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表参道が燃えた日(抜粋)-原宿・穏田・表参道・4

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-原宿・穏田・表参道・4

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/5/27 7:49
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 五月二十五日のこと
           清水 俊子



 「太郎は父のふる里へ、
  花子は母のふる里へ…」

 母方の伯父の住む群馬県に疎開していた私共姉妹は、五月二十五日の空襲の体験はと言えば、約百キロメートル離れた東京の夜空が明るく染まるのを伯父の家から眺めていた事でした。お年を召した父君と暮らしておられた恩師が表参道で亡くなられ、在京の級友(当時十五才)たちが、校長先生と御遺体を探して歩いたと、後になって聞きました。


 焼け跡へ帰る

 ようやく親元へ戻る許可が出て、東武伊勢崎線から地下鉄に乗り継いで神宮前駅(現在の表参道駅)で地上に出た時の驚きは格別でした。戦いに敗れた実感、こうまで焼き尽くされた悲しみで胸がいっぱいになりました。青山通りから瓦礫の原のかなたに、焼け残った神宮の杜と同潤会アパートが意外な近さに見えるのみ。欅の並木は黒い焼けぼっくい。今もあの衝撃は、後に強まったアメリカ憎しの思いとともに生涯忘れ得ぬ事です。

 表参道に続く黒い染みの正体が焼死した方々の脂と知りましたが、神宮前小学校の先生方は出来るだけその人跡を踏まぬようにと指導なされた由、しかし網の目のような脂のあとを踏まぬのは至難でありました。


 空襲と防火-親から聞いた話

 折しも若葉の季節、欅の緑の美しい時でした。同潤会アパートの屋上で監視していた父は、焼夷弾が降り始めると同時に二階の我が家に跳び込んだそうです。窓外に広がる並木の緑に降る焼夷弾の緋色が一瞬「異常な美しさ」と感じたそうです。あの幅の広い表参道が火の流れる大川となり、窓ガラスを溶かして家の中に入って来る。それを雑巾がけで防いだとの事、水が不足で醤油から味噌汁まで使ったそうです。


 疎開地の空襲

 八月十四日夜、サイレンの後、「上空に敵機」のラジオ放送と共に、庭の壕に大事なものを埋める者、年寄りを背負って桑畑に逃れる者、それぞれに役割を果たしつつ町が火に包まれ、つぎつぎに梁が、柱が、まるで薪のように燃え落ちるのを眺めました。私共の通っていた女学校も町の大半も丸焼けでした。
 その翌日が降伏の日でした。鳴呼!


 終りに

 哀れ焼け焦げた丸太棒と化した欅の中にも、翌年健気にも芽吹いたものがありました。明治通りから原宿寄りの木に多かったと記憶しています。また神宮前小学校に一番近い木がいまだにその傷跡を残しながら堂々と枝を広げ、一番の幹の太さを誇っています。多くはついに芽吹かず、長い間明るい広い焼け野原のままでした(ガス設備もこわれたままでしたので、薪にしたいと思ったこともありました)。やがて径五センチ程の細い木を植えてくれた人がいました。穏田二丁目(現在の神宮前五丁目)に店があった春日造園の御好意だったと記憶しています。お米の配給もほとんどなかった頃にです。嬉しかった。とても。

 「ここに住んで一番の思い出は?」尋ねられると、
 ①昭和十二、三年頃の表参道全体が若々しく美しかった頃、車も少なく、野良犬、蝉や蝶たちとたわむれていた頃、
 ②焼け野原とおぞましい人型の続く表参道、
 ③そして平和の有難さではないでしょうか。 合掌

 (渋谷区穏田一丁目)

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