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表参道が燃えた日(抜粋)-原宿・穏田・表参道・8

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-原宿・穏田・表参道・8

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/5/30 8:05
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 今も心に残る穏田町の惨状
              粕壁 直一









 暗渠になる前の穏田川 昭和38年
    穏田町会鈴木均氏提供

 昭和二十年五月二十五日、夜の十時頃、ラジオから、大本営発表の「警戒警報発令」に引き続き「空襲警報発令」が報じられた。「敵機数十機編隊が北上、本土に接近しつつあり」の報道であった。

 連日のように警戒警報から空襲警報にと報道されているので、〝またか、今夜はどこに落としていくのか″と、服に着替え、防空ずきんに鉄かぶとをかぶり、防毒面と重要物品の入ったリュックを背負って焼夷弾攻撃に備えた。

 その時、敵機(B29)の鈍い爆音が響き、聞こえ始めた。大空は各基地から探照灯が一直線に敵機を探し捕え、追い、高射砲弾が、迎え、追い、撃ち始まった。敵機の編隊は横一線に順次、芝・青山・渋谷方面から我が穏田町(神宮前)へと爆弾投下を始めた。意外に敵機は高度を下げた低空飛行で、搭乗兵士の姿が鮮明に見えた。

 私は外に出て、敵機に向かって四十五度に指差して、焼夷弾の落下状況をさぐった。青山方面から火の手があがり、暗い大空が順次、赤、黄、白、黒とバリバリバリと音を立てて燃え広がっていった。私の指先で大空に捕えた編隊機が一発、二発、三発…と焼夷弾を投下し始めた。それが空中で炸裂分解し、何十発もの焼夷弾となって火を吹いて落下してきた。

 私は急いで近くの家の玄関に身を寄せ縮まった。と同時に落下してきた焼夷弾が屋根を突き破る音、地面に突き刺さる音などが錯綜する中、狭い玄関にも私の目前に数発落ちた。奇跡的に直撃を免れた私は火に囲まれた。急いで我が家に戻った。裏の家が燃え始まっていた。我が家の防火用水の水をバケツで運び消火につとめた。火は障子に、床に、畳に…つき始め、茶の間、台所、玄関…と移り、私の手には負えなくなってしまった。外へ出て我が家を見たら、二階が火の海で燃え上がっていた。向かいの家もバリバリ音を立てて燃え上がっていた。薄暗い中、家の燃える明るさ。白黒い煙で行く手が見えなくなった。

 逃げ場を失い、身の危険を感じ、あせった。町内会長の松本さんもぼう然と放心していた。いつも〝最後まで逃げないで消火を″と呼び掛けていた会長さんも、炎火の中、私と伯父と三人になってしまった。日頃は、最後は明治神宮へ、青山墓地へ逃げると考えを決めていた。しかし、どの通りも火と煙が吹きまくり、一寸先が見えなくなり絶望した。

 いつも川で遊んでいた私は、その時、直感的に地下から川に通じるドブ(下水路)を伝わって川に飛び込めば、〝水″は火に勝てると思い、ねずみに変身した。川底まで数米、夢中で水を求め、飛び降り川水に身を浸した。狭い水路をもぐり、もぐり、穏田川にたどり着いた。地上は炎火で明るく、煙は白く、黒く巻き上がり、障子は燃えながらタコのように舞い上がり、急直下してくる。畳は舞い上がり焼き散って、まさに火の海と化してしまった。

 川べりに身を縮め、防空ずきんがボッボッと燃え、焦げる。鉄かぶとで川水を頭に掛け、身を守り続けた。伯父が「もう駄目かもしれない」と私の全身に水を掛けながらつぶやいた。炎火の中での〝生と死の対決″か!絶対生きなければならないと思い、手拭いに水を浸し、鼻、口からの息を止め、浅くそっと空気を吸い込む極限状態が長く続いた。三十人ほどの人が集まっていたが、そんな中、一人の海軍軍人が「もう少しだ、頑張れ!」と私達を勇気づけた。

 十米ほど下流の穏田橋を渡り、また戻ってくる四人ほどの親子の姿がかすかに見えた。〝川に飛び込め″と心で叫びながら声には出せなかった。母親と子供三人は重なり合うようにして、衣服は焼けとばされ、裸姿に変貌してしまっていた。救出できなかった無念さ、無力さが今も悔やまれている。

 穏田川の水量が急に増し、渋谷川の深みに流されそうになった。その時、上流に助け綱が下ろされた。私はこうして生き延びることが出来たのである。

 私の父親は消防団の団員であった。警戒警報が発令されると、すぐに近くの消防屯所に出向いて、警備、消火に勤めていた。当日も例外なく「警戒警報」発令の報を受けて、私を置いて消防屯所に向かった。わが家が燃えている時も、近くの要人、旧松田文部大臣邸の消火に全力を尽くした。その献身的消火活動の効もなく、大臣邸も焼けてしまった。父が操作し続けた手押し消防ポンプも、無残にも同潤会アパート三号館前の表参道中央に、ぽつんと焼け残されていた。

 翌朝、太陽が昇る。青山方面から大きな、おおきな太陽が、赤く黄色く霞んで見えてきた。視界は薄白い煙に包まれ、太陽は一日中ぼうっとしていた。昼頃、乾パンといわしの缶づめが配られた。父親は原宿警察署で、それらを被災者に配給する仕事があった。

 焼け跡を歩いてみる。

 原宿駅、皇族乗降口前の歯科医院の防空壕に四人の親子が焼死していた。外には中学三年生位の男子生徒が仰向けに倒れ、首からポッンと頭が切り離されていた。近くにB29機の機体の破片が散乱していたので、この破片が首を直撃したのかもしれない。駅構内の線路上に米軍機のガソリンタンクが落下していた。

 東郷神社の隣の海軍館から青山通りに通じる道路を、乳母車に乗せられた老婆を兵士が運んでいた。老婆のお腹は縦二直線に裂け、ピンク色の内臓が露出していた。その先、道路左側の大きな貯水池には下着姿の中年女性が溺れ死んでいた。軍需工場だった玉屋工場の道路向かいに、焼け焦げた遺体が山積みに集められ放置されていた。

 人間が炎火の中で焼け、焦げ、縮む。大の字に伸び、死ぬ姿が今でも脳裏から離れないでいる。私も大切な友人、秋野君を失った。二十五日の夕方、穏田交番前で楽しく語らい、迎えにきた姉さんと笑顔を交わしながら別れた。その五、六時間後、敵の焼夷弾攻撃をもろに受け、地域一帯が炎火に襲われてしまった。秋野と姉さんはどうしたのか。翌日、二人に会うことはなかった。この無念さ、この非情さ。戦後何十年と神宮前小学校の同窓会総会に出るために上京し、同級生や先輩に聞き当たってきたが、誰も知らない。合掌。

 (渋谷区穏田一丁目)

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