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表参道が燃えた日(抜粋)-原宿・穏田・表参道・3

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-原宿・穏田・表参道・3

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/5/25 14:58
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ケヤキの道
      木村万起 (表紙絵「ケヤキの道」の作者)




 同潤会アパートにあった井戸

 過日、青南小学校のクラス会の折、久し振りにJR原宿駅から、青山通りの石灯籠までの表参道を歩いて、私は今浦島になったのかと驚きました。

 蔦が絡んで、重厚な風情だった同潤会アパートはメタリックな輝きの表参道ヒルズに変身していました。ヒルズの一隅に昔日のアパートの面影を残すために、当時の階段の踊場がしつらえてありました。その窓からケヤキの緑が日に映った瞬間、かつて幼かった時この窓から見た光景と二重写しになりました。それは、「音を立てて燃え上がるケヤキ」の姿でした、私はその光景を絵にしておかねばと願いながら、なかなか果たせませんでした。

 あの生々しい惨状を超現実的な幻想の中で、再びケヤキが、私に語りかけてくれるまで、描けなかったのです。やっと、ケヤキが語りかけてくれた時、私はすっかり白髪になっていました。

 私はこの「ケヤキの道」で今までに出会った風景を、一つの画面に時を追って表現してみたいと思いました。

 昭和のはじめの新しくモダンな同潤会のアパート、インバネス姿のお洒落(しゃれ)な人、橋のたもとの風車(かざぐるま)売り、セルロイドの風車がカラカラと鳴っているのどかな道。 

 そして、神宮へ行幸される天皇のお召車をお見送りする私達青南小学校の子どもたち。「両手は膝下まで、頭を深く下げるように」と言われても、そっと見てしまう子どもの目。けれど、幼い頃の風景は炎と煙の中に消えて行きます。 

 兄達は次々と召集され戦地へ向かいました。行く先も告げられず、輸送列車の窓から兄が投げた紙片が巡り巡って、母の元に届きました。「南十字星の見える所へ行くらしい」と走り書きされていました。

 文字通り、女、子どもだけが残され、日に日に烈しくなる空襲の下で、どうすることも出来ません。都立第三高女の二年生だった私は工場化した学校へと、ケヤキの道を通いました。

 一九四五年五月二十五日夜半、夜空を見上げると、木々の若葉の間に飛び魚のようなB29の大編隊が銀色に輝いていました。家を捨てる瞬間に私は台所に走って、お釜を持ちました。姉は書棚に走って、アランの「幸福論」を抜き取りました。母は小さな信玄袋だけを手にしていました。

 降り注ぐ焼夷弾の光の中で、最後に見た五月の庭には満開のコデマリの花が白く、くっきりと浮かんでいました。私の持ち出したお釜で水をかぶった命の井戸は、戦後もアパートの傍らに、古びた姿を残していましたが、新しい建物の下に埋められたのでしょう。今はもう跡形もありません。

 命の井戸から青山通りに出ようとしましたが、黒い煙が立ち込めていて逃げ場を失い、同潤会アパートに駆け込みました。駆け込むと同時にケヤキが音を立てて燃え上がりました。火の粉と強風が窓ガラスを叩き割ります。私達は居合わせた人たちと水盃(みずさかずき)をして、皆で手を合わせました。

 恐ろしい一夜が明けて、外に出ると、窓の下に亡くなっている人、人、人。視力を失った目には、五月晴れの空が、異様に青暗く、焼けた道は、あまりにも白く、目に沁みて痛みました。焼け野をバックにして、炭になってしまった黒いケヤキの幹だけが立ち並んだ不思議な景色。

 戦後、そのあとに植えられた木々が、今では大きく育って、再び美しい五月の若葉を芽吹かせています。

 子どもの頃、おもちゃの乳母車に人形を乗せて、母とお使いに行ったケヤキの木陰。あのいまわしい日に煙になってしまったその人形クリチャンの後ろ姿を、戦後の参道の雑踏の中に描いてやりました。

 表参道の思い出は何時とはなしに、また焼け爛れた石灯籠の在る風景に戻って行きます。

 荒涼とした悲しい光景は、何故繰り返されるのでしょう。又しても近頃きなくさいお化けが、したり顔をして、甦(よみがえ)って来るではありませんか。その勇ましく頼もしい様相は、昔現れたお化けとあまりにもそっくりなので、なんだか懐かしさが感じられる程です。私は人の愚かさに絶望的になったことがあります。戦禍の話をすると、冷笑する人に幾度か出会ったことでした。惨状の中に投げ込まれるのは普通の人々なのに、それに気付かないのかと。

 これからは戦禍の現実を伝えると共に、戦争やテロが起こるその根源を深く見極められる人々を育てる教育が、地球上に広がっていくようにと願うばかりです。

 ところが最近、表参道の石灯籠の近くに、「平和をのぞむ碑」が建てられたとのお知らせを頂き、救われた思いです。年を重ねて心もとない身ですが、何とか上京して、私にとっては鎮魂碑でもある、その前に立ちたいと思っています。
        
 平成十九年八月

 (渋谷区穏田一丁目)


 編者 五月二十五日夜半からの空襲を木村万起さんとともに経験した実姉の神戸富起さんから、「私もぜひ」ということで次の一文が寄せられました。

 あの日は夜十時ごろ、警報が鳴り「やがては解除」のつもりでした。夜の空を見ていると、何時もは我が家を少し外れた角度でB29は通ったのに、あの夜は真っ直ぐこちらを向いて焼夷弾を撒きながら低空でやって来ました。

 絨毯爆撃です。危ない!女三人で向かいの家の土手を夢中で登り広い庭を駆け抜けました。ユニオンチャーチの次の坂を駆け下りて参道の炎のアーチを通り抜けて同潤会アパートの前へ-。

 闇屋で求めた靴の裏の熱かった事が頭に浮かびます。火の勢いが強くて歩けません。兵隊さん(星一つか二つ)が誘導してくれ、アパートの中へ土足で入りました。窓ガラスも炎でバリバリ落ちました。

 霞んだ明け方。跡形もない我が家へ戻りました。気が付くと、眉も睫毛も焦げてしまい、煙と熱で目が沁みるように痛み、よくものが見えなくなっていました。

 三月の空襲の事はニュース等でよく耳にしますが、五月の空襲の事は余り話題になりません。

 平和がずうっと続いても、あの時の参道の恐ろしさを私は忘れることが出来ません。

 トタン板を被せられた多くの亡きがらを置いた所、それが地下鉄で地上に出た其処です。

 其処に記念碑が建てられた事を伺い、とても心安まる想いでございます。

 (神戸 富起)

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