表参道が燃えた日(抜粋)-原宿・穏田・表参道・1
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表参道が燃えた日(抜粋)-山の手大空襲の体験記- (編集者, 2009/5/17 8:49)
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- 表参道が燃えた日(抜粋)-渋谷区金王町・美竹町・青葉町・2 (編集者, 2009/6/15 8:17)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・1 (編集者, 2009/6/27 20:53)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・2 (編集者, 2009/6/28 21:15)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・3 (編集者, 2009/6/29 8:02)
- Re: 表参道が燃えた日(抜粋)-あとがきにかえて (編集者, 2009/6/30 10:53)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・1- (編集者, 2009/7/2 19:53)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・2- (編集者, 2009/7/3 14:57)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・3- (編集者, 2009/7/4 19:38)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・4- (編集者, 2009/7/5 8:14)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・5- (編集者, 2009/7/6 16:54)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・6- (編集者, 2009/7/6 16:58)
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兵役中に失った父と二人の妹
榎本 新一
私の先祖は今の栃木県小山の榎本城の城主でしたが、小田原の北条氏に滅ぼされました。今でも家系図が残っています。祖父は埼玉県の水深で村の収入役をしていましたが、米の相場に手を出し、財産を失いました。父は東京に出てきてテーラーになり、苦しい家計のなかで六人の子供を育てました。
私が育ったのは日本橋の浜町で、明治座のすぐ近くです。昭和二十年三月十日の空襲の時は、明治座に入った人はみんな亡くなったようですが、私の家族は浜町公園に逃げたため助かりました。長男の私は軍隊に入っていて家にいませんでした。
昭和十五年に兵役につき、十八年十一月に満期になって軍関係の会社に入り、軍人会館(今の九段会館)の将校の服など作っていました。その会社を辞めたらすぐ、十九年十一月に召集され、横浜三ツ池の高射砲連隊に入りました。衛生兵でした。
浜町の家が焼けて行き場がなく困っていた時に、私のいとこの青山の厚治医院の母親が、今のこの場所の木造作りの空家を探してくれました。青山に移ってまもなく、また空襲に遭ったわけです。五月二十五日の空襲の時も、私は横浜から赤く燃えている東京の空を見ていました。家には両親と二十四歳と十九歳の妹がいて、上の弟は中学から動員されていたのかその夜は家にいなくて下の弟と妹は学童疎開をしていました。
父親は警防団で外を見回っていたようですが、すぐ隣に焼夷弾が落ちたので母親たちを連れ出して表参道の方へ出ていきました。避難するのがもう遅かったようです。強い風と火の粉に巻き込まれ、四人は離れ離れになってしまいました。母親は足が遅かったため逃げ遅れているところを山陽堂書店の人に助けられ、建物の中に入れてもらいました。
翌日早朝、近所の乾物屋の主人が表参道の方に見にいきましたら、道路には黒こげの焼死体がいっぱいで、安田銀行(現在のみずほ銀行)の扉の前には大勢の人が折り重なって死んでいました。灯籠と灯籠の間のところに明治神宮の方を向いて座って頭を下げている人が、どうも榎本さんらしいと母親に知らせてくれました。母親がそのあと見にいった時にはもう姿はなく、父親らしい人がいたというその場所に鉄かぶとがあったので持ち帰ってきました。父親のものに間違いありませんでした。
現場を通った人の話によると、翌朝早く、軍の車が来て道路の焼死体を運んでいったとか、銀行入り口の横にうず高く焼死体が積み重なっていたとか聞きましたが、父親の遺体はどこに行ったか結局わからないままです。
妹たちは青山墓地に行こうとしたのでしょうか、青山警察署(今もある「紅谷」の近く)の前の青山通りの真中でうつぶせになって倒れていました。着ていた服の柄からわかったようです。道路は焼夷弾の油で滑るようだったそうです。下の妹の方はすでに息がなく、母親は髪を切り取り、名前と住所を書いた札を付けてきました。遺体はその後、梅窓院の裏の空き地に仮埋葬され、遺髪と父親の鉄かぶとは榎本家の墓地に納めました。
上の妹は息があったので日赤に運ばれましたが、治療の甲斐なく、破傷風で六月十一日に亡くなりました。幡ヶ谷で上の妹を火葬にする日に、私は空襲以来始めて横浜の軍隊から許可をもらって青山に出てきました。家は焼けてなくなり、一人になった母親は埼玉の実家にもどっていたようです。上の妹は親類筋の静岡の家に養女になることがきまっていましたが、その矢先の惨事でした。遺骨は養女先の墓地に納められました。
私は横浜の連隊から仙台、福島の中隊へと移り、終戦で家にもどりました。二十二年、焼け跡に木造の家屋を建てました。今のこの土地は元浅野家の土地で、相続で物納になっていたものを国から買いました。
下の妹を仮埋葬した所には木の墓標が立っていて、私たち家族はお彼岸や命日には墓参りに行きました。三十二年ごろでしたか、行ってみたら、お墓はなくなり、野球場になっているのです。何の知らせもありませんでした。どこへ聞いたらよいかわからないまま十数年が経ち、その間に母親は亡くなりました。私は渋谷区の町会長や商店会長などをしていたので渋谷区のことは多少わかっていたのですが、港区のことはまったく知りませんでした。あの場所は青山墓地と隣接していますが、港区の土地だったのでしょうか。港区の知り合いの区会議員に頼んで調べてもらいましたら、多摩霊園に移したということでした。石原知事になってから、東京都から通知がきました。墨田区の都立横網町公園内に空襲犠牲者のモニュメントを作るための名簿の確認と建設募金の依頼でした。私たちはいくらかの寄付をし、落成の時にはみんなでお参りしてきました。
横網町公園にはもともと震災記念堂がありましたが、三月十日の東京大空襲の犠牲者を合葬することになり、東京都慰霊堂と改名されました。また東京都は、戦争被害の記録を集める平和祈念館を作る予定だったそうですが、財政難を理由に八年前からストップしているのは残念なことです。
青山の善光寺では毎年五月二十五日には戦災で亡くなったかたたちの法要が行われ、善光寺の役員をやっておられた津川さんからいつも声をかけられ、伺っておりました。津川さんも亡くなられ、もう法要はされていないものと思っていましたが、続いているのですね、来年はお参りに行きたいと思います。
母親は空襲の日のことを繰り返し私や家内に話していました。いっしょに逃げた夫の、遺体すらみつからず、二人の娘を亡くして自分だけが助かったことをどんなに苦しんだことでしょう。山陽堂さんのことは命の恩人だといっておりました。
私がいた横浜も空襲が何回かありました。横浜には軍の施設や大きな工場があり、白昼米軍機が編隊で飛んできて爆撃しました。東京の下町や山の手は一般の民家や民間人をねらいうちした感じです。遺体の処理についても身元がわかるまで安置もせず、遺骨の扱いについても、遺族には何も知らせないで区や都の都合でたらい回しにするなどひどいものです。
家族そろって過ごした浜町の家をなつかしく思い出します。私が月に二、三回軍から外出して家に帰りましたが、父親は「ゴンドラの唄」を歌って待っていてくれました。もう戦争は始まっていたけれども平和なひとときでした。
父親や妹たちがもっと早く避難すれば死ななくてすんだのに、さらに逃げ遅れたために母親が助かったこと、私も外地に回されていたら戦死していたと思うと、何か運命のようなものを感じます。
(平成十九年六月十六日談)
(渋谷区原宿二丁目)