表参道が燃えた日(抜粋)-原宿・穏田・表参道・7
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表参道が燃えた日(抜粋)-山の手大空襲の体験記- (編集者, 2009/5/17 8:49)
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- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・3 (編集者, 2009/6/13 8:48)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-渋谷区金王町・美竹町・青葉町・1 (編集者, 2009/6/14 8:32)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-渋谷区金王町・美竹町・青葉町・2 (編集者, 2009/6/15 8:17)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・1 (編集者, 2009/6/27 20:53)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・2 (編集者, 2009/6/28 21:15)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・3 (編集者, 2009/6/29 8:02)
- Re: 表参道が燃えた日(抜粋)-あとがきにかえて (編集者, 2009/6/30 10:53)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・1- (編集者, 2009/7/2 19:53)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・2- (編集者, 2009/7/3 14:57)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・3- (編集者, 2009/7/4 19:38)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・4- (編集者, 2009/7/5 8:14)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・5- (編集者, 2009/7/6 16:54)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・6- (編集者, 2009/7/6 16:58)
編集者
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忘れ得ぬ戦時体験
下薗 琢二
原宿駅竹下口前を歩く兵隊
昭和16年頃 平林晃氏提供
人生の黄昏に足を踏み入れて久しい。私がこの世に生を享けたのは昭和六年十二月、正にその年から実に十五年間も戦争一色の時代であった。だから今日は凄惨を極めた戦時体験を語り、望まずして死を強いられた多くの人々に、鎮魂の意を込めて拙稿を寄せたいと思う。
当時我が家は原宿駅竹下口より百五十メートル程の竹下通り右側に位置し、現在とはかけ離れた静かな住宅街であった
昭和十九年春、私は麻布区(現在の港区)の旧制中学に進学していた。国防色(黄土色)の学生服にゲートル姿での通学であり、胸には氏名、連絡先、血液型を墨書した白い布切れが縫い付けられていた。戦局は急を告げていた。南海の島々で日本軍の玉砕(全滅)が相次ぎ、敗色は日々濃くなって来た。
首都への初空襲、妹負傷す
昭和十九年十一月一日、米軍の四発重爆撃機B29一機が東京に偵察のため飛来。同月二十四日白昼、曇天の雲上に爆音が響く。連続吹鳴の警戒警報の直後、断続吹鳴の空襲警報が発令された。
当時我が家は隣組の一員として警報を伝達する役目を担当していた。私はやや緊張し、メガホン片手に町内を「空襲警報発令!」と連呼して一周し、自宅の門扉に手をかけた途端である。この世も終りかと思う大音響が轟き、思わずその場にかがみ込んだ私の体にザーッと大量の土砂が降り注いで来た。何が起きたのか情況を把握できぬまま家の中に跳び込むと、部屋中に土煙りが充満している。眼をこらすと茶の間で母親と弟妹が茫然と突っ立っており、妹は顔中血だらけで、やっと支えられている。たまたま駅前に立ち往生していたタクシーに妹を押し込んで表参道の「伊藤病院」 (現存)へ担ぎ込んだ。
家の天井を見上げると、屋根が破壊されて空が丸見えであり、何かが畳の継ぎ目を貫いて床下の土中に突き刺さっている。不発弾ではないかということで、軍や警察の係員が入れ替り立ち替り上がり込んで来た。玄関をあけ放した我が家の内部を通行人が怪訝(けげん)そうに覗き込んでいる。夕方に至り真相が判明した。五十メートル程離れた I さん宅の庭に、二五〇キロ爆弾が炸裂、埋設されていた分厚い水道の鋳鉄管が上空に吹き上げられ、一メートル余の破片が我が家を直撃したということに落ち着いた。
日没時、頭部に包帯を巻きつけた妹が帰宅した。幸いに軽傷であった。この日、東郷神社と隣接する海軍館、それに千駄ヶ谷にかけて数か所が被弾した。「死なば諸共」と強気であった頑固な父親も、この事態に懲りて弟妹を故郷の鹿児島へ疎開させた。
味方高射砲、巨人機を撃墜
昭和二十年に入り、空襲は激化する。一夜にして十万人が犠牲になったといわれる三月の下町大空襲等により、首都は次第に焦土と化していった。
五月二十四日未明、またまた大編隊のB29が来襲、たちまち周辺に火の手が上がる。その直後ダンダンダンという腹を揺する高射砲の連続音が響いた途端、仰角四十五度で頭上に直進して来たー機の胴体がピカッと閃光(せんこう)を放つと、見る間にガクッと首を垂れるや空中分解し、それぞれ火焔を引きながら落下して来た。危ない!と身を縮めたがどうすることもできぬまま、運を天に委せる。引きちぎられた主翼はヒラッヒラッと舞いながらゆっくりと降下したが、地上に激突した瞬間、恐ろしい程の大音響を立てると、巨大な火柱が夜空を駆け上がった。
我が家は類焼を免れたが、早朝父親と墜落現場を訪れた。先ず原宿皇族駅前に主翼の半分が焼けただれて横たわり、翼の形なりに舗道が陥没していた。続いて三百メートル程歩いて交番の前に達すると、路上に巨大な胴体の一部が在り、全く焼けていない。そして機体の上には三人の乗員が、どういうわけかほとんど全裸で、文字通り虚空(こくう)を掴んで絶命しており、顔も潰されて男女の別も分からない。何やら白くスベスベした大きな布がまつわりついている。後で判ったが、当時日本にはなかったナイロン製のパラシュートであった。すでに多くの人々が現場を取り囲んでいたが、遺骸に対して罵声を浴びせたり、棒で叩くような者はいなかった。母国から何万キロも離れた敵地で撃ち落とされ非業の死を遂げた彼等を、私は長くは正視できなかった。胸中に憐憫(れんびん)の思いが湧き上がり、戦争の無情を実感した。程なく憲兵達が到着し、非常線を張って人々を遠ざけた。
我が家も炎上、東京潰滅す
二十五日深夜、再び空襲警報。連日の夜襲である。鉄兜を掴んで表通りに出た。
遠方から次第に爆音が追って来る。幾条もの探照灯の光芒がサッと伸びて右往左往し、一点に交差して機影を捉えると、対空砲火が激しく火を噴き地を揺るがす。機関砲の曳光(えいこう)弾が敵機を目指し、列をなして夜空を駆け上がって行く。焼け残り地域への爆撃が始まり、たちまち四方に火の手が上がって空を真っ赤に染めて行く。悪魔の翼は間断なく来襲し、攻撃目標が次第にこちらに近づいて来た。「今夜はやられるかも知れない」という予感が胸をよぎった。
そしてその直後、ザーッという落下音と共に凄まじい焼夷弾の嵐が降り注いで来た。思わず道路の端に伏せ、両手で眼と耳を押さえた。何百何千という着弾の破裂音は表現の仕様もない。そしてパーンという一きわ高い音がして、私の体が一瞬浮き上がったような気がした。弾かれたように身を起こすと、つい二メートル程の向い家の入口に突き刺さったエレクトロン焼夷弾が白熱の火の玉を花火のように噴き上げている。私は夢中で門前に積んであったムシロをつかむと防火用水に漬け、両手でかざしながら恐る恐る近づき、思い切ってそれを蔽った。当時マニュアルとして、繰り返し教えられた対処法であるが、思ったより簡単に「敵」は沈黙した。家に跳び込むと、もうあちらでもこちらでも火焔が噴いている。大変な密度で投下されたようだ。よくぞ我が身に直撃を受けなかったものである。
両親と共に手分けして鳶(とび)口や座布団などを使い、一弾ずつ消火に努めたが、押入れに飛び込んだり、天井裏に引っかかったものには手が廻らず、次第に火の手が上がってきた。「もう駄目だ」ということになって外へ駆け出ると、驚いたことにあたり一面火の海で、向いの二階家がもう柱だけになっており、どっと焼け落ちる寸前である。私達が消火に夢中になって避難するのが遅すぎたのである。
大火災は強風を招(よ)ぶ。だから火炎が狭い道路を走っては渦巻く。親子三人は逃げ場を失ってしばし立ち尽くした。顔が熱い。執拗に襲いかかる敵機の爆音、ゴウゴウという巨大火災の咆哮(ほうこう)、遠くに呼び合う人々の叫び声、火の粉が激しく吹きつけ、眼も開けていられない。
しかし次の瞬間には耳に蓋をされたように何も聞こえなくなった。すべてが静まり返り、ただ茫然と火焔地獄を見ていた。
母親が強くわたしの手を引いて我に返る。全く幸運にも一瞬退路が開けた。裏手の分譲地は小高い台地になっている。私達は、一枚ずつかぶっていた焼け焦げだらけの毛布をかなぐり捨て、泥にまみれてよじ登ると、地続きになっているM家の邸内を駆け抜け、原宿駅正面を経て明治神宮の森に達することが出来た。
暗い境内には夥しい数の人々が難を逃れて集まっており、息を殺して夜明けを待っていた。時々一抱えもある燃えかすがドサッと降って来た。
朝が来た。霞がかかったように余燼がくすぶっている。もう我が家は跡形もない。何かすべてが平らになっている。
隣組の人々は空腹を抱え、取り敢えず前記の台地に集まった。十数人の中で子供は私一人である。普段は威勢のよい魚屋のUさんは最近取得した持ち家を失ったと、男のくせに泣いているのに、日頃近所からうしろ指をさされていた帽子屋の二号さんだというNさんは、大変気丈で終始皆を励まし、床下の土に埋めておいたという缶詰を沢山掘り出して来て人々に振るまったので、一同は遅い朝食にありつけたのであった。町内の洋服仕立屋の妻女が一旦避難したが、残したミシンを取りに戻ったまま還って来なかったと誰かが話していた。間もなく陸軍のトラックが走って来て焼け跡に佇む人々に乾パンを渡していった。
両親が後片付けなどをしている間、私は附近を見廻ることにして、現在の明治通りから表参道を青山方面へ歩いた。そして愕然として棒立ちになった。真っ黒に炭化した屍体がそこらじゆうに転がっており、青山通りへと続いている。特に安田銀行(現在のみずほ銀行青山支店)の扉の前には沢山の人々が折り重なり、小山のようになって死んでいた。同潤会アパートの裏庭に入ると、八ツ手の植木の蔭でモンペ姿の美しい少女が眠るように横たわっている。衣服は全く焼けていない。多量の煙を吸って無念の死を遂げたのであろう。
表参道の欅並木もひどく焼けて、殊に青山寄りのものはあの一抱えもある生木が根元近くまでなくなっており、火勢の凄まじさに慄然とした。現在百四十一本あるという並木は、だからほとんど全部が代替りなのである。
この日、青南小学校同期のK君やSさんが犠牲になったと後日知った。東京の死傷者二万人近いという。
十三才の少年を直接戦争に参加させたともいうべき、最後の首都大規模空襲は正に鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)の結末となった。
八月十五日、微風快晴。朝からじりじりと暑く、火のついたような蝉しぐれである。気温三十二度。この日白昼、目黒区内の仮住まいで日本の敗戦を知る。
平成十九年晩夏
(渋谷区竹下町)