収容出来ないため内部を改造拡大し、しかもワイヤーで落ちないように縛り付けてありました。機首には電気信管が取り付けられて爆弾に配線され、体当たりすることによって爆発するような仕掛けです。
いざ飛行機に乗り込む刹那、片っ方の足が土を離れる瞬間に「これで俺は二度とこの土を踏むことは出来ないのだ!」と感傷的になりました。午後3時40分、隊長機を先頭に西筑波から次々と飛び立って、飛行場を旋回しつつ3機編隊を組み、戦隊長機の直後についたときは進路を伊豆半島方面にとりました。まもなく利根川の流れが鮮明に写し出されるのが見えてきて、それを渡ってしまうと今度は、「ああ、これで利根川が見られなくなるな」と感傷的になりました。後方に利根川が見えなくなった頃、ふと我に返り、あわてて航法諸元の測定に取りかかりました。
高度8000mで飛べという指示があったんです。ところが高度8000mでは飛行機の調子が良くないみたいで、三浦中尉が高度7000mに変更して飛んだ頃には熱海上空でした。
--------高度5000mから見る風景というのは、どんな感じでしょうか?
前村‥高度5000m~7000mで飛ぶときは速度が遅い印象ですね。速度を比較する対象物がどこにもないから速いとは思わないですね。走馬灯のようには見えないでしょ、いつまでも同じ景色が見えるから。ずいぶんゆっくりだなあ、と思いましたね。
下田付近を通る頃は高度7000mの水平飛行を保ち、機長の指示で酸素マスクを着装し機内は静かな緊張した空気に包まれていました。
エンジンの音は「グワーン、グワーン」と快調な爆音を立てていました。僚機を見るとわずかばかり上下運動を行いながらピッタリとついていました。三宅島、御蔵島を左に見て通り、予定の地点から変針し目的地に直進の針路をとりました。非常に印象に残っているのは、静岡の海岸に "銭洲(ぜにす)″という小さな島があります。戦後は米軍がよく爆撃演習の目標に使ったらしいです。釣マニアから、この銭洲に行って魚を釣る話は戦後聞いたことあったけど、戦時中は爆撃照準眼鏡で銭洲を見ているんですよ。"洲″っていうだけに、島よりも小さいのですが、白波の大きさがくっきりと見えるくらい、周囲に白波が一杯立っていました。
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その3
◆初陣!「攻撃ハ特攻トス」(3)
--------目的地までは、どんな様子だったのでしょうか?
前村‥予想到着時刻は午後6時と機長に伝えて前方銃座に移動し、機関砲の操作要領を確認したりで忙しくしていました。洋上はわずかばかりの白波が見え、ときおり綿のような雲がふわふわと浮かんで天候は上々に思えました。目的地まであと15分くらいあたりから天候が次第に悪くなり、洋上は雲に遮られ周囲が見えなくなってきたんです。
「目的地到着!」と機長に連絡するや、「よし、降下するぞ。各人は索敵を怠るな!」という声が重々しく伝わって来ました。機は雲の中を突っ込んで降下を始めたんです。私は続けていた航跡図の記入を止めて前方銃を握り締め、このまま敵艦に体当たりするような気がしてきました。「そし敵艦が見えたらバリバリと撃ちまくり頭から突っ込んでやれ!」と思い、腹這いの姿勢になりました。
なかなか洋上が見えず機体は雲中を降下していました。するとだんだん緊張した頭の中に様々な思いがよぎってくるんです。お袋の顔、親父の姿、兄弟、姉妹、田舎の景色、勤務先であった会社の建物、友人の顔等々……。
ふと我に返り、「これではいかん、落ち着いてないから、シャバのことが浮かんで来るのだ! いかんいかん」と妄想を打ち消すよう努力しました。「そうだ何か食べれば気持ちが落ち着くだろう」と、持ち込んでいた航空食糧、乾パン、元気食、チョコレートなどを手当たり次第、口に頬張って機関砲の引き金に神経を集中していたんですよ。
--------緊張感が高まりますね。
前村‥突然上の方からバリバリと音がして、後上砲の今軍曹が撃ち始めました。「敵機来襲っ!」と機長が怒鳴る声も聞こえました。その瞬間に左前方から黒い影のような機影が交差して見えなくなった。これは敵戦闘機だなと思いました。今度来たら撃ち落としてやれと身構えて注意を払っていたんですが、これがなかなか来ない。右後方から曳光弾が激しく飛んできては、大きく弧を描いて空に消えてゆくんです。外はほとんど暗くなって僚機の影も見えません。
「よーし、この下に機動部隊がいるぞ、もっと突っ込むから注意しろよ!」と機長の声がしました。「はいっ!」と言って眼を皿のようにして索敵しました。洋上が見えたのですが、暗くて視界は300mあったかなかったかでした。
機長は500mくらいの高さで飛行を続けて時々旋回をしていました。10分も経過した頃でしょうか、突然パーツと機内が明るくなり、パーン!と炸裂音が機内に響きました。しまった!高射砲にやられたっ!と思ったのですが、エンジン音に変化はなく機は順調に飛び続けていました。
--------そのときの機内の皆さんの様子はいかがでしたでしょうか?
前村‥伝声管から「前村! お前どこかケガをしたろう!」と機長の声がしました。「いいえ大丈夫です」「いや何処かケガをしたはずだ、もう一度体を触って見ろ!」。私は足の先から頭まで触って見ましたが、どこもケガはなかったんです。「大丈夫です」と答えると機長は「良かったなあー、充分気をつけろ!」と安心された様子でした。間もなく「どうも (敵機動部隊が)見つからん、燃料もないから浜松に帰るぞ、針路は何度か?」と私に尋ねられました。
しまった!航跡図は目標地点から何もやっていない、さあ困ったぞと思ったのですが、とっさに考えました。目標地点から測定すると大体358度の方向だったので、念のため2度ほど修正して「356度!」と機長に答えたものの、気が気ではなかったです。ええい!何とか陸地に着くだろうと、運を天に任せました。
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その4
◆初陣!「攻撃ハ特攻トス」(4)
--------移動中は保針をとることで、航法の地点標定をずっとやっていらっしゃるわけですか?
前村‥そうです。30分くらいは飛んだでしょうか、私の心は落ち着かなかったです。なかなか陸地が見付からないんですね。私は航法手としての責任を感じて焦りました。航法を誤ったり計算間違いしたりしたら名誉に関わるということで、慎重に慎重に何回も測定しました。偏流測定とか対地速度測定とかをやりました。しばらくすると、うすぼんやりと陸地らしいものが見えて来ました。さて何処だろうと地図を拡げながら見ていると、何かキラキラ光る湖のようなものが見えてきます。
よく見ると浜名湖です。浜松にピッタリ着きましたよ!我ながら航法うまい!なんて思って(笑)。浜名湖がピッタリ見えたもんだから、嬉しくてしょうがなかったですよ。
--------浜松に着かなかったら、自分の責任ということになるのでしょうか?
前村‥もちろんです。伝声管で「浜名湖が見えました!」 って機長の三浦中尉に言うときには、嬉しくて思わず声が上ずっていましたよ (笑)。機長からの「よーし!浜名湖だなあ」と確認された声を聞いて、ガックリと腰を落としました。操縦士に不安を与えないで本当によかったと、薄氷の思いで過ごしていただけに、緊張が解けて安心したんですね。
--------その日は浜松に爆弾を抱えたままの着陸ですから、操縦される方もよっぽど慎重でないと危険でしたでしょうね。
前村‥慎重でしたね。2回目か3回目くらいにようやく着陸復航しましたよ。というのは浜松飛行場上空に着いたら、誘導燈も見えず5~6個の小さなライトが灯いていて、滑走路付近に戦闘機の「隼」が逆立ちしてるのが見えたのです。滑走路の周囲に3機か4機ありました。それらを避けて着陸しょうと、もう一回復航して、やっと着陸したんです。我々と同じように米軍機動部隊へ攻撃に行った戦隊隊が他にもありまして、それが帰還して不時着した機らしいですね。調布の戦闘隊だったそうです。爆弾を抱えたまま無事に着陸しましたが、燃料はゼロを差していました。
--------無事に帰還して、他の戦友の方々の様子はいかがでしたでしょうか?
前村‥機から降りて驚いたのは、逸木軍曹が足にケガをして歩けなかったことです。今軍曹と西巻軍曹が肩を貸して、やっと歩いていましたが、どうやら機長が「敵機動部隊が見つからないので浜松に帰る」と言われたことを残念に思って口惜しさのあまり、自分の拳銃の引き金を引いて、足の甲をぶち抜いたとのことでした。それを機長が私がケガをしたと思われたらしいです。
--------特攻と言いながらも無事帰って来たときの心境はいかがでしたでしょうか?
前村‥ホッとしたという気持と同時に、自分が責任を果たせなかったという無念の思いもありました。その夜私たちは浜松の基地に宿泊しましたが、機長は天井をギラギラした眼で睨みつけながら「あそこに敵機動部隊はいたのだなあー」とつぶやいていました。
翌日3番機は各務ヶ原に不時着し、操縦士と機関の方が敵弾に撃たれて負傷したとのことです。2番機の崎下少尉ほか5名と、戦果確認機の新海戦隊長以下5名の方々はとうとう帰って来ませんでした。
筑波に帰還して、戦隊長代理伊藤中隊長に三浦機長が状況報告の申告をされましたが、そのとき、「よく帰って来た。急いで死ぬばかりが国のためではない。この次もあるのだからよく休みなさい。ご苦労!」と温かい眼差しで、人間味溢れる言葉をかけられたのですが、目的を果たせなかったと自責の念がいくらか軽くなったのは、私ばかりではなかったと思いますね。
--------そのときには状況が判らなくても、戦隊長を含め何機かは帰って来れなかったと後で聞くと……
前村‥やっぱり気が重いですよね。
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特攻インタビュー(第1回) 後編 その5
陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その5
◆相次ぐ墜落事故
--------浜松飛行場から西筑波飛行場へ戻られて、しばらくそのまま訓練を続けたのでしょうか?
前村‥はい。浜松での特攻出撃が3月19日でしたから、翌20日には西筑波に帰隊して、再び離発着の訓練を繰り返しました。
--------その頃は本土各地で本格的な空襲も始まり、沖縄の特攻隊のことが日々ニュース映画に出ていたと思うのですが、基地にいても当然いろいろ耳に入ってきたのでは?
前村‥東京の3月10日の下町の爆撃だったのかどうかは判りませんが、西筑波からも東京方面の空が赤くなっているのが見えましたよ。あのとき、相当燃えていたと思ったなあ。
--------西筑波の基地には、敵機の空襲はなかったんですか?
前村‥いや、ありました。もう終戦近い7月頃からありましたね。8月には何機か来て機銃掃射をやっていました。うちの部隊でもたこつぼ、防空壕を掘り、機関砲を備えて兵隊は散々応戦していました。1機か2機撃墜したこともありましたね。
--------そういう場合、空中勤務者は防空壕に逃げたのですか?
前村‥そうですね。射手は機関砲持って応戦すると。我々操縦士や航法士は、機関砲持っても役に立たないんですよ。撃ったことないから……。まあだから、私なんかは戦争に行っても、人を殺したことないから。
--------4月になってから、沖縄特攻ということで、太刀洗飛行場に移動されましたね。
前村‥4月12日に戦隊長が航空士官学校46期の澤登少佐に替わって、3日目か4日目くらいじゃないでしょうか。澤登少佐は、「4月には敵が沖縄に上陸し、我々飛行第六二戦隊も沖縄の基地に対して攻撃する、カミカゼが吹いたように目覚しい活躍をしてくれ」と訓示をしました。4月12日は飛行機が全部で10機か12~13機あったと思います、そのとき・…:ああいうこと今までなかったんだけど、近所の婦人会だとか女学生が、全員日の丸の旗を持って、見送りに来ていました。
天蓋を上げて空中勤務者がみんな手を上げて振って、見送り人の前でデモンストレーションをやるわけです。あんなこと初めてでしたけどね。そういうような場面があったら、その1番機に澤登さんという戦隊長が乗って、皆さんの見送りを受けて滑走路を飛び立ったと思ったら、即墜落したのです。その機には12名が乗っていました。よくキー167に12名も乗って……。
当時のことを後でいろいろな人に聞いてみると、酒の樽を乗っけていたとか、米俵を乗っけていたとか、様々な噂があるのですが、はっきり何とも言えず原因は不明です。戦隊長機が墜落してボンボン燃えているもんだから、我々は直ぐ救出に行こうにも危険で、出るに出られず1時間くらい遅れたのかなあ。
--------見送りの人たちのいる前で墜落したのですか?
前村‥そうなんですよ。澤登さんの奥さんもいました、奥さんは身重で、お腹が大きくなっていました。私の飛行機は4番目か5番目を通っていって離陸したのですが、上空から見たら、1時間らい経ってもまだ墜落した飛行機が燃えていましたね。その燃えている上を飛んで太刀洗の飛行場に行ったんです。私らは何とか太刀洗へ無事に着いたのですが、次に来る飛行機を見ていたら、1機が着陸した途端に脚が折れてガクッと滑走路で横になってしまい、その次に降りて来た飛行機は、これが邪魔になって降りるに降りられなくて2回ぐらい復航したけれど、燃料切れなのか (1目を飛び越えて)、また墜落してしまったんです。その次に来た飛行機は、今度いよいよ降りられないものだから、しばらくは雁ノ巣(がんのす) だとかあの辺の空を周っていたようですが、後で調べたら四国と九州の間の海に結局墜落していたそうです。
--------空中勤務者も、ほとんど亡くなっているわけですね?
前村‥ええ。あんなに日の悪い日というのがあるのかなあと思うくらい、あの日は4機の飛行機が墜落していて、私は3~4日は飛行機に乗るのが嫌だったですねえ、気持ちが悪くて……ああいうことがあるんですねえ。写真の中に空中勤務者がみんなで並んでいる写真がある、あれが澤登さんが訓示しているところなんですよ。
--------これが澤登さんの最後の写真になったわけですね?
前村‥そうなんですよ。墜落した場所と思われるところに、慰霊碑があります。村の人たちや遺族会の人たちが慰霊碑を作ってくれたんです。飛行第六二戦隊でもいくらか我々が出しましてね。ところがこの場所には行くに行けない。畑の真ん中にポッンとあるもんですから道も何も無い。どういう風に行けばいいか、どの道を通っていいか分からない。必ず村人に連絡して案内して貰わないと行けないんです。
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その6
◆再び特攻へ(1)
--------4月12日の太刀洗の移動の時には、特攻隊の出撃というのはもう分かっていて、その準備のために行くぞ、ということで行かれているんですね?
前村‥はい。このときは既に空中勤務者の区分は決まっていました。岡田曹長と三沢伍長と田中伍長と私の4人、このペアで決まっていましたね。
--------出撃が何月何日になるかまでは分からなかったのでしょうか?
前村‥ええ、まだ分かりませんでした。だけど4月12日にこの事故があって、筑波を出て17日には、私はもう特攻出撃していますからね。17日に出撃したということは、15日にはもう太刀洗から鹿屋へ進出しているんですよ。それで鹿屋に二晩泊まって、17日の朝早く6時半頃に離陸してますからね。鹿屋を離陸するときから「超低空で行け」という命令でした。
桜島も窓下に見えましたが、それよりも開聞岳(かいもんだけ)の方が印象に残っています。
どうも超低空で行くと、「薩摩富士」とも言われている開聞岳という山が、何か蟻の塔のように細長く見えましたね。それがいまだに強く印象に残っているんです。
超低空でずっと行って、奄美大島の右側、こっちから行ったら奄美大島を左側に見て、それから奄美大島から低空で行くと徳之島が見えて、その徳之島の太平洋側というのが、ものすごく切り立った崖でね、高い……それこそ、本当の切り立った崖だったですね。その崖の上に "亀津(かめつ)″という街がありまして、これが爆撃で相当やられていました。それらが近づくにつれて、だんだん見えてきましたよ。
--------もう何千mも上空じゃなくて、同じ目線くらいからずっとでしょうか?
前村‥そうなんですよ。徳之島を通って、それから「方向を変えろ」という命令だから、いったん大東島の方向へ行って洋上変針して、また与論島の方向に行くという約束だったから、その通りに行ったら前方の加藤中尉の飛行機がやっと見えたんですよ。いやあ、航法が間違っていなくて良かったなあと (笑)。そんなことばかりですよ。死ぬとか死なないってことよりも、まず航法を間違えないっていうことが最も重要でしたからね。だから前の飛行機が見えただけでも実にホッとしたのだけど、見えた途端に加藤機がやられてしまったでしょ。
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その7
◆再び特攻へ(2)
--------そこで敵機の襲撃を受けたのでしょうか?
前村‥はい。たぶん沖永良部島か与論島か、その辺ですよ。
--------いきなりバーツとやられて初めて敵機の襲撃と分かるといった感じだったのでしょうか?
前村‥そうなんですよ。加藤機が白煙を吹いてから初めて「やられたな」と思いました。岡田さんも実戦は初めてだったと思うんです。それで旋回した途端に敵のグラマン戦闘機が、既にここまで(手振りを交えて)来ていたんですよ。こんな近くに来てちゃ重爆でなくて戦闘機でも撃てません。
加藤機は、左のエンジンからバーツと煙を出し始めました。それから上昇反転し、そのまま海に向かって真っ逆さまになりました。一部始終を確認してはいませんが、恐らく最後は海の中に落ちたと思います。やがて煙を出した加藤機を見ているうちに岡田曹長がとっさにバーツと180度旋回し始めたんです。そして水平飛行に移って洋上すれすれに滑空したときには、いつの間にかグラマンがバリバリと攻撃しながら執拗に食いついて来ていたのです。敵の操縦士の顔まで見えるくらいの至近距離でした。そして、瞬間的に振り切りました。
そこで岡田さんが、「(あの戦闘機に)体当たりやるかあ!」と鋭い悲痛な声で言い出したんです。私は重爆撃機が戦闘機の前で旋回をして体当たりなんてできっこないと思い、「もったいない、グラマン1機では! こちらは重爆ですよ」と反対しました。岡田さんはそれに対して何も言わない。死ぬつもりでいたんだろうと思います。奄美大島が見えた頃にはグラマンも諦めたのか、それ以上は迫って来ませんでした。ほっとした途端に何か空しい思いが残ってやり切れなくなりました。加藤機が撃墜されたときの光景が生々しく脳裏に焼き付いていたからです。
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その8
◆再び特攻へ(3)
--------グラマンを振り切った後はどうされたのでしょうか?
前村‥やがて岡田さんは与論島まで行き、それから日本海方面に抜けて、特攻を断行すべく沖縄方面へ向かったのですが、燃料がなくなって片方のエンジンが止まってしまいました。それじゃどうするかというので、「とにかくいったん帰れるだけ帰って、途中の島かなんかで砂浜にでも不時着して、もう一回燃料を積み直して出撃しましょう」と、偉そうに機長に意見を言いました。岡田さんは話を聞いてくれて、鹿屋に帰ることにしました。鹿屋に着いたら機体に2cmか3cmくらいの穴が30個ほど空いていました。戦闘機に撃たれた跡です。どこであんなに弾が当たったのかなあと不思議でしょうがない。よく帰って来れたなと思いました。もちろん、その飛行機は再び飛べる状態ではありませんでした。
それっきり私は出撃していないんです。5月25日の4機での特攻出撃の際も待機でした。もう飛べる飛行機も無かったですけれどね。出撃前に(さくら弾(キー67を改造し重さ2・5トンの対艦用大型爆弾を機体上部に内装搭載した特攻機で前方3km、後方2kmは火の海になると言われていた))という重爆機を取りに行ったんですが、(さくら弾機)は試験飛行中に事故で墜落していました。もし(さくら弾機)が墜落事故を起こしていなかったら、5月25日の溝滝機・福島機・工藤機・古田機の中に入って、私も特攻に行っているはずなんです。
--------機内で銃弾を受けて亡くなったとか傷ついた方はおられましたでしょうか?
前村‥誰もいませんでした。怪我した者もいませんでした。
--------800kg爆弾に誘爆もしなかったのでしょうか?
前村‥ええ、それで鹿屋に戻っても無事に着陸できて、よく爆弾を2発抱えたまま着陸したものだなと肝を冷やしましたけれどね。
--------当時、鹿屋は海軍の飛行場ですが、陸海軍共同で使っていたのでしょうか?
前村‥いえ、原則的には使っていません。なにしろ緊急着陸でしたからね。うちの陸軍飛行第六二戦隊の飛行機が海軍の基地を利用させて貰ったのは、緊急とはいえ我々くらいじゃないでしょうか。
--------大体陸軍機の特攻は、万世や知覧から飛んでいましたね?
前村‥知覧とか万世は飛行場が小さく滑走路が短いから、戦闘機の特攻はそれでも良いのですが、重爆撃機の特攻では使えませんでした。戦隊でも重爆撃機戦隊で特攻命令を受けたのは飛行第六二戦隊だけで、他は受けてないんですよ。飛行第六一戦隊なんか雷撃隊で活躍してたけど。飛行第六二戦隊だけなんですよ、特攻部隊として出撃指定されたのは。運が悪いっていえば運が悪いんでしょうが、誰かが悪いわけじゃないけどね。
--------それでへさくら弾機)や(と号機)は飛行第六二戦隊に配属されたのですか?
前村‥そうなんです。飛行第六二戦隊以外には、(と号機)も(さくら弾機)も特攻では行っていません。
--------(さくら弾機)を実際に見た人は、飛行第六二戦隊の方しかいないのでしょうか?
前村‥いないです。普通の飛行機よりもちょっと色が濃い気持ちの悪い灰色をしていて、不気味な格好の双発飛行機でしたよ。
--------(さくら弾機)は太刀洗で受領されたのでしょうか? それとも各務ヶ原ですか?
前村‥各務ヶ原でした。
--------前村さんがご覧になったのは、各務ヶ原でしょうか?
前村‥そうです。その前に近藤が乗ってた金子機(さくら弾機)は、それは太刀洗で見ました。
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その9
◆再び特攻へ(4)
--------この4月12日以来、17日に鹿屋に戻られて、その後一回太刀洗にまた戻られるんでしょうか? それともそのままずっと鹿屋にいらっしゃったのですか?
前村‥いえ、鹿屋に帰ったらね、もうその飛行機は被弾が激しくて飛べなかったんですよ。「飛べない」 っていう判定を受けて、その晩に太刀洗から迎えに来てくれました。迎えに来てくれた人が、岩本大尉という整備班長と大熊中尉という操縦士でした。17日に帰還したら17日に、そのまま鹿屋に泊まらないで太刀洗に帰りました。
--------特攻隊に出撃し、いろいろな理由で戻られて来た方の中で、「何で帰ってきたんだ」とか言われたという話を聞くのですが、前村さんの場合はそんなことはありませんでしたか?
前村‥私の場合は全然そういう場面はなかったです。だけど、岡田さんが機長として、私が知らない間にあの辺に来ていた参謀から怒られたのかなあ?という想像はするんですよ。おとなしい岡田さんは、あまりもの言わなかったですから。
--------岡田機長さんは、少年飛行兵出身とか?
前村‥いや、これが単なる下士官あがりの曹長なんですよ。
--------普通の兵隊さんで入隊して、下士官操縦として合格して転科されたのでしょうか?
前村‥そうです。おとなしい人だったけど、誰かに何か怒られたのかなあという想像はします。…というのは、その17日に帰って来て、1週間後には私なんかも一緒に各務ヶ原へ (さくら弾機)を受領に行っていますからね。もともと寡黙な人で、各務ヶ原で飛行機を受領してからも、あまりお喋りしなかったように思います。
--------ちょっと落ち込んでるっていう感じでしょうか?
前村‥それが参謀から怒られてなのか、それとも何か予感がしたのか……その辺は私にはよく分からないんです。私は自分が死なないで済んだなあっていうような単純な気持ちだったからかもしれません。あるいは岡田さんほどの責任感はなかったからかもしれない。
--------もうその頃になると、宇都宮から一緒にいらした10人くらいの同期生は、一人欠け、二人欠けという状況だったのでしょうか?
前村一そうです。新海さんが3月19日に亡くなったときに、小見忠三郎が帰って来なかった。新海機に乗っていましたからね。4月17日のときには近藤知康が(さくら弾機)で死んでるし、4月17日までは同期の連中ではそんなもんでしょう。
--------すると同期の方も何人かいらっしゃったので、そういう人たちと一緒に憂さを晴らすということもできたんですね?
前村‥そうです。そして5月25日になったら、出撃して永野が亡くなっとるんですが、でも花道は帰ってきたし、大内も帰って来たし……彼らは行くときに階級が上がって行ってるからね (笑)。私たちは兵長のままなのに、彼らは伍長になって下士官室にいるでしょ(笑)。
--------前村さんは兵隊と一緒なのに?
前村‥兵隊さんと一緒です(笑)。
--------一応立場上は、上官と部下ですね。
前村‥そうなんですよ。「おい、お茶持って来いー」なんて威張りやがって(笑)。その話を戦後「お前らあのとき威張ってたなあ」なんて言うと「俺、そんなに威張ってなかったよ」なんて言って…(笑)。
編集者
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陸軍航空特攻 前村 弘氏(後編)その10
◆再び墜落事故に…(1)
--------キー67(四式重爆撃機飛龍)、(さくら弾機)と(と号機)の話なんですけども、4月17日の出撃は、この(さくら弾機)と(と号機)で、前村さんが乗られたのは(と号機)の方なのでしょうか?
前村‥(と号機)です。
--------(と号機)も通常機に比べて爆弾は多めに担いでいるわけですが、乗られる場所の目の前に、ごっつい6個の電信管が取り付けられています。配置場所はいつもと同じだったのでしょうか?
前村‥同じです。これは標準機とちっとも変わらなくて、本来は爆弾槽に800kg爆弾1発を積めるのですが、1発しか積めないのにもう1発はどこにあったのかと言いますと、胴体の中に800kg爆弾を入れて、離着陸のときに緩まないようワイヤーで縛り付けてあるんです。それで、破裂したら連動するような電気的な繋がりがあります。あとは機関砲などの武装が全然ないというくらいが標準機との違いです。燃料タンクも一つくらいは外してあったかもしれないですね。
--------前村さんは機のどのあたりに乗られたのでしょうか?
前村‥操縦席のちょっと前方下の、下に風防ガラスがあるだけの前もどこも見えない真っ暗な場所です。小さな窓があるのですが、いつも独りなものですから淋しいですよ (笑)。
--------各務ヶ原で、今度(さくら弾機)に乗るということで、受領に行かれたと…。
前村‥4月24~25日に、各務ヶ原へ(さくら弾機)を受領に行ったんですよ。沖縄から帰ってから1週間後に。それで、何かの都合で長野県の松本飛行場に行ってるんですよ。あそこに三菱重工の工場がありましたからね。松本の飛行場で何か部品を受け取ってから、その晩は信濃屋に泊まり、翌日電車か何かで各務ヶ原へ行った。そのときから岡田さんが無口になった。いつもより余計に寡黙な状態だったですね。
--------そのときは試験飛行ということで?
前村‥そうです。そのときに岡田さんも(さくら弾機)を操縦するのは受領して初めてでしょ……おそらく格納庫から受領して、エンジンでプロペラを回して地上を滑走するときに、飛行機の振動とか、重いから相当プロペラの回転を上げなければ進まないとか、操縦桿に伝わってくるものが異常で、通常の飛行機とは違うというのを感じ取ったんじゃないかと思うんですよ。
ふつう日本の軍用飛行機の場合、滑走路まで来ますと、一回停まって脚のブレーキをかけて、双発だから両方グアーつて一回ふかして、正常にまた戻してからスタートつていうのが出発の仕方だったんです。今の民間航空は、滑走路に来たらいきなり離陸します。
昔の軍隊の飛行機は、必ずここで1回止まって、それでブレーキかけてエンジンをふかすというのが通例だったんです。
地上滑走して滑走路の出発点まで来たときに、操縦桿を押さえ込むようにして俯いていた岡田機長が、急に顔を上げて「前村候補生、田中伍長は降りろ!」と命令調で言うもんだから、「試験飛行は初めてですから一緒に行きます」と答えました。そのときには我々の身体はもう完全に機内に乗っていたんです。でも「どうしても降りろ!」と厳しい口調が岡田機長から返って来ました。「はい、それでは爆弾照準眼鏡の点検、受領がありますから格納庫へ行きます」と答えて、私と田中伍長は機体から降りて格納庫へと向かいました。