表参道が燃えた日(抜粋)-山の手大空襲の体験記-
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- 表参道が燃えた日(抜粋)-原宿・穏田・表参道・8 (編集者, 2009/5/30 8:05)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-原宿・穏田・表参道・9 (編集者, 2009/5/31 17:47)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-青山南町五、六丁目南側・高樹町・1 (編集者, 2009/6/2 8:10)
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原宿・穏田附近
表参道周辺
兵役中に失った父と二人の妹
榎本 新一
私の先祖は今の栃木県小山の榎本城の城主でしたが、小田原の北条氏に滅ぼされました。今でも家系図が残っています。祖父は埼玉県の水深で村の収入役をしていましたが、米の相場に手を出し、財産を失いました。父は東京に出てきてテーラーになり、苦しい家計のなかで六人の子供を育てました。
私が育ったのは日本橋の浜町で、明治座のすぐ近くです。昭和二十年三月十日の空襲の時は、明治座に入った人はみんな亡くなったようですが、私の家族は浜町公園に逃げたため助かりました。長男の私は軍隊に入っていて家にいませんでした。
昭和十五年に兵役につき、十八年十一月に満期になって軍関係の会社に入り、軍人会館(今の九段会館)の将校の服など作っていました。その会社を辞めたらすぐ、十九年十一月に召集され、横浜三ツ池の高射砲連隊に入りました。衛生兵でした。
浜町の家が焼けて行き場がなく困っていた時に、私のいとこの青山の厚治医院の母親が、今のこの場所の木造作りの空家を探してくれました。青山に移ってまもなく、また空襲に遭ったわけです。五月二十五日の空襲の時も、私は横浜から赤く燃えている東京の空を見ていました。家には両親と二十四歳と十九歳の妹がいて、上の弟は中学から動員されていたのかその夜は家にいなくて下の弟と妹は学童疎開をしていました。
父親は警防団で外を見回っていたようですが、すぐ隣に焼夷弾が落ちたので母親たちを連れ出して表参道の方へ出ていきました。避難するのがもう遅かったようです。強い風と火の粉に巻き込まれ、四人は離れ離れになってしまいました。母親は足が遅かったため逃げ遅れているところを山陽堂書店の人に助けられ、建物の中に入れてもらいました。
翌日早朝、近所の乾物屋の主人が表参道の方に見にいきましたら、道路には黒こげの焼死体がいっぱいで、安田銀行(現在のみずほ銀行)の扉の前には大勢の人が折り重なって死んでいました。灯籠と灯籠の間のところに明治神宮の方を向いて座って頭を下げている人が、どうも榎本さんらしいと母親に知らせてくれました。母親がそのあと見にいった時にはもう姿はなく、父親らしい人がいたというその場所に鉄かぶとがあったので持ち帰ってきました。父親のものに間違いありませんでした。
現場を通った人の話によると、翌朝早く、軍の車が来て道路の焼死体を運んでいったとか、銀行入り口の横にうず高く焼死体が積み重なっていたとか聞きましたが、父親の遺体はどこに行ったか結局わからないままです。
妹たちは青山墓地に行こうとしたのでしょうか、青山警察署(今もある「紅谷」の近く)の前の青山通りの真中でうつぶせになって倒れていました。着ていた服の柄からわかったようです。道路は焼夷弾の油で滑るようだったそうです。下の妹の方はすでに息がなく、母親は髪を切り取り、名前と住所を書いた札を付けてきました。遺体はその後、梅窓院の裏の空き地に仮埋葬され、遺髪と父親の鉄かぶとは榎本家の墓地に納めました。
上の妹は息があったので日赤に運ばれましたが、治療の甲斐なく、破傷風で六月十一日に亡くなりました。幡ヶ谷で上の妹を火葬にする日に、私は空襲以来始めて横浜の軍隊から許可をもらって青山に出てきました。家は焼けてなくなり、一人になった母親は埼玉の実家にもどっていたようです。上の妹は親類筋の静岡の家に養女になることがきまっていましたが、その矢先の惨事でした。遺骨は養女先の墓地に納められました。
私は横浜の連隊から仙台、福島の中隊へと移り、終戦で家にもどりました。二十二年、焼け跡に木造の家屋を建てました。今のこの土地は元浅野家の土地で、相続で物納になっていたものを国から買いました。
下の妹を仮埋葬した所には木の墓標が立っていて、私たち家族はお彼岸や命日には墓参りに行きました。三十二年ごろでしたか、行ってみたら、お墓はなくなり、野球場になっているのです。何の知らせもありませんでした。どこへ聞いたらよいかわからないまま十数年が経ち、その間に母親は亡くなりました。私は渋谷区の町会長や商店会長などをしていたので渋谷区のことは多少わかっていたのですが、港区のことはまったく知りませんでした。あの場所は青山墓地と隣接していますが、港区の土地だったのでしょうか。港区の知り合いの区会議員に頼んで調べてもらいましたら、多摩霊園に移したということでした。石原知事になってから、東京都から通知がきました。墨田区の都立横網町公園内に空襲犠牲者のモニュメントを作るための名簿の確認と建設募金の依頼でした。私たちはいくらかの寄付をし、落成の時にはみんなでお参りしてきました。
横網町公園にはもともと震災記念堂がありましたが、三月十日の東京大空襲の犠牲者を合葬することになり、東京都慰霊堂と改名されました。また東京都は、戦争被害の記録を集める平和祈念館を作る予定だったそうですが、財政難を理由に八年前からストップしているのは残念なことです。
青山の善光寺では毎年五月二十五日には戦災で亡くなったかたたちの法要が行われ、善光寺の役員をやっておられた津川さんからいつも声をかけられ、伺っておりました。津川さんも亡くなられ、もう法要はされていないものと思っていましたが、続いているのですね、来年はお参りに行きたいと思います。
母親は空襲の日のことを繰り返し私や家内に話していました。いっしょに逃げた夫の、遺体すらみつからず、二人の娘を亡くして自分だけが助かったことをどんなに苦しんだことでしょう。山陽堂さんのことは命の恩人だといっておりました。
私がいた横浜も空襲が何回かありました。横浜には軍の施設や大きな工場があり、白昼米軍機が編隊で飛んできて爆撃しました。東京の下町や山の手は一般の民家や民間人をねらいうちした感じです。遺体の処理についても身元がわかるまで安置もせず、遺骨の扱いについても、遺族には何も知らせないで区や都の都合でたらい回しにするなどひどいものです。
家族そろって過ごした浜町の家をなつかしく思い出します。私が月に二、三回軍から外出して家に帰りましたが、父親は「ゴンドラの唄」を歌って待っていてくれました。もう戦争は始まっていたけれども平和なひとときでした。
父親や妹たちがもっと早く避難すれば死ななくてすんだのに、さらに逃げ遅れたために母親が助かったこと、私も外地に回されていたら戦死していたと思うと、何か運命のようなものを感じます。
(平成十九年六月十六日談)
(渋谷区原宿二丁目)
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東京山の手大空襲と特攻生き残りの戦後
大貫 功
今は暗渠になった穏田川に
かかっていた参道橋の石柱
麻布中から早大政経の途中で、戦局悪化のため徴兵猶予打切りとなり、海軍飛行予備学生として三重海軍航空隊に入隊。
昭和十七年六月のミッドウェイ海戦大惨敗以後、大本営発表はウソの固まりで、終戦まで国民は実状を知らず、急追してくる米軍の動きに、暗黙のうちに敗色濃厚を感じ取っていた。ついに昭和二十年三月、米軍沖縄上陸、この五月ベルリン陥落、ドイツ降伏!日本は世界で孤立した。
昭和二十年三月十日未明、東京下町の大空襲。日本の弱点、木造家屋を、*百五十機のB29が焼夷弾で焼き尽くした。死者約十一万…。日本の陸軍記念日(日露戦争の奉天大会戦勝利の日)をねらった。当然、次の大空襲は五月二十七日海軍記念日(日本海海戦圧勝の日)、東京山の手は気象条件で二日早まったといわれる。(*編注 米軍資料によると三二五機)
三月十日大空襲の直後、原宿の母から隊に手紙。「東京も危なくなったので郷里の秋田に疎開することにした。最少限の衣料寝具と台所用具をまず送り、親戚の一間を借りる。父だけが東京に残るが、その身の回りの世話もあり、挺身隊の仕事もあるので静子(功の妹)も残る。万一の場合を考えて、親戚名簿、貯金通帳の写しや重要書類の写しを作ったのでそれを送る。」そして、後で笑い話になれば幸せ…と結んであった。事、志と違い、これは役に立ってしまった。
五月二十六日朝のラジオで「大本営発表」。「昨夜二十二時三十分ごろより、*B29約二百五十機帝都市街地に対し、焼夷弾による無差別爆撃、恐れ多くも宮城、大宮御所に被害。三陛下、賢所(かしこどころ)は御安泰にあらせられる」。この時点で原宿の家も気になった。(*編注 米軍資料によると五〇二機「日本の空襲十補巻資料編」)
六月四日、昼食の時、分隊長S大尉が私に、「食べ終わったらすぐに私の所に来い」。その私室に入るや否や、電報を示された。
「二六ヒイエヤケハハシスチチジユウショウミナアキタニイルカエレルカへン」
「貴様の気持ちはよく分かる。しかし戦争だ。貴様長男だしお父上も重傷。母上の葬儀を立派にやって来い。往復日数を含め六日を与える。」名古屋-長野-羽越廻りで秋田に急行。全身真白な包帯に巻かれた父は意識はあって話も出来た。菩提寺の葬儀には参列出来なかった。
父の側で三晩寝た。海軍士官服の自分を見せることが出来たことはせめてもの慰めと考えた。父が生き延びられるかどうか?私がいつ戦死するかどうかは分からない。誰も聞かない。三日後三重航空隊に戻り、軍務に復帰。
空襲の実情は妹に聞いた。当時家族は渋谷区原宿二丁目に住んでいた。
五月二十五日二十二時過ぎ、空襲警報とほとんど同時にあの独特のB29の爆音。そう!実はこの三日前、父も妹も秋田に疎開することになり、母は最後の荷物整理のために上京していたのだ。
いったん、庭の防空壕に入ったけれど強烈な音と焼夷弾の雨あられ、一軒当たり三発ぐらい。たちまち火の海になってしまった。「防空演習」など全く役に立たない。隣組の取り決めでは、ダメな時は表参道に出て明治神宮の杜に避難する。何十人という一団が表参道方面に動いた。しかし「表参道はもうダメだ!火の海だ!近衛歩兵四連隊の方から外苑に逃げろ!」と押し返され、狭い路地をひしめきながら反対に歩いた。
三百メートルぐらい先に防火用の小さいプールみたいなものが作られてあった。皆いっせいにそこに飛び込んだ。深さは腰ぐらいの水だったが、結局ここで水につかりながら時々顔や頭も水につけて、いわば火攻め水攻めの状態で午前三時ごろの鎮火まで待った。結局体力勝負になる。老人、婦人、幼児は次々に死んで行った。母(四十六歳)は頑健な体ではなかったのでここで息を引き取った。若い妹も何度もフッと気が遠くなるような、身体の力が全くないような感覚になった。午前四時ごろたくさんの兵隊が助けに来て、妹は引きずり上げられた。父は一時意識不明(全身大やけど)だったが、応急手当を受けて助かった。「戦災証明」と「重症患者」ということで秋田までの切符を発行してくれた。
遺体の処理は陸軍の兵隊の仕事、たくさんのトラックが来て、認識票で氏名と身許を確認して、髪の毛を少し切って遺族や友人に渡す。後は何百人とまとめて埋葬してしまう。母や原宿の人々の遺体の埋め場所を隣組の人達が軍に聞いたが、分からなかった。兵士や人夫たちは上官から埋めた場所を言ってはいけないと厳命されていたという。母の葬儀でも遺骨の代りの役をしたのは髪の毛だ。
あの夜、表参道と代々木練兵場、明治神宮は、何千、何万という人が火の粉を浴びてひしめいていた。今、暗渠になっている穏田川も、前述のプールと同じく、多くの人が辛うじて助かった。表参道から青山通りに出る角の「安田銀行」前でも多数の死者が出た。
海軍航空隊にいて現場を知らなかった私は、六月末から七月初め、横須賀に短期出張を命ぜられた。ある日曜日、五時間の外出許可を得て、原宿、穏田、渋谷の焼け跡を海軍士官の服装でさまよった。一望千里の真黒な焼け跡。幼稚園、小中大学と思い出のつまった故郷。地上に何もない。ただ道路だけは小路に至るまで昔のまま、ここはO君の家だった。ここは誰さんの家…。あまりにもよく分かる。しかし真平らで真黒なのだ。そして一時間ホッツキ歩いても誰一人知っている人に会わないのだ!
海軍航空隊で二度死線を越え、さらに「神風特攻隊」として出番は十一月一日頃と言われていたが、八月十五日突如終戦となった。
残務整理を終え、九月一日秋田に復員。父は奇跡的に全治して上京していた。私もすぐ上京した。家族全員が辛うじて入れる惨めな壕舎生活が二年。早大政経学部に復学した。重労働のアルバイトをしながら、昭和二十三年に卒業して高校の社会科教師になる。
昭和四十三年、フォード財団の招きで高校の「政経」の教師二名(私も選ばれる)がアメリカ・ミネソタ大学に短期留学。渡米前に「神風体験は絶対言うな」と言われていたが、歓迎パーティであっさり自白した。手を振り上げて私に走り寄り、抱きついた大男たちはかつてロッキードやグラマンのパイロットだった。日本海軍航空隊、ゼロ戦、特にカミカゼは最も尊敬する敵だったという。私はその後も全米各地の教育集会やアメリカ教育使節団の受け容れを担当して来たが、常に同じことが起こる。彼らもあの戦争を肯定している訳ではない。
勇敢に戦った特攻隊を称え、無事生き残って再会したことを喜んでいるのだ。「個人として何の恨みもないのに、国家が背景につくと、憎み合い、殺し合ったのが戦争だ」。私は自分の体験で痛切に感じている。”戦争は二度としてはならない!″と。
(神宮前小学校第六回生 大正十三年九月二十一日生 渋谷区原宿二丁目)
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ケヤキの道
木村万起 (表紙絵「ケヤキの道」の作者)
同潤会アパートにあった井戸
過日、青南小学校のクラス会の折、久し振りにJR原宿駅から、青山通りの石灯籠までの表参道を歩いて、私は今浦島になったのかと驚きました。
蔦が絡んで、重厚な風情だった同潤会アパートはメタリックな輝きの表参道ヒルズに変身していました。ヒルズの一隅に昔日のアパートの面影を残すために、当時の階段の踊場がしつらえてありました。その窓からケヤキの緑が日に映った瞬間、かつて幼かった時この窓から見た光景と二重写しになりました。それは、「音を立てて燃え上がるケヤキ」の姿でした、私はその光景を絵にしておかねばと願いながら、なかなか果たせませんでした。
あの生々しい惨状を超現実的な幻想の中で、再びケヤキが、私に語りかけてくれるまで、描けなかったのです。やっと、ケヤキが語りかけてくれた時、私はすっかり白髪になっていました。
私はこの「ケヤキの道」で今までに出会った風景を、一つの画面に時を追って表現してみたいと思いました。
昭和のはじめの新しくモダンな同潤会のアパート、インバネス姿のお洒落(しゃれ)な人、橋のたもとの風車(かざぐるま)売り、セルロイドの風車がカラカラと鳴っているのどかな道。
そして、神宮へ行幸される天皇のお召車をお見送りする私達青南小学校の子どもたち。「両手は膝下まで、頭を深く下げるように」と言われても、そっと見てしまう子どもの目。けれど、幼い頃の風景は炎と煙の中に消えて行きます。
兄達は次々と召集され戦地へ向かいました。行く先も告げられず、輸送列車の窓から兄が投げた紙片が巡り巡って、母の元に届きました。「南十字星の見える所へ行くらしい」と走り書きされていました。
文字通り、女、子どもだけが残され、日に日に烈しくなる空襲の下で、どうすることも出来ません。都立第三高女の二年生だった私は工場化した学校へと、ケヤキの道を通いました。
一九四五年五月二十五日夜半、夜空を見上げると、木々の若葉の間に飛び魚のようなB29の大編隊が銀色に輝いていました。家を捨てる瞬間に私は台所に走って、お釜を持ちました。姉は書棚に走って、アランの「幸福論」を抜き取りました。母は小さな信玄袋だけを手にしていました。
降り注ぐ焼夷弾の光の中で、最後に見た五月の庭には満開のコデマリの花が白く、くっきりと浮かんでいました。私の持ち出したお釜で水をかぶった命の井戸は、戦後もアパートの傍らに、古びた姿を残していましたが、新しい建物の下に埋められたのでしょう。今はもう跡形もありません。
命の井戸から青山通りに出ようとしましたが、黒い煙が立ち込めていて逃げ場を失い、同潤会アパートに駆け込みました。駆け込むと同時にケヤキが音を立てて燃え上がりました。火の粉と強風が窓ガラスを叩き割ります。私達は居合わせた人たちと水盃(みずさかずき)をして、皆で手を合わせました。
恐ろしい一夜が明けて、外に出ると、窓の下に亡くなっている人、人、人。視力を失った目には、五月晴れの空が、異様に青暗く、焼けた道は、あまりにも白く、目に沁みて痛みました。焼け野をバックにして、炭になってしまった黒いケヤキの幹だけが立ち並んだ不思議な景色。
戦後、そのあとに植えられた木々が、今では大きく育って、再び美しい五月の若葉を芽吹かせています。
子どもの頃、おもちゃの乳母車に人形を乗せて、母とお使いに行ったケヤキの木陰。あのいまわしい日に煙になってしまったその人形クリチャンの後ろ姿を、戦後の参道の雑踏の中に描いてやりました。
表参道の思い出は何時とはなしに、また焼け爛れた石灯籠の在る風景に戻って行きます。
荒涼とした悲しい光景は、何故繰り返されるのでしょう。又しても近頃きなくさいお化けが、したり顔をして、甦(よみがえ)って来るではありませんか。その勇ましく頼もしい様相は、昔現れたお化けとあまりにもそっくりなので、なんだか懐かしさが感じられる程です。私は人の愚かさに絶望的になったことがあります。戦禍の話をすると、冷笑する人に幾度か出会ったことでした。惨状の中に投げ込まれるのは普通の人々なのに、それに気付かないのかと。
これからは戦禍の現実を伝えると共に、戦争やテロが起こるその根源を深く見極められる人々を育てる教育が、地球上に広がっていくようにと願うばかりです。
ところが最近、表参道の石灯籠の近くに、「平和をのぞむ碑」が建てられたとのお知らせを頂き、救われた思いです。年を重ねて心もとない身ですが、何とか上京して、私にとっては鎮魂碑でもある、その前に立ちたいと思っています。
平成十九年八月
(渋谷区穏田一丁目)
編者 五月二十五日夜半からの空襲を木村万起さんとともに経験した実姉の神戸富起さんから、「私もぜひ」ということで次の一文が寄せられました。
あの日は夜十時ごろ、警報が鳴り「やがては解除」のつもりでした。夜の空を見ていると、何時もは我が家を少し外れた角度でB29は通ったのに、あの夜は真っ直ぐこちらを向いて焼夷弾を撒きながら低空でやって来ました。
絨毯爆撃です。危ない!女三人で向かいの家の土手を夢中で登り広い庭を駆け抜けました。ユニオンチャーチの次の坂を駆け下りて参道の炎のアーチを通り抜けて同潤会アパートの前へ-。
闇屋で求めた靴の裏の熱かった事が頭に浮かびます。火の勢いが強くて歩けません。兵隊さん(星一つか二つ)が誘導してくれ、アパートの中へ土足で入りました。窓ガラスも炎でバリバリ落ちました。
霞んだ明け方。跡形もない我が家へ戻りました。気が付くと、眉も睫毛も焦げてしまい、煙と熱で目が沁みるように痛み、よくものが見えなくなっていました。
三月の空襲の事はニュース等でよく耳にしますが、五月の空襲の事は余り話題になりません。
平和がずうっと続いても、あの時の参道の恐ろしさを私は忘れることが出来ません。
トタン板を被せられた多くの亡きがらを置いた所、それが地下鉄で地上に出た其処です。
其処に記念碑が建てられた事を伺い、とても心安まる想いでございます。
(神戸 富起)
編集者
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五月二十五日のこと
清水 俊子
「太郎は父のふる里へ、
花子は母のふる里へ…」
母方の伯父の住む群馬県に疎開していた私共姉妹は、五月二十五日の空襲の体験はと言えば、約百キロメートル離れた東京の夜空が明るく染まるのを伯父の家から眺めていた事でした。お年を召した父君と暮らしておられた恩師が表参道で亡くなられ、在京の級友(当時十五才)たちが、校長先生と御遺体を探して歩いたと、後になって聞きました。
焼け跡へ帰る
ようやく親元へ戻る許可が出て、東武伊勢崎線から地下鉄に乗り継いで神宮前駅(現在の表参道駅)で地上に出た時の驚きは格別でした。戦いに敗れた実感、こうまで焼き尽くされた悲しみで胸がいっぱいになりました。青山通りから瓦礫の原のかなたに、焼け残った神宮の杜と同潤会アパートが意外な近さに見えるのみ。欅の並木は黒い焼けぼっくい。今もあの衝撃は、後に強まったアメリカ憎しの思いとともに生涯忘れ得ぬ事です。
表参道に続く黒い染みの正体が焼死した方々の脂と知りましたが、神宮前小学校の先生方は出来るだけその人跡を踏まぬようにと指導なされた由、しかし網の目のような脂のあとを踏まぬのは至難でありました。
空襲と防火-親から聞いた話
折しも若葉の季節、欅の緑の美しい時でした。同潤会アパートの屋上で監視していた父は、焼夷弾が降り始めると同時に二階の我が家に跳び込んだそうです。窓外に広がる並木の緑に降る焼夷弾の緋色が一瞬「異常な美しさ」と感じたそうです。あの幅の広い表参道が火の流れる大川となり、窓ガラスを溶かして家の中に入って来る。それを雑巾がけで防いだとの事、水が不足で醤油から味噌汁まで使ったそうです。
疎開地の空襲
八月十四日夜、サイレンの後、「上空に敵機」のラジオ放送と共に、庭の壕に大事なものを埋める者、年寄りを背負って桑畑に逃れる者、それぞれに役割を果たしつつ町が火に包まれ、つぎつぎに梁が、柱が、まるで薪のように燃え落ちるのを眺めました。私共の通っていた女学校も町の大半も丸焼けでした。
その翌日が降伏の日でした。鳴呼!
終りに
哀れ焼け焦げた丸太棒と化した欅の中にも、翌年健気にも芽吹いたものがありました。明治通りから原宿寄りの木に多かったと記憶しています。また神宮前小学校に一番近い木がいまだにその傷跡を残しながら堂々と枝を広げ、一番の幹の太さを誇っています。多くはついに芽吹かず、長い間明るい広い焼け野原のままでした(ガス設備もこわれたままでしたので、薪にしたいと思ったこともありました)。やがて径五センチ程の細い木を植えてくれた人がいました。穏田二丁目(現在の神宮前五丁目)に店があった春日造園の御好意だったと記憶しています。お米の配給もほとんどなかった頃にです。嬉しかった。とても。
「ここに住んで一番の思い出は?」尋ねられると、
①昭和十二、三年頃の表参道全体が若々しく美しかった頃、車も少なく、野良犬、蝉や蝶たちとたわむれていた頃、
②焼け野原とおぞましい人型の続く表参道、
③そして平和の有難さではないでしょうか。 合掌
(渋谷区穏田一丁目)
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紙一重の
宮城 昭子
昔と異なる表参道の賑わい、欅並木の緑の連なり、思い思いの服装で、その下をゆくカップル、そして少々目にあまる光景も。渋滞する車の列、隔世の感あり。
少女時代、代々木練兵場(現代々木公園)へ演習にゆく兵士の隊列を頼もしいと、見送った。
人通りも稀だったし、車などほとんど通らない広い道だった。敵機襲来におびえて、樹間の壕にうずくまっていたこともある。そしてあの五月二十五日夜半、焼夷弾にさらされた記憶。
父も母も東京生まれ、東京育ち。双方の祖父母も江戸っ子で、疎開する田舎も、知己もなかった。当時の住いは、表参道からちょっと入った住宅街。庭の粗末な防空壕で難を避けているつもりだった。空をきる鋭い擦過音、焼夷弾の地を揺るがす落下音。黄燐油脂焼夷弾が炸裂し、狐火のような青い火が飛び散り、付着した物が燃える。屋根が、板塀が焔をあげる。家の中に入ることもかなわず消火のためのバケツだけ持って、火災のおこす強風の中、明治神宮の森へとーー、芽吹いた欅が逆さにたてて火をつけたように燃える下をくぐって走った。幸い家族四人怪我もなく逃げのびた。表参道の中頃にあった家から、わずか神宮の森が近かった。青山通りをへだてた青山墓地を避難先にと目指した人も多かったようだ。わずかの距離の差で私たち親子は無事だった。表参道と青山通りの交わる角の銀行。火に追われた人々が、銀行の入口付近で焼死した。入口を開けなかったからだとの噂を耳にした。その非情さを憤った覚えがあるが、今にして思えば、入口を開けていたら、火が中に燃え移って、入ろうとした人はもちろん、中にいた人たちも、命を失っていたかもしれない。三月の東京下町のビルの中で逃げ込んだ人々が蒸し焼きになったという話も伝わっていた。開けるか、開けないかの判断が、人の生死を分けた。
焼死した人の無念は言うにおよばないが、銀行で助かった人々の思いは、どうなのだろう。生きのびた安堵とともに、拒んで死に至らしめたという思いの間で、気持ちが揺れ動き、悩んだのではないだろうか。残酷な選択。その後の人生に陰を落としていたのではないかと、気になる。紙一重の運命の別れ道。戦争の悲惨さを、いま改めて思っている。
(渋谷区穏田一丁目)
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五月二十五日の記憶
谷 俊彦
昭和二十年、忘れられないあの年、私たち家族は渋谷区穏田町、東郷神社と道を隔てて筋向いあたりに住んでいた。当時、私は二十三歳。肺の病気を患って、召集されたものの身体検査で不合格となり、家に帰された後は働くこともままならず、好きな絵を描いたりしながら、母と七歳下で中学五年生の弟といっしょに暮らしていた。
五月二十五日、夜十一時頃だっただろうか。ちょうど寝ようとしていたら、空襲警報が聞こえてきた。もうその頃には連日のように警報が出ていたので、「またいつもと同じで、たいしたことはないだろう」と弟と話しながら布団に入っていた。ところが、しばらくすると、いつもとは様子が違い、外が騒々しい。弟に声をかけ、いっしょに物干し台に上って見てみると、目黒方向に火の手があがり、空が真赤に燃えていた。見ているうちにも火の勢いはどんどん強くなる。
これはただごとではない、と思った私は、すぐに母を安全な所に避難させるように弟に言いつけた。はじめ明治神宮の杜の方向へ向かおうとしたが、参道の近くにまで火が迫ってきていたので、近くの東郷神社へ母を連れて行かせた。外に出て周りを見ると、町会長をはじめ一緒に防火訓練をしていた隣組の人たちは、もうすでに逃げたあと。それでも、火から我が家を守らなくてはと、母を避難させて戻ってきた弟と二人で、火たたきで火を払い落とした。無我夢中だった。けれども、しばらくするとザァーッと音をたてながら、焼夷弾がまるで花火のように落ちてきた。危険が迫っていた。もう家を守るどころではない。一刻も早く逃げなくては、と母がいる東郷神社に向かおうとしたが、バス通り(今の明治通り)のあちこちも燃えていて行き着くことができない。しかたなく、青山通りのほうへ逃げようと、家の前を流れる穏田川を渡ろうとしたが、すでに橋が落ちてしまっていて渡れない。そうこうしているうちに、我が家の前の家に焼夷弾が落ち、勢いよく燃え出した。このままでは我が家も燃えてしまう、と弟と二人で必死で火を消そうとした。闇屋だというその家の主人が、両手を挙げて大声で何か叫んでいた姿が目に焼きついている。
もうどこにも逃げられそうにない。目の前の穏田川に飛び込んだら、何とか助かるだろうか?ふとそんな考えも頭に浮かんだが、三月十日の下町の大空襲で、川に飛び込んだ大勢の人が亡くなったことを思い出して、踏みとどまった。今考えると、臆病者の私にしては我ながらよくそんなに冷静に判断できたと思うが、その時は不思議なほど心が落ち着いていた。どうしようと思いながら川のほうを見ていたら、下水管が目に入った。下水管の中にはすでに何人か人が入っていて、最初はこれ以上は無理だと断られたが、「すぐそこの家に住んでいるんです」と頼むと何とか入れてくれた。
あとで聞いたら先に入っていた人たちは、渋谷の方から穏田川の中を通ってたどりついたのだとか。これで火から逃れられたかと思うまもなく、目の前の大邸宅が燃えて下水管にどっと煙が入ってきた。煙にむせながら、この煙にまかれて死ぬのかな、と一瞬覚悟したが、家が焼け落ちてしまうと煙もようやくおさまった。
身動きもままならない下水管の中で、腰まで下水に浸かりながら外を見ると、畳やトタン屋根が、燃えて火の粉をまき散らしながら空を飛んでいる。そして、ものすごい勢いで穏田川の中に落ちていった。まるで竜巻のようだった。もし、川に飛び込んでいたら、とても助からなかっただろう。
そして、ようやく夜が明け、弟が東郷神社に逃げた母を呼びに行った。母の顔はすすで真黒だったが、ともかく無事だった。焼けた我が家に戻ってみると、不思議なことに、画集や本が積み上げられたままの形で灰になっていた。手で触れたとたんに、ハラハラと崩れ落ちた。もう一つ、兄が弾いていたピアノのピアノ線だけが残っていた。まわりを包んでいた木はすっかり燃えてしまい、ピアノ線だけがくっきりと形を残している。まるで人の死骸のようだ、と思ったことを覚えている。
同潤会アパートで乾パンの配給があると聞き、取りにいったときのことは、六十二年経った今でも昨日のことのように思い出す。参道にころがる焼け焦げた無数の死体。人であった面影はなく、まるで枯れ木のようにころがっていた。言葉では言い尽くせない、むごい光景だった。
(渋谷区穏田一丁目)
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忘れ得ぬ戦時体験
下薗 琢二
原宿駅竹下口前を歩く兵隊
昭和16年頃 平林晃氏提供
人生の黄昏に足を踏み入れて久しい。私がこの世に生を享けたのは昭和六年十二月、正にその年から実に十五年間も戦争一色の時代であった。だから今日は凄惨を極めた戦時体験を語り、望まずして死を強いられた多くの人々に、鎮魂の意を込めて拙稿を寄せたいと思う。
当時我が家は原宿駅竹下口より百五十メートル程の竹下通り右側に位置し、現在とはかけ離れた静かな住宅街であった
昭和十九年春、私は麻布区(現在の港区)の旧制中学に進学していた。国防色(黄土色)の学生服にゲートル姿での通学であり、胸には氏名、連絡先、血液型を墨書した白い布切れが縫い付けられていた。戦局は急を告げていた。南海の島々で日本軍の玉砕(全滅)が相次ぎ、敗色は日々濃くなって来た。
首都への初空襲、妹負傷す
昭和十九年十一月一日、米軍の四発重爆撃機B29一機が東京に偵察のため飛来。同月二十四日白昼、曇天の雲上に爆音が響く。連続吹鳴の警戒警報の直後、断続吹鳴の空襲警報が発令された。
当時我が家は隣組の一員として警報を伝達する役目を担当していた。私はやや緊張し、メガホン片手に町内を「空襲警報発令!」と連呼して一周し、自宅の門扉に手をかけた途端である。この世も終りかと思う大音響が轟き、思わずその場にかがみ込んだ私の体にザーッと大量の土砂が降り注いで来た。何が起きたのか情況を把握できぬまま家の中に跳び込むと、部屋中に土煙りが充満している。眼をこらすと茶の間で母親と弟妹が茫然と突っ立っており、妹は顔中血だらけで、やっと支えられている。たまたま駅前に立ち往生していたタクシーに妹を押し込んで表参道の「伊藤病院」 (現存)へ担ぎ込んだ。
家の天井を見上げると、屋根が破壊されて空が丸見えであり、何かが畳の継ぎ目を貫いて床下の土中に突き刺さっている。不発弾ではないかということで、軍や警察の係員が入れ替り立ち替り上がり込んで来た。玄関をあけ放した我が家の内部を通行人が怪訝(けげん)そうに覗き込んでいる。夕方に至り真相が判明した。五十メートル程離れた I さん宅の庭に、二五〇キロ爆弾が炸裂、埋設されていた分厚い水道の鋳鉄管が上空に吹き上げられ、一メートル余の破片が我が家を直撃したということに落ち着いた。
日没時、頭部に包帯を巻きつけた妹が帰宅した。幸いに軽傷であった。この日、東郷神社と隣接する海軍館、それに千駄ヶ谷にかけて数か所が被弾した。「死なば諸共」と強気であった頑固な父親も、この事態に懲りて弟妹を故郷の鹿児島へ疎開させた。
味方高射砲、巨人機を撃墜
昭和二十年に入り、空襲は激化する。一夜にして十万人が犠牲になったといわれる三月の下町大空襲等により、首都は次第に焦土と化していった。
五月二十四日未明、またまた大編隊のB29が来襲、たちまち周辺に火の手が上がる。その直後ダンダンダンという腹を揺する高射砲の連続音が響いた途端、仰角四十五度で頭上に直進して来たー機の胴体がピカッと閃光(せんこう)を放つと、見る間にガクッと首を垂れるや空中分解し、それぞれ火焔を引きながら落下して来た。危ない!と身を縮めたがどうすることもできぬまま、運を天に委せる。引きちぎられた主翼はヒラッヒラッと舞いながらゆっくりと降下したが、地上に激突した瞬間、恐ろしい程の大音響を立てると、巨大な火柱が夜空を駆け上がった。
我が家は類焼を免れたが、早朝父親と墜落現場を訪れた。先ず原宿皇族駅前に主翼の半分が焼けただれて横たわり、翼の形なりに舗道が陥没していた。続いて三百メートル程歩いて交番の前に達すると、路上に巨大な胴体の一部が在り、全く焼けていない。そして機体の上には三人の乗員が、どういうわけかほとんど全裸で、文字通り虚空(こくう)を掴んで絶命しており、顔も潰されて男女の別も分からない。何やら白くスベスベした大きな布がまつわりついている。後で判ったが、当時日本にはなかったナイロン製のパラシュートであった。すでに多くの人々が現場を取り囲んでいたが、遺骸に対して罵声を浴びせたり、棒で叩くような者はいなかった。母国から何万キロも離れた敵地で撃ち落とされ非業の死を遂げた彼等を、私は長くは正視できなかった。胸中に憐憫(れんびん)の思いが湧き上がり、戦争の無情を実感した。程なく憲兵達が到着し、非常線を張って人々を遠ざけた。
我が家も炎上、東京潰滅す
二十五日深夜、再び空襲警報。連日の夜襲である。鉄兜を掴んで表通りに出た。
遠方から次第に爆音が追って来る。幾条もの探照灯の光芒がサッと伸びて右往左往し、一点に交差して機影を捉えると、対空砲火が激しく火を噴き地を揺るがす。機関砲の曳光(えいこう)弾が敵機を目指し、列をなして夜空を駆け上がって行く。焼け残り地域への爆撃が始まり、たちまち四方に火の手が上がって空を真っ赤に染めて行く。悪魔の翼は間断なく来襲し、攻撃目標が次第にこちらに近づいて来た。「今夜はやられるかも知れない」という予感が胸をよぎった。
そしてその直後、ザーッという落下音と共に凄まじい焼夷弾の嵐が降り注いで来た。思わず道路の端に伏せ、両手で眼と耳を押さえた。何百何千という着弾の破裂音は表現の仕様もない。そしてパーンという一きわ高い音がして、私の体が一瞬浮き上がったような気がした。弾かれたように身を起こすと、つい二メートル程の向い家の入口に突き刺さったエレクトロン焼夷弾が白熱の火の玉を花火のように噴き上げている。私は夢中で門前に積んであったムシロをつかむと防火用水に漬け、両手でかざしながら恐る恐る近づき、思い切ってそれを蔽った。当時マニュアルとして、繰り返し教えられた対処法であるが、思ったより簡単に「敵」は沈黙した。家に跳び込むと、もうあちらでもこちらでも火焔が噴いている。大変な密度で投下されたようだ。よくぞ我が身に直撃を受けなかったものである。
両親と共に手分けして鳶(とび)口や座布団などを使い、一弾ずつ消火に努めたが、押入れに飛び込んだり、天井裏に引っかかったものには手が廻らず、次第に火の手が上がってきた。「もう駄目だ」ということになって外へ駆け出ると、驚いたことにあたり一面火の海で、向いの二階家がもう柱だけになっており、どっと焼け落ちる寸前である。私達が消火に夢中になって避難するのが遅すぎたのである。
大火災は強風を招(よ)ぶ。だから火炎が狭い道路を走っては渦巻く。親子三人は逃げ場を失ってしばし立ち尽くした。顔が熱い。執拗に襲いかかる敵機の爆音、ゴウゴウという巨大火災の咆哮(ほうこう)、遠くに呼び合う人々の叫び声、火の粉が激しく吹きつけ、眼も開けていられない。
しかし次の瞬間には耳に蓋をされたように何も聞こえなくなった。すべてが静まり返り、ただ茫然と火焔地獄を見ていた。
母親が強くわたしの手を引いて我に返る。全く幸運にも一瞬退路が開けた。裏手の分譲地は小高い台地になっている。私達は、一枚ずつかぶっていた焼け焦げだらけの毛布をかなぐり捨て、泥にまみれてよじ登ると、地続きになっているM家の邸内を駆け抜け、原宿駅正面を経て明治神宮の森に達することが出来た。
暗い境内には夥しい数の人々が難を逃れて集まっており、息を殺して夜明けを待っていた。時々一抱えもある燃えかすがドサッと降って来た。
朝が来た。霞がかかったように余燼がくすぶっている。もう我が家は跡形もない。何かすべてが平らになっている。
隣組の人々は空腹を抱え、取り敢えず前記の台地に集まった。十数人の中で子供は私一人である。普段は威勢のよい魚屋のUさんは最近取得した持ち家を失ったと、男のくせに泣いているのに、日頃近所からうしろ指をさされていた帽子屋の二号さんだというNさんは、大変気丈で終始皆を励まし、床下の土に埋めておいたという缶詰を沢山掘り出して来て人々に振るまったので、一同は遅い朝食にありつけたのであった。町内の洋服仕立屋の妻女が一旦避難したが、残したミシンを取りに戻ったまま還って来なかったと誰かが話していた。間もなく陸軍のトラックが走って来て焼け跡に佇む人々に乾パンを渡していった。
両親が後片付けなどをしている間、私は附近を見廻ることにして、現在の明治通りから表参道を青山方面へ歩いた。そして愕然として棒立ちになった。真っ黒に炭化した屍体がそこらじゆうに転がっており、青山通りへと続いている。特に安田銀行(現在のみずほ銀行青山支店)の扉の前には沢山の人々が折り重なり、小山のようになって死んでいた。同潤会アパートの裏庭に入ると、八ツ手の植木の蔭でモンペ姿の美しい少女が眠るように横たわっている。衣服は全く焼けていない。多量の煙を吸って無念の死を遂げたのであろう。
表参道の欅並木もひどく焼けて、殊に青山寄りのものはあの一抱えもある生木が根元近くまでなくなっており、火勢の凄まじさに慄然とした。現在百四十一本あるという並木は、だからほとんど全部が代替りなのである。
この日、青南小学校同期のK君やSさんが犠牲になったと後日知った。東京の死傷者二万人近いという。
十三才の少年を直接戦争に参加させたともいうべき、最後の首都大規模空襲は正に鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)の結末となった。
八月十五日、微風快晴。朝からじりじりと暑く、火のついたような蝉しぐれである。気温三十二度。この日白昼、目黒区内の仮住まいで日本の敗戦を知る。
平成十九年晩夏
(渋谷区竹下町)
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今も心に残る穏田町の惨状
粕壁 直一
暗渠になる前の穏田川 昭和38年
穏田町会鈴木均氏提供
昭和二十年五月二十五日、夜の十時頃、ラジオから、大本営発表の「警戒警報発令」に引き続き「空襲警報発令」が報じられた。「敵機数十機編隊が北上、本土に接近しつつあり」の報道であった。
連日のように警戒警報から空襲警報にと報道されているので、〝またか、今夜はどこに落としていくのか″と、服に着替え、防空ずきんに鉄かぶとをかぶり、防毒面と重要物品の入ったリュックを背負って焼夷弾攻撃に備えた。
その時、敵機(B29)の鈍い爆音が響き、聞こえ始めた。大空は各基地から探照灯が一直線に敵機を探し捕え、追い、高射砲弾が、迎え、追い、撃ち始まった。敵機の編隊は横一線に順次、芝・青山・渋谷方面から我が穏田町(神宮前)へと爆弾投下を始めた。意外に敵機は高度を下げた低空飛行で、搭乗兵士の姿が鮮明に見えた。
私は外に出て、敵機に向かって四十五度に指差して、焼夷弾の落下状況をさぐった。青山方面から火の手があがり、暗い大空が順次、赤、黄、白、黒とバリバリバリと音を立てて燃え広がっていった。私の指先で大空に捕えた編隊機が一発、二発、三発…と焼夷弾を投下し始めた。それが空中で炸裂分解し、何十発もの焼夷弾となって火を吹いて落下してきた。
私は急いで近くの家の玄関に身を寄せ縮まった。と同時に落下してきた焼夷弾が屋根を突き破る音、地面に突き刺さる音などが錯綜する中、狭い玄関にも私の目前に数発落ちた。奇跡的に直撃を免れた私は火に囲まれた。急いで我が家に戻った。裏の家が燃え始まっていた。我が家の防火用水の水をバケツで運び消火につとめた。火は障子に、床に、畳に…つき始め、茶の間、台所、玄関…と移り、私の手には負えなくなってしまった。外へ出て我が家を見たら、二階が火の海で燃え上がっていた。向かいの家もバリバリ音を立てて燃え上がっていた。薄暗い中、家の燃える明るさ。白黒い煙で行く手が見えなくなった。
逃げ場を失い、身の危険を感じ、あせった。町内会長の松本さんもぼう然と放心していた。いつも〝最後まで逃げないで消火を″と呼び掛けていた会長さんも、炎火の中、私と伯父と三人になってしまった。日頃は、最後は明治神宮へ、青山墓地へ逃げると考えを決めていた。しかし、どの通りも火と煙が吹きまくり、一寸先が見えなくなり絶望した。
いつも川で遊んでいた私は、その時、直感的に地下から川に通じるドブ(下水路)を伝わって川に飛び込めば、〝水″は火に勝てると思い、ねずみに変身した。川底まで数米、夢中で水を求め、飛び降り川水に身を浸した。狭い水路をもぐり、もぐり、穏田川にたどり着いた。地上は炎火で明るく、煙は白く、黒く巻き上がり、障子は燃えながらタコのように舞い上がり、急直下してくる。畳は舞い上がり焼き散って、まさに火の海と化してしまった。
川べりに身を縮め、防空ずきんがボッボッと燃え、焦げる。鉄かぶとで川水を頭に掛け、身を守り続けた。伯父が「もう駄目かもしれない」と私の全身に水を掛けながらつぶやいた。炎火の中での〝生と死の対決″か!絶対生きなければならないと思い、手拭いに水を浸し、鼻、口からの息を止め、浅くそっと空気を吸い込む極限状態が長く続いた。三十人ほどの人が集まっていたが、そんな中、一人の海軍軍人が「もう少しだ、頑張れ!」と私達を勇気づけた。
十米ほど下流の穏田橋を渡り、また戻ってくる四人ほどの親子の姿がかすかに見えた。〝川に飛び込め″と心で叫びながら声には出せなかった。母親と子供三人は重なり合うようにして、衣服は焼けとばされ、裸姿に変貌してしまっていた。救出できなかった無念さ、無力さが今も悔やまれている。
穏田川の水量が急に増し、渋谷川の深みに流されそうになった。その時、上流に助け綱が下ろされた。私はこうして生き延びることが出来たのである。
私の父親は消防団の団員であった。警戒警報が発令されると、すぐに近くの消防屯所に出向いて、警備、消火に勤めていた。当日も例外なく「警戒警報」発令の報を受けて、私を置いて消防屯所に向かった。わが家が燃えている時も、近くの要人、旧松田文部大臣邸の消火に全力を尽くした。その献身的消火活動の効もなく、大臣邸も焼けてしまった。父が操作し続けた手押し消防ポンプも、無残にも同潤会アパート三号館前の表参道中央に、ぽつんと焼け残されていた。
翌朝、太陽が昇る。青山方面から大きな、おおきな太陽が、赤く黄色く霞んで見えてきた。視界は薄白い煙に包まれ、太陽は一日中ぼうっとしていた。昼頃、乾パンといわしの缶づめが配られた。父親は原宿警察署で、それらを被災者に配給する仕事があった。
焼け跡を歩いてみる。
原宿駅、皇族乗降口前の歯科医院の防空壕に四人の親子が焼死していた。外には中学三年生位の男子生徒が仰向けに倒れ、首からポッンと頭が切り離されていた。近くにB29機の機体の破片が散乱していたので、この破片が首を直撃したのかもしれない。駅構内の線路上に米軍機のガソリンタンクが落下していた。
東郷神社の隣の海軍館から青山通りに通じる道路を、乳母車に乗せられた老婆を兵士が運んでいた。老婆のお腹は縦二直線に裂け、ピンク色の内臓が露出していた。その先、道路左側の大きな貯水池には下着姿の中年女性が溺れ死んでいた。軍需工場だった玉屋工場の道路向かいに、焼け焦げた遺体が山積みに集められ放置されていた。
人間が炎火の中で焼け、焦げ、縮む。大の字に伸び、死ぬ姿が今でも脳裏から離れないでいる。私も大切な友人、秋野君を失った。二十五日の夕方、穏田交番前で楽しく語らい、迎えにきた姉さんと笑顔を交わしながら別れた。その五、六時間後、敵の焼夷弾攻撃をもろに受け、地域一帯が炎火に襲われてしまった。秋野と姉さんはどうしたのか。翌日、二人に会うことはなかった。この無念さ、この非情さ。戦後何十年と神宮前小学校の同窓会総会に出るために上京し、同級生や先輩に聞き当たってきたが、誰も知らない。合掌。
(渋谷区穏田一丁目)
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学徒動員と山の手空襲
鷹野 幸雄
私は大東亜戦争が激しさを増した昭和十九年八月(旧制中学三年生、十四歳)から昭和二十年八月十五日、終戦の日(中学四年生、十五歳)までの約一年間に亘り杉並中学校(現中央大学付属高校)の同期生約二百名と共に学業を放棄して、学徒動員として立川の日立航空機で飛行機の発動機の部品を製造しておりました。
その間、立川の工場は米国の艦載機の空爆により大きな被害を受け、工場の一部は中央線国分寺駅より西武多摩湖線の武蔵大和駅の小高い山麓にある工場に移転しました。当時の勤務状態は、休日は日曜日と元旦のみで、十四、五歳の中学生でも三部交替性の厳しい勤務でした。また、戦時中なので規律が厳しく、教師には絶対服従で、ひと言文句を言えば全員ピンタの制裁があり、軍隊並みの生活を送っていました。
昭和二十年五月二十三日、この週は午後十時から翌朝七時までの夜勤勤務でした。旋盤の操作をしていた時、「警戒警報」そして数分後に「空襲警報」のサイレンが鳴り、五十名の同期生と共に防空頭巾をかぶって工場の後ろにある山中に駆け込みました。空は星が輝いていましたが東の方向を見ると、空が赤く染まっており、プラネタリウムで見るようなシルエット風の色々な建造物の景色が彼方に見え、中野周辺の高射砲隊であろうか、…探照灯の光が空に向かって十文字に回転していました。B29数機が焼夷弾を雨のように投下すると東の空が広範囲に炎と共に燃えあがり、真赤に染まっておりました。
そして翌朝二十四日、午前七時過ぎ、工場からの帰途山手線の原宿駅で下車すると、私の自宅のある神宮通り方面は昨夜の空襲で殆ど家が焼き尽くされ、渋谷の東横デパート(現在の東急東横店)が丸見えでした。私の住み慣れた家は跡形もなく焼け落ちておりました。
私の家は穏田川に接して昔の町名は「神宮通り」に居住しておりましたが、現在穏田川は遊歩道となり。「キャットストリート」と呼ばれており、また、若者向けの店も多く立ち並んでおります。
五月二十三日の空襲では穏田川を挟んで神宮通り側が戦災を受けましたが、穏田神社側にある穏田町は戦災を免れていたので、私達家族は持ち出した布団や少しの荷物を持って、穏田町にある二階部分を借りました。しかし、五月二十三日から二日後の五月二十五日夜半に再び大空襲があり、現在の神宮前地区は無差別の焼夷弾攻撃を受け焼野原と化しました。
穏田川の際(きわ)に作った防空壕に母と一歳半の妹を入れ私が空を眺めていると、赤い炎の焼夷弾がひらひらと揺れながら落ちてくるのが見え、また、穏田神社の近辺の家一帯が真赤な炎と共に燃え始めており、「火災になると風を呼ぶ」と言われていますが、火の勢いで起こる風がゴーゴーと云う不気味な音と共に穏田神社も燃え始めておりました。防空壕に入って少し時間が経過した頃、外を見ると大小の火の粉が飛び交い、三人の見知らぬ人達が「助けて下さい、外は熱気で熱いので入れて下さい」と言って防空壕に入って来ました。
五月二十六日の早暁、爆撃の昔も静かになり防空壕から外へ出ると、見渡す限り焼野原となっており、変わり果てた景色に呆然として立ちすくんでしまったのでした。
五月二十五日から二十六日の大空襲では大勢の人達が被災し、また命を落とした方もおられますが、私達「神宮通り」の人達は前回(五月二十三日から二十四日)の空襲で家を焼失した為に空地が出来ていたので、人的被害は少なかったのではないかと思います。本当に命があって良かったと、近所の人達はお互いに抱き合って喜んでおりました。
中野に居住していた私の従兄は早稲田大学二年生で、豊川の海軍工廠に学徒動員として勤務していましたが、終戦の一週間前の昭和二十年八月七日に艦載機の爆撃を受けて、早大生十数名、及び他の大学生等と一緒に亡くなりました。
私自身が体験した戦争(戦災)の恐ろしさ、悲惨さ、残虐さ等を六十二年前に遡って記憶の扉を開いたものです。そしてこの事実を我々は後世に伝えてゆきたいと思っております。
(渋谷区神宮通り二丁目)
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青山南町五、六丁目南側
青山高樹町
まだらな追憶を辿りながら
伊原 太郎
あの忌まわしい凄惨な戦争の思い出、すでにして六十年余の今となっては、残念ながら辛うじて断片的にしか綴ることが出来ない。しかし、その思い出は断片的とはいえ、まさに「筆舌に尽くし難い」。
ごーっと唸りをたてて頭上に降りかかって来る焼夷弾の群れ、怪我火傷を負い、逃げ惑う老若男女、すでに事切れた屍体を脇目に、近隣の横穴防空壕へと向かってわれ先にと無我夢中で走り抜けていた自分…。
過日、麻布中学の同期会で幹事を務めた櫻井修君が、「今日ここに集まっている皆は八十歳を迎えたが、今日この日があるなどと想像もしていなかったんじゃないの?人生二十有余年、明日の命は誰も保証してくれぬと覚悟していたもんなぁ」と洩らした。彼は青山界隈が焼失した当日は、第一高等学校(現東大)の駒場の寮に居り、五月二十六日全焼した我が家へ徒歩帰宅の途中、明治神宮参道入り口で兵隊に呼び止められ、焼死体処理の手伝いをさせられたという。
かく言う私は学徒勤労動員で拘束され、米軍上陸に備えて朝な夕な田町界隈の丘陵斜面で穴掘り土方作業に従事していた。通勤可能なのに、機密保持のためか家には帰してもらえず、近隣の「普連土女学校」の教室に閉じ込められ、毛布一枚のごろ寝の数日を過ごしていた。
青山地区被災の翌二十六日朝、引率の尾崎教官から呼び出され、「昨夜青山地区は全焼、お前の家族の安否は不明、全員焼死の可能性もあり、覚悟して見届けて来い」と命ぜられた。記憶を辿ると、当女学校の品川付近を後にしたのが九時前後、徒歩にて泉岳寺-魚藍坂下-天現寺-霞町-青山へと息切らせて家路を辿る。無情にもその途中兵隊に呼び止められ、防空壕に逃れて焼死体となってしまった男女二~三名の掘り出し搬送を命じられたため、何と数時間を要し青山五丁目に達した。一面焼け野原と化したその界隈に何と我が家が焼け残っているではないか。目を擦って確かめたが、間違いもなくそこにあるのは我が家、一気に駆け込んだ後は言葉が出ない。
「良かったねぇ、こんなに焼けてしまったのに無事で…」後は言葉にならず、何を話したのかも思い出せない。後日聞いた話で、三発の焼夷弾が我が家の庭に落下、二発は父が消し止め、あと一発は不発だったという。
当夜を前後して病床にあった三歳下の弟は、母に背負われ猛火をくぐり抜けたものの、高熱にうなされつつ翌月他界してしまった。
(赤坂区青山南町五丁目)