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表参道が燃えた日(抜粋)-原宿・穏田・表参道・2

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-原宿・穏田・表参道・2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/5/24 17:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 東京山の手大空襲と特攻生き残りの戦後
                    大貫 功







 今は暗渠になった穏田川に
 かかっていた参道橋の石柱





 麻布中から早大政経の途中で、戦局悪化のため徴兵猶予打切りとなり、海軍飛行予備学生として三重海軍航空隊に入隊。

 昭和十七年六月のミッドウェイ海戦大惨敗以後、大本営発表はウソの固まりで、終戦まで国民は実状を知らず、急追してくる米軍の動きに、暗黙のうちに敗色濃厚を感じ取っていた。ついに昭和二十年三月、米軍沖縄上陸、この五月ベルリン陥落、ドイツ降伏!日本は世界で孤立した。

 昭和二十年三月十日未明、東京下町の大空襲。日本の弱点、木造家屋を、*百五十機のB29が焼夷弾で焼き尽くした。死者約十一万…。日本の陸軍記念日(日露戦争の奉天大会戦勝利の日)をねらった。当然、次の大空襲は五月二十七日海軍記念日(日本海海戦圧勝の日)、東京山の手は気象条件で二日早まったといわれる。(*編注 米軍資料によると三二五機)

 三月十日大空襲の直後、原宿の母から隊に手紙。「東京も危なくなったので郷里の秋田に疎開することにした。最少限の衣料寝具と台所用具をまず送り、親戚の一間を借りる。父だけが東京に残るが、その身の回りの世話もあり、挺身隊の仕事もあるので静子(功の妹)も残る。万一の場合を考えて、親戚名簿、貯金通帳の写しや重要書類の写しを作ったのでそれを送る。」そして、後で笑い話になれば幸せ…と結んであった。事、志と違い、これは役に立ってしまった。

 五月二十六日朝のラジオで「大本営発表」。「昨夜二十二時三十分ごろより、*B29約二百五十機帝都市街地に対し、焼夷弾による無差別爆撃、恐れ多くも宮城、大宮御所に被害。三陛下、賢所(かしこどころ)は御安泰にあらせられる」。この時点で原宿の家も気になった。(*編注 米軍資料によると五〇二機「日本の空襲十補巻資料編」)

 六月四日、昼食の時、分隊長S大尉が私に、「食べ終わったらすぐに私の所に来い」。その私室に入るや否や、電報を示された。
 「二六ヒイエヤケハハシスチチジユウショウミナアキタニイルカエレルカへン」

 「貴様の気持ちはよく分かる。しかし戦争だ。貴様長男だしお父上も重傷。母上の葬儀を立派にやって来い。往復日数を含め六日を与える。」名古屋-長野-羽越廻りで秋田に急行。全身真白な包帯に巻かれた父は意識はあって話も出来た。菩提寺の葬儀には参列出来なかった。

 父の側で三晩寝た。海軍士官服の自分を見せることが出来たことはせめてもの慰めと考えた。父が生き延びられるかどうか?私がいつ戦死するかどうかは分からない。誰も聞かない。三日後三重航空隊に戻り、軍務に復帰。

 空襲の実情は妹に聞いた。当時家族は渋谷区原宿二丁目に住んでいた。

 五月二十五日二十二時過ぎ、空襲警報とほとんど同時にあの独特のB29の爆音。そう!実はこの三日前、父も妹も秋田に疎開することになり、母は最後の荷物整理のために上京していたのだ。

 いったん、庭の防空壕に入ったけれど強烈な音と焼夷弾の雨あられ、一軒当たり三発ぐらい。たちまち火の海になってしまった。「防空演習」など全く役に立たない。隣組の取り決めでは、ダメな時は表参道に出て明治神宮の杜に避難する。何十人という一団が表参道方面に動いた。しかし「表参道はもうダメだ!火の海だ!近衛歩兵四連隊の方から外苑に逃げろ!」と押し返され、狭い路地をひしめきながら反対に歩いた。

 三百メートルぐらい先に防火用の小さいプールみたいなものが作られてあった。皆いっせいにそこに飛び込んだ。深さは腰ぐらいの水だったが、結局ここで水につかりながら時々顔や頭も水につけて、いわば火攻め水攻めの状態で午前三時ごろの鎮火まで待った。結局体力勝負になる。老人、婦人、幼児は次々に死んで行った。母(四十六歳)は頑健な体ではなかったのでここで息を引き取った。若い妹も何度もフッと気が遠くなるような、身体の力が全くないような感覚になった。午前四時ごろたくさんの兵隊が助けに来て、妹は引きずり上げられた。父は一時意識不明(全身大やけど)だったが、応急手当を受けて助かった。「戦災証明」と「重症患者」ということで秋田までの切符を発行してくれた。

 遺体の処理は陸軍の兵隊の仕事、たくさんのトラックが来て、認識票で氏名と身許を確認して、髪の毛を少し切って遺族や友人に渡す。後は何百人とまとめて埋葬してしまう。母や原宿の人々の遺体の埋め場所を隣組の人達が軍に聞いたが、分からなかった。兵士や人夫たちは上官から埋めた場所を言ってはいけないと厳命されていたという。母の葬儀でも遺骨の代りの役をしたのは髪の毛だ。

 あの夜、表参道と代々木練兵場、明治神宮は、何千、何万という人が火の粉を浴びてひしめいていた。今、暗渠になっている穏田川も、前述のプールと同じく、多くの人が辛うじて助かった。表参道から青山通りに出る角の「安田銀行」前でも多数の死者が出た。

 海軍航空隊にいて現場を知らなかった私は、六月末から七月初め、横須賀に短期出張を命ぜられた。ある日曜日、五時間の外出許可を得て、原宿、穏田、渋谷の焼け跡を海軍士官の服装でさまよった。一望千里の真黒な焼け跡。幼稚園、小中大学と思い出のつまった故郷。地上に何もない。ただ道路だけは小路に至るまで昔のまま、ここはO君の家だった。ここは誰さんの家…。あまりにもよく分かる。しかし真平らで真黒なのだ。そして一時間ホッツキ歩いても誰一人知っている人に会わないのだ!

 海軍航空隊で二度死線を越え、さらに「神風特攻隊」として出番は十一月一日頃と言われていたが、八月十五日突如終戦となった。

 残務整理を終え、九月一日秋田に復員。父は奇跡的に全治して上京していた。私もすぐ上京した。家族全員が辛うじて入れる惨めな壕舎生活が二年。早大政経学部に復学した。重労働のアルバイトをしながら、昭和二十三年に卒業して高校の社会科教師になる。

 昭和四十三年、フォード財団の招きで高校の「政経」の教師二名(私も選ばれる)がアメリカ・ミネソタ大学に短期留学。渡米前に「神風体験は絶対言うな」と言われていたが、歓迎パーティであっさり自白した。手を振り上げて私に走り寄り、抱きついた大男たちはかつてロッキードやグラマンのパイロットだった。日本海軍航空隊、ゼロ戦、特にカミカゼは最も尊敬する敵だったという。私はその後も全米各地の教育集会やアメリカ教育使節団の受け容れを担当して来たが、常に同じことが起こる。彼らもあの戦争を肯定している訳ではない。

 勇敢に戦った特攻隊を称え、無事生き残って再会したことを喜んでいるのだ。「個人として何の恨みもないのに、国家が背景につくと、憎み合い、殺し合ったのが戦争だ」。私は自分の体験で痛切に感じている。”戦争は二度としてはならない!″と。

 (神宮前小学校第六回生 大正十三年九月二十一日生 渋谷区原宿二丁目)

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