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表参道が燃えた日(抜粋)-原宿・穏田・表参道・9

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-原宿・穏田・表参道・9

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/5/31 17:47
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 学徒動員と山の手空襲
            鷹野 幸雄



 私は大東亜戦争が激しさを増した昭和十九年八月(旧制中学三年生、十四歳)から昭和二十年八月十五日、終戦の日(中学四年生、十五歳)までの約一年間に亘り杉並中学校(現中央大学付属高校)の同期生約二百名と共に学業を放棄して、学徒動員として立川の日立航空機で飛行機の発動機の部品を製造しておりました。

 その間、立川の工場は米国の艦載機の空爆により大きな被害を受け、工場の一部は中央線国分寺駅より西武多摩湖線の武蔵大和駅の小高い山麓にある工場に移転しました。当時の勤務状態は、休日は日曜日と元旦のみで、十四、五歳の中学生でも三部交替性の厳しい勤務でした。また、戦時中なので規律が厳しく、教師には絶対服従で、ひと言文句を言えば全員ピンタの制裁があり、軍隊並みの生活を送っていました。

 昭和二十年五月二十三日、この週は午後十時から翌朝七時までの夜勤勤務でした。旋盤の操作をしていた時、「警戒警報」そして数分後に「空襲警報」のサイレンが鳴り、五十名の同期生と共に防空頭巾をかぶって工場の後ろにある山中に駆け込みました。空は星が輝いていましたが東の方向を見ると、空が赤く染まっており、プラネタリウムで見るようなシルエット風の色々な建造物の景色が彼方に見え、中野周辺の高射砲隊であろうか、…探照灯の光が空に向かって十文字に回転していました。B29数機が焼夷弾を雨のように投下すると東の空が広範囲に炎と共に燃えあがり、真赤に染まっておりました。

 そして翌朝二十四日、午前七時過ぎ、工場からの帰途山手線の原宿駅で下車すると、私の自宅のある神宮通り方面は昨夜の空襲で殆ど家が焼き尽くされ、渋谷の東横デパート(現在の東急東横店)が丸見えでした。私の住み慣れた家は跡形もなく焼け落ちておりました。

 私の家は穏田川に接して昔の町名は「神宮通り」に居住しておりましたが、現在穏田川は遊歩道となり。「キャットストリート」と呼ばれており、また、若者向けの店も多く立ち並んでおります。

 五月二十三日の空襲では穏田川を挟んで神宮通り側が戦災を受けましたが、穏田神社側にある穏田町は戦災を免れていたので、私達家族は持ち出した布団や少しの荷物を持って、穏田町にある二階部分を借りました。しかし、五月二十三日から二日後の五月二十五日夜半に再び大空襲があり、現在の神宮前地区は無差別の焼夷弾攻撃を受け焼野原と化しました。

 穏田川の際(きわ)に作った防空壕に母と一歳半の妹を入れ私が空を眺めていると、赤い炎の焼夷弾がひらひらと揺れながら落ちてくるのが見え、また、穏田神社の近辺の家一帯が真赤な炎と共に燃え始めており、「火災になると風を呼ぶ」と言われていますが、火の勢いで起こる風がゴーゴーと云う不気味な音と共に穏田神社も燃え始めておりました。防空壕に入って少し時間が経過した頃、外を見ると大小の火の粉が飛び交い、三人の見知らぬ人達が「助けて下さい、外は熱気で熱いので入れて下さい」と言って防空壕に入って来ました。

 五月二十六日の早暁、爆撃の昔も静かになり防空壕から外へ出ると、見渡す限り焼野原となっており、変わり果てた景色に呆然として立ちすくんでしまったのでした。

 五月二十五日から二十六日の大空襲では大勢の人達が被災し、また命を落とした方もおられますが、私達「神宮通り」の人達は前回(五月二十三日から二十四日)の空襲で家を焼失した為に空地が出来ていたので、人的被害は少なかったのではないかと思います。本当に命があって良かったと、近所の人達はお互いに抱き合って喜んでおりました。

 中野に居住していた私の従兄は早稲田大学二年生で、豊川の海軍工廠に学徒動員として勤務していましたが、終戦の一週間前の昭和二十年八月七日に艦載機の爆撃を受けて、早大生十数名、及び他の大学生等と一緒に亡くなりました。

 私自身が体験した戦争(戦災)の恐ろしさ、悲惨さ、残虐さ等を六十二年前に遡って記憶の扉を開いたものです。そしてこの事実を我々は後世に伝えてゆきたいと思っております。

 (渋谷区神宮通り二丁目)

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