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表参道が燃えた日(抜粋)-青山南町五、六丁目南側・高樹町・1

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-青山南町五、六丁目南側・高樹町・1

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/6/2 8:10
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 青山南町五、六丁目南側
 青山高樹町
























 まだらな追憶を辿りながら
             伊原 太郎




 あの忌まわしい凄惨な戦争の思い出、すでにして六十年余の今となっては、残念ながら辛うじて断片的にしか綴ることが出来ない。しかし、その思い出は断片的とはいえ、まさに「筆舌に尽くし難い」。

 ごーっと唸りをたてて頭上に降りかかって来る焼夷弾の群れ、怪我火傷を負い、逃げ惑う老若男女、すでに事切れた屍体を脇目に、近隣の横穴防空壕へと向かってわれ先にと無我夢中で走り抜けていた自分…。

 過日、麻布中学の同期会で幹事を務めた櫻井修君が、「今日ここに集まっている皆は八十歳を迎えたが、今日この日があるなどと想像もしていなかったんじゃないの?人生二十有余年、明日の命は誰も保証してくれぬと覚悟していたもんなぁ」と洩らした。彼は青山界隈が焼失した当日は、第一高等学校(現東大)の駒場の寮に居り、五月二十六日全焼した我が家へ徒歩帰宅の途中、明治神宮参道入り口で兵隊に呼び止められ、焼死体処理の手伝いをさせられたという。

 かく言う私は学徒勤労動員で拘束され、米軍上陸に備えて朝な夕な田町界隈の丘陵斜面で穴掘り土方作業に従事していた。通勤可能なのに、機密保持のためか家には帰してもらえず、近隣の「普連土女学校」の教室に閉じ込められ、毛布一枚のごろ寝の数日を過ごしていた。

 青山地区被災の翌二十六日朝、引率の尾崎教官から呼び出され、「昨夜青山地区は全焼、お前の家族の安否は不明、全員焼死の可能性もあり、覚悟して見届けて来い」と命ぜられた。記憶を辿ると、当女学校の品川付近を後にしたのが九時前後、徒歩にて泉岳寺-魚藍坂下-天現寺-霞町-青山へと息切らせて家路を辿る。無情にもその途中兵隊に呼び止められ、防空壕に逃れて焼死体となってしまった男女二~三名の掘り出し搬送を命じられたため、何と数時間を要し青山五丁目に達した。一面焼け野原と化したその界隈に何と我が家が焼け残っているではないか。目を擦って確かめたが、間違いもなくそこにあるのは我が家、一気に駆け込んだ後は言葉が出ない。

 「良かったねぇ、こんなに焼けてしまったのに無事で…」後は言葉にならず、何を話したのかも思い出せない。後日聞いた話で、三発の焼夷弾が我が家の庭に落下、二発は父が消し止め、あと一発は不発だったという。

 当夜を前後して病床にあった三歳下の弟は、母に背負われ猛火をくぐり抜けたものの、高熱にうなされつつ翌月他界してしまった。
 
 (赤坂区青山南町五丁目)

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