疎開児童から21世紀への伝言
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『横浜市の学童疎開』と超満員の被爆体験講演会 その1
鈴木昭三 (戸部校)
早いもので『横浜市の学童疎開』を刊行してから、十有余年が経つ。この間、疎開問題研究会(前身「横浜市の学童疎開五十周年を記念する会」) のこれまでの活動で、特筆すべきものを挙げると、この本の刊行をはじめ、一九九四年十月から約一か月間、横浜市中央図書館で催した「横浜市の学童疎開展」の他、東京・九段の昭和館に寄贈され、現在常設展示している、二〇〇四年八月に催した集団疎開を再現したジオラマの展示、また二〇〇六年九月に疎開関係の図書・資料百点以上を横浜市中央図書館に寄贈したこと、さらに二〇〇二年八月に横浜・本郷台の地球市民かながわプラザで行った、広島原爆の被爆者である関千枝子さん(ジャーナリスト) の講演に超満員の四百人を超す市民が集まったことなどが数えられる。
このうち、私が深く関係した『横浜市の学童疎開』の刊行の舞台裏と、大成功だった関千枝子さんの講演の裏話について述べておきたい。(以下、文中の会員名は敬称略)
全校から疎開体験記を集める
「横浜市の学童疎開」を作るにあたって、会では編集委員会を立ち上げた。数々の紆余曲折があったが、編集委員のうち、大石規子、小柴俊雄、鈴木昭三、山口章(ゆりはじめ)の四人が、月一回の横浜市教育委員会との編集委員会に出席、本の企画、内容などを論議した。その結果、第一部を資料編(小柴担当)、第二部を疎開学童の体験記(鈴木担当)、第三部を学童疎開関連の研究・作品(ゆり・大石担当)、第四部を「横浜市の学童疎開展」 の特集、とすることになった。
私が担当した体験記は、原稿集めが難航した。当時横浜市で学童疎開を実施した小学校は、公私立合わせて七十七校。その全校から手記を集めることが大原則。当初は原稿がなかなか集まらず、総会を数回開いて各校関係者に手記を寄せるよう呼びかけを行った。一九九五年十月が締め切りだったが、再度締め切りを延長して年末までに計三百二十六編の体験記が寄せられた。他に磯貝真子の奔走で、横浜市立ろう学校、横浜訓盲院、中華学校の体験記も届けられた。
みんなで編集作業を
「会員みんなで編集、校正する」を原則として、毎週土曜日に二十人-三十人の会員有志が関内駅前の横浜市教育文化センターの一室に集まり、編集作業がはじまった。
作業をはじめて気がついた。編集に経験があるのは私一人。他全員は主婦、会社員などで、オール初心者なのである。そこで、私がコーチ役となり、「原稿を編集するときは青鉛筆か青のボールペンで、校正をするときは赤鉛筆か赤のボールペンで」という初歩からコーチし、こうして「みんなによる編集」がはじまった。
編集作業は約四か月続いた。実は「みんなで編集」は、私に二重苦、三重苦の苦労を強いたのである。というのは、全員が素人。どうしても直し洩れ、校正ミスが出る。このため、私の許に集まった 「編集ズミ」「校正ズミ」の原稿に全部目を通してチェックしなければならないのである。私が三百編を超す体験記の原稿を読んだ回数は五回を数えた。
こうして『横浜市の学童疎開』は出来上がった。でも、刊行後の一九九六年十月に横浜市長公舎で刊行記念祝賀会が開かれたさい、数人の会員から「私たちが作った本なのよねえ」という声を聞いたとき、私の人知れぬ編集作業での苦労は消し飛んだ。「やっぱり『みんなで編集』は間違ってなかった」のである。
刊行を支えた地味な仕事
ここでどうしても記しておきたいことがある。それは、体験記の原稿が届けられる「ポスト」役を担当した小山三郎の「縁の下の力持ち」的な作業である。小山は届けられた原稿を全部コピーし、正副の原稿を作った。それを学校名を記した大封筒に入れ、体験記を書いた人の氏名の一覧表を封筒の表に貼った。高校の校長という激職の傍ら、黙々とこの作業を続け、三百二十六編の原稿は整然として私たちの手元に届いたのである。編集した原稿はすべてコピーした方で、正の原稿は貴重な疎開関係資料として、現在、本郷台の地球市民かながわプラザの資料室に寄託している。小山の地味な作業がなければ、本の刊行も、原稿の寄託も実現しなかったといっても過言ではない。
もう一つ。各校の体験記の冒頭に置かれた、その学校の疎開の概要と校章、疎開に関する写真などの資料集めをしてくれた磯貝真子、ページの余白を埋めたコラムを書いた伊波新之助、イラストの岡本陽も、蔭で編集を支えた会員として挙げておきたい。
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『横浜市の学童疎開』と超満員の被爆体験講演会 その2
鈴木昭三 (戸部校)
◇
予想を超えた聴衆が集まる
二〇〇二年八月十五日に本郷台の地球市民かながわプラザで行った、関千枝子さんの原爆の被爆体験講演会は四百人を超える聴衆が集まり、今さらながら日本国民の原爆に対する関心の深さを思い知らされた。
この企画は、疎開問題研究会の世話人会で「今年は従来の単なる催しと違って、敗戦にまつわる講演会を催そう」ということになり、数人の講師の名が挙がった。関さんはそのうちの一人で、幸いにも私の妻の友人であった。その被爆体験を綴った「広島第二県女二年西組」(ちくま文庫)という名著がある。すぐに妻を通じて講演の依頼をし、快諾を得た。
準備のため、地球市民かながわプラザ側と協議に入り、「五十~六十人程度の聴衆が集まる」と予想した。ところが、当日が近づくにつれ、同プラザに問い合わせの電話が次第に増え、当初の予想より多くの人々が来ることがわかった。そこで、会場を八十人収容の大会議室に変更した。
そして当日。さらに多くの人たちが続々とやってくるではないか。急速、二百人が収容できる大ホールへと会場を再度変更した。
定刻になると子供連れの若いお母さんたちをはじめ、沢山の人たちが行列を作り、ホールは瞬く間に満員となった。補助席を出してもまだホールに入りきれない人たちが出てしまった。
「これ以上、ホールに入ると消防法違反になりますから」とプラザ側は無情にもホールのドアを閉めたが、プラザの係員がいなくなるのを見計らい、残っていた五十~六十人の人たちをそっと入れ、階段のところに坐ってもらった。ざっと四百人を超えただろうか。
大盛況のカゲにこんな苦労も
講演は会報(第十号、二〇〇二年十月発行)でも報告した通り大成功だったが、なぜこんなに聴衆が集まったのだろうか。もちろん、世界唯一の被爆国の日本の国民として、原爆に強い関心があることが一番の理由であるが、もう一つ大きな理由があった。
それは、伊波新之助が事前に各新聞社の横浜支局をはじめ神奈川新聞社を回り、関さんの著書『広島第二県女二年西組』を配って、この講演会を記事にしてくれるように頼んだことであった。各新聞ともこの催しを大きく取り上げ、それが市民の関心を引き、四百人を超す聴衆となったのである。
また、会場で「当時の食糧事情を体験してもらおう」と、安田義乃らが作った「蒸しパン」を配ったのも好評で、はじめ百五十個用意したが、予想を上回る来場に三百八十個に増やしたものの、それでも足りないという嬉しい悲鳴もあった。
実をいうと、この講演会の前、関さんは高齢などを理由に被爆体験を語ることを止めようかと考えていたという。しかし、この講演会で「まだこれだけの人が聞きに来てくれるんだ」と実感、これからも続けていくことにした、という話を後で聞き、私たちの企画と苦労も無駄ではなかったと感じた。
このように大盛況裡に終わり、数々の収穫もあった講演会であったが、私にはまだ「仕事」が残っていた。それは、約二時間に及ぶ講演のテープを起こし、会報の記事にすることであった。テープ起こしは約=週間続いた。久しぶりの作業なので疲れ果てた。しかし、満足感のある心地よい疲れであった。
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戦争の恐怖二題
菊地 章(本町校)
一 本町国民学校四年二組全員が見た横浜港大爆発
昭和十七年十一月三十日、小春日和の日だった。僕たちはお弁当を済ませ、午後からの体操の時間に備えて運動場に出ていた。思い思いの格好をして遊びながら先生を待っていた。しかし、先生はなかなか来ない。
様子を見に行った友達の話では、先生は職員室で何か書き物をしているらしい。
小半時ばかりして、やっと先生が現れたので僕は走り寄って、「先生! 港のほうで変な黒い煙が出ているんで見に行きましょうよ」と言ってみた。先生はすぐに全員を縦隊に整列の号令をかけて番号を点呼し、「大神宮様まで駆け足!」と大声で怒鳴ると先頭に立ち、首から掛けたホイッスルを鳴らした。僕たちも笛に応じながら「いち・にい・いち・にい」と叫び、運動場から横道を登って参道に入り、全員が正金倶楽部の正門の前を通り過ぎたと思ったその瞬間、中央桟橋の方向にいきなり二、三百メートルの巨大な水柱がすっくと立ち上がり、そのてっぺんが真っ赤になって「ドカン!」という猛烈な爆発音。先生はとっさに「伏せ! 伏せ!」と大音声を発した。皆は道路に平たくなって伏した。水柱は真っ白な滝のようになって消えたが、いつの間にか黒煙が空を覆っていた。「教室に戻れ! 全員、教室に戻れ!」 の号令とともに僕たちは元来た坂道を脱兎の如く、雪崩の如く駆け下りて教室に戻った。
幸い、五十余名中、誰一人傷ついた者はいなかった。「このことは誰にも喋ってはいけないぞ。たとえ親にも喋ってはいけないぞ」と先生からかたく口止めされた。
学内放送があって集団下校することになったが、関内方面の児童たちは父兄が迎えに来ない限り帰途につけず、教室で待機することになった。
小爆発がなお小刻みに続き、黒煙は空を覆い、夕闇が迫ったように暗くなった。
二 章くんの体験 機銃掃射
章くんが機銃掃射を受けた時の体験談です。その時、章くんは中学校一年生でした。大空襲の十数日前のことですから、中学生になったばかりの、まだ湯気が立っているような新入生でした。学校の校門を出たところで、その新入生たちを目がけて敵が機銃掃射してきたのです。機銃掃射というのは、飛行機から機関銃で、人や物をなぎ倒すように撃ってくることです。
学校は丘の上にありました。章くんがクラスの友人と二人で校門を出た途端、アメリカのグラマン戦闘機が前方の丘の生け垣すれすれに見えました。見えたというより、グラマン機がそこにいた、という表現のほうが当たっているかもしれません。出会い頭に、真っ正面に対峠してしまった格好です。と、次の瞬間、二人に向かって黒い蜘妹の糸のようなものが伸びてきました。二人は反射的に右側の小さな窪地に飛び込みました。銃弾がうなりをあげて地面を削り、えぐり取っていくようなすごい音が耳をかすめました。
今度はグラマン機がすぐ左上に来ているのが分かりました。三階建ての建物くらいの高さのところです。飛行機の窓に敵軍の飛行士の顔がはっきりと見えました。飛行帽をかぶり、飛行眼鏡を上にあげ、両目でこちらを見ています。飛行士と章くんの目と目が確かに合いました。
グラマン機は、いきなりエンジンの回転数を上げ、左旋回しながら、さらに上昇しようとしています。「ここにいては危ない!」「また狙われる!」二人は無言のうちに、とっさにもう一軒右隣の家の縁の下に這いずり込みました。もう人の家も自分の家も考える余裕はありません。
グラマン機は不気味な音を立てながら、態勢を整え、校門から十数メートルで右に折れる坂道に沿って、下から真っ直ぐ迫ってきます。坂の途中の右側にある工場を標的に銃撃を加えました。ものすごい轟音です。地面に伏して十本の指で顔を覆い、息を殺していました。
章くんたちより先に校門を出た友人たちが、前方の丘と丘の谷間にある田んぼの細道を歩いているはずです。グラマン機がそのあたりを銃撃している音が響きわたります。悲鳴が聞こえたような気がしました。
どのくらい時間が経ったのか、不穏な音が消え去りました。おそるおそる縁の下から這い出て、家に向かいました。前を行く友人たちに追いつきましたが、一人も犠牲になった者がなく安堵しました。
章くんが戦争が終わってからも毎年必ず、一度や二度は機銃掃射される夢を見ると言います。夢の中では、いつもと言ってもいいほど体が金縛りにあって、まったく動きがとれなくなります。そして数えきれないぐらいの弾丸が身をかすめます。目が覚めると、背中は冷たい汗でびっしょり。体は硬直しています。夢の中でも「あの時は助かったんだ!」と何度も叫びながら目を覚まします。
何十年も月日が経ち、還暦を過ぎてからは「俺は六十歳まで生きたんだ」と悪夢から逃れようとしました。古稀も迎え、あんな夢も見なくなったかなと思い始めたら、イラク戦争が始まり、また同じ夢を見てしまいました。「死ぬまで見たくもない夢を見続けるのか」と、いたたまれない気持ちでいっぱいです。
なお、グラマンというのはアメリカの航空機会社の名前です。中型・小型軍用機を開発・生産し、二万五千機を製造したといわれています。太平洋戦争の時には、航空母艦の艦載機として使われていました。
男の子の中には、戦争に関する玩具が好きな子もいます。戦争というよりは、闘ったり闘わせたりすることに興味があるのでしょう。特に、飛行機や戦艦、航空母艦、戦車などで、想像の中で遊ぶようです。私の長男も小さい時、戦車のプラモデルを次々に買い込んでくるものですか「戦争が好きなのかしら」と、私をあわてさせましたが、単にいろいろな型の戦車を集めたかっただけのようで安心した記憶があります。
昨今の映画でも、これでもかこれでもかというように戦闘場面がエスカレートしていくものがあります。戦争の本当の姿を知らない子どもたちに悪い影響がなければいいがと、心配になります。人は、人を傷つけたり、殺したりしてはいけないのだと、心から思ってほしいと願います。自分の命も人の命も大切にしていきたいものです。(文責・大石規子)
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六十三年も前のことなのだけれど
二〇〇九年横浜海港・日本開国一五〇周年
植田総子 (共進校)
一八五三年、ペリー来航直後は、日米・日英・日露・日仏・日蘭・和親条約がなされた。ペリーは一八五八年にこの世を去っている。一八六一年にはアメリカ南北戦争が起こって、開港から四〇~五〇年後には日清戦争(一八九四年)、日露戦争(一九〇四年)が起こり、さらに十年後には第一次世界大戦(一九一四年)が大規模に。日本は国際連盟に加入し (一九二〇年)、一九三三年には脱退して日独伊三国同盟(一九四〇年)を結成した。一九三一年の満州事変がもとで日中戦争(一九三七年)、第二次世界大戦(一九三九年)へと突入、太平洋戦争(一九四一年) へ。「欲しがりません。勝つまでは」 で、ぎりぎりまで。
「開国」との関係はどうなっていたのだろうか。その時代を人々が去った後は、その後の人々によって源から離脱していってしまうものか。引継ぎをしないと。
太平洋戦争勃発初期の、日本戦勝ニュースに拍手を送ったが、数年後には本土空襲を受け、ついには大きなものを失った。当時「子ども」としては「頭のいい大人」 の決断を観察したことになる。今回改めて一九四五年の新聞にどう書かれていたのかを見てみた。結果的に民主主義国家となった。国というのは戦争状態が常と思えていた。戦争体験者から「過信だった」と反省の弁を聞いている。
戦争終結から十年後(一九五五年)太平洋沿岸市長会議が横浜で開催された。
この会議に同伴された奥さま方を三渓園に案内した。宿泊先(ホテルニューグランド)から、ホテル名入り便箋で礼状をいただいている。英文記事とともに大事に保存してある。(十一月十日)
二〇〇八年は疎開問題研究会(学童疎開の会)十五周年、戦後六十三年になった
六十三年前というのは、一九四五年からみれば、日清戦争よりも十年ほど前の鹿鳴館時代(明治十六年)のことになる。子の世代からは「昔のことでしょ」と言われるのももっともであるが日本の対外負の初体験から得たことで、語り継ぐべきこととして十五年前に結成された会の一メンバー(発起人ではない)になっている(横浜市生まれ、相模原市在住)。
疎開の会・十五周年特集「占領下の日本」‥・占領下のホテルニューグランド
マッカーサー元帥とホテルニューグランド二代目会長・野村洋三氏
一九四五年八月十五日正午‥・終戦
八月三十日…マッカーサー元帥搭乗機「バターン」は厚木飛行場に午後二時十九分に到着した
濃いサングラス、ノーネクタイ、コーンパイプをくわえた気楽な姿で日本人の前に現われた。飛行場で出迎えたのはアイケルパーカー中将「‥・これで一件落着だな」と握手、「メルボルンから東京まで長い道程だった」 (戦争の終結を意味する)‥・すでに米八軍一四六名進駐(二十八日)
‥・直接軍政を断念し、日本政府を通じて占領行政を行うこととなった‥・
野村洋三会長はモーニング姿に身を固め、マッカーサー元帥(Douglas MacArthur)の到着を待っていた。
「元帥の宿は当初、葉山御用邸の予定だった。その時点では、元帥をご招待しようと思っていた矢先、知事から頼まれた」
「大変落ち着いて静かな、軍人というよりはむしろ哲学者か詩人のような風貌だった」
執務はマッカーサーの部屋三一五号室MacArthur's suite 315 当時は三一五、三一六、三一七が揃って(suite room)三一五室は海に向かって三階中央/イチョウ並木の枝越しに港が一望…現在も「マッカーサーの部屋」がそのままに。拝見させていただいた。
初日の昼メニュー…スケソウダラ、サバ、たっぷりの酢をかけたキュウリ、人参、じゃがいも…一口でフォークを置いた/レモンティーは二杯飲んだ…このとき、野村会長は横浜の食糧事情を直訴した‥・数日後には市民への食料放出が始まった。
夕食以降は第八軍司令部が用意した食糧で。その日の夕食はハンバーガー、パン、ぶどう
九月二日…米軍ミズリー号で降伏調印式…敗戦
九月十一日‥・横浜からアメリカ大使館へ (東京)
九月十五日~‥・東京第一生命ビル (司令部) で執務
マッカーサーが去った後は高級将校、婦人将校が占拠。
ホテルニューグランドは一九四五年(会長七十五歳) ~一九五二年六月まで接収された。
マッカーサーは来日五回/四回目は新婚旅行で、このホテルニューグランドに。以後このホテルを訪れることはなかった。
マッカーサー元帥は東京オリンピックの年に世を去って(一八八〇年~一九六四年)、野村洋三氏は後を追うように翌年九十五歳で逝かれた(一八七〇年~一九六五年)。
野村洋三氏(二十一歳)はアメリカ留学先からの帰路(船中)、新渡戸稲造(二十九歳)と出会って親交を深めていた。
ホテル占拠解放後の野村洋三会長の回想(彼等が去ってみて気付いたこと)
…占領下そこはアメリカだった/留学と同じ状況があった
…料理の手順、衛生面、管理…大変だったけれど、外国人の多いホテル運営に役立った。
野村洋三会長のシェイクハンド(shake-hands)
「相手に自分の生きていることを伝え、喜びと感謝の念を伝える。一期一会の精神で、そこに人間交流が生じていくというそのことが大事なのだ。」「お客さんが健康に愉快に過ごすように祈る。」という思いで。
横浜疎開問題研究会会員・鈴木知明氏は接収中に入社(現役)野村洋三氏と共に…当時の様子を伺った。
ホテルニューグランド創立記念号も参考にさせていただいた。
当時のホテルニューグランド内でのことは全く話にも聞いていなかった。山下公園から見えるホテルニューグランドしか知らなかった。一番人気のビンゴ大会の状況が見られなかったのは残念なこと。
今上陛下(昭和八年生まれ)は、二〇〇八年十二月二十三日には七十五歳を迎えられた。私はその二日後の十二月二十五日に。昭和二十年度小学六年生が、平成二十年度は七十五歳なのだ。あるスーパーオープン記念に「あなたが生まれた日の新聞をあげます」とあるのを二十数年前に目にした。そこには「各国元首から祝電」とある。二十四日(日曜日) の東京朝日新聞には、日本国の 「お喜び」 のニュースに皇室と一般市民が報道されている。さらに三十日には、日本政府「列国に協調!」、「海の彼方より平和の声」という一段と大きな文字が目に入る。
されど・・・その八年後には‥・
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ひょうたんから駒 この会に思いがけないことがひそんでいた
疎開の会十五年目、ニッポン一九四五年の証言‥・「占領下の日本」を担当した‥・占領下のメインを引き受けドアーの外は敗戦国で中は戦勝国。当時の日本のことを思うと、ひんしゆくを買うことになるが、その他、映画、ダンスなどが催されていたそうだ。接収解除後も外国人があふれていたとのこと。現在も猶変わらないことと。
九月八日…米兵八〇〇〇名がジープで進駐 東京へ (GHQ) へ。
九月十日…言論・新聞の自由を要請、民主化政策の占領(政治・経済・社会・文化)となった。
昭和天皇(九月二十七日)・首相(二十九日)はマッカーサー元帥を訪問した。
九月二十日…教科書の「墨塗り」指令。
十二月三十一日…「修身、日本史、地理の授業停止・教科書回収に関する覚書」指示。
接収建物…三六三軒(学校・ホテル・高層ビル・書店・公園・遊園地・デパートなど)…私の疎開先の小学校は全焼(五月)、元の小学校(鉄筋三階建て水洗トイレ付き、片側スロープ)は接収され(その他五校)、間借りのまま卒業式(旧制度)。こんな時、進学を決めなければならなかった。
終戦直後八月の新聞記事…「新しき日本」建設への二大道標
…科学と芸術の振興…叡智と耐久力で起て…と。
十二月…「りんごの歌」が戦争直後の人々の心を和ませた。
私がビンゴを知ったのは一九五〇年、高校時代のガールスカウト日米交歓会でのことであった。しかも一等賞。その後も何度か一等賞になっている。
このビンゴゲームを英語指導に取り入れた記事が教育雑誌に載っていた。「私も同じことをやっています」と投書した。やがて招待状が届いた(東京都教育委員会)。参加し紹介を受けた。私自身も大受けした。
(教える側も大成功したことになる)…一九六八年
第十五回疎開展で 「占領下の日本/ホテルニューグランド」を見た友人からメールが入った。「ホテルニューグランドに兄が勤めていた」と。すると鈴木知明氏へ 「懐かしい」と電話があったとのこと。「集団疎開先への面会は親・兄・姉・妹(幼児) で来てくれた」と、聞いていたそのお兄さんのこと。
戦火、病気、事故でこの世を去られた先生、同志の方々のご冥福をお祈り申し上げます。
再会と新しい出会い/全市内の小学校卒業生と共に
大類幸恵様に 五十年ぶり
よく遊びに行っていた斜め向かいの家に出入りするところを数回お見かけして以来。
個人的には、この会の発足当初の展示会来場者名簿(市内九十三校、一二二三名)に五十年間音信不通だった旧友の名を見つけた時から心に変化があった。「元気」を確認して、もう一人を探すために、お姉さんの同窓会名簿からお兄さんを探し出し、すばやく判明した。何と三人は同じ沿線に住んでいた。再会は小学校一年の時にぴったり繋がった。以来、沿線駅や懐かしの場所、新名所で出会ったり、メールしたりして五十年の空白をうめている。会の設立あってのことと感謝したい。五十年ぶり‥・電話での声は耳が覚えていた。
敗戦後の六年二学期・三学期の担任の先生(後に校長)に五十年ぶり、我が子二人(五学齢違い) の小学校の校長先生とは三十年ぶりに、疎開の会開催日に会場で再会できた。お二人は師範学校の同期生で、その何年か後に旅行会が一緒のグループになられた。
十五回目の疎開展にはお目にかかれなかった。九十二歳を迎えている。いつも返信がすぐあるのに、お二人ともである。気になっている…。お一人が入院リハビリ中、「退院」の情報を得た(原稿しめ切直前に)。
もうお一人(我が子の校長先生)は二〇〇八年五月に亡くなられていた(十二月二十日判明)。享年九十一歳*空白の三十年間のことを伝えてくださった*もう一度お会いする予定でいた。「先生の出征兵士として見送りを受けた時の写真が疎開展に掲示された。無事復員でき、ご本人の手元に戻った」というエピソードがあった。私が連絡役をした。
共進小学校友人Y校グループが毎回の八月十五日には来場し慰労してくださった(会への寄付もしてくださった)。*お二人の校長先生にはこの旧友と一緒に再会していた。
黒塗り教科書展示に関して
‥・黒塗りしてあるもの・黒塗りしていないものが必要になる。
…ガラス張りで展示(新聞紙上に載った。2008/8)
…借用/所有者(横浜市生まれ、相模原市在住)は活用を喜んでくださった。
疎開児童受け入れ校で空爆全焼した唯一の学校
疎開展の最終日の片づけを手伝ってくださった小学校の現役の先生‥・私の疎開先五十年後の先生/いち早く駆けつけてくださった。
開戦までにアメリカ留学から帰国していて
一九四九年、節子先生に出会って今がある(もう一度お会いしたかった。先生の笑顔と声は英語の発音とともに残っている)。その五十年後に 「疎開展」 の縁で節子先生の魂に出会っているよう。一九〇九年創業の有隣堂ご長女(節子先生) のことを「横浜有隣堂九男二女物語」(松信八十男著、草思社、一九九九) で改めて詳しく知った。
二〇〇九年は横浜開港一五〇年であり、有隣堂創立一〇〇年となる。
日本敗戦下を引き受けてくださったホテルニューグランドは後十数年で一〇〇年になる。
感謝とお祝いを申し上げます。
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集団疎開での主な出来事
吉岡重昭(蒔田校)
疎開が始まった昭和十九年八月、私は「蒔田国民学校」の五年生でした。当時、選択肢が三通りありまして、縁故疎開、集団疎開、残留組が有りました。私はどういう訳かよく覚えていないのですが、残留組を選びました。第一陣で行かれた方々には申し訳ないのですが、今になって思えば、たとえ三か月といえども、わが家に残っていたことは大変幸福だったと思います。たまに疎開先の箱根から帰って来た先生方が箱根の疎開生活は楽しいような事を云っては私たちを誘っていました。
私は十一月まで学校へ通っていましたが、集団疎開の第二陣で十二月二日に出発しました。なぜ集団疎開を選んだのか、その理由は忘れました。
総勢七十六人でした。その朝はものすごい寒さで、おそらく氷点下だったと記憶しております。現在の地下鉄「蒔田駅」の近くにありました、市電の停留所「宮元町三丁目」まで母が見送りに来てくれました。私が電車に乗る時、母が目頭をそっと押さえていたことを今でも鮮明に覚えています。私は今でもこのことを話す時、どうしても涙が出てきて困ってしまいます。
横浜駅から列車に乗り、小田原駅からは箱根登山電車に乗り「宮ノ下駅」で下車しました。そこから約二時間ほど歩き、途中で昼食をとりました。私たちの疎開先、仙石原にある旅館「仙郷楼」に到着したのは、十二月ですので薄暗くなった四時頃だったと思います。
最初に驚いたのは、第一陣の男子生徒全員が「仙郷楼」の入口で私たちを出迎えました。ところが、これは私たちを出迎えたのではなく「敵は本能寺にあり」で、目的は私たちが背負っているリュックサックの中に残っている食べ物だったのです。私のクラスだった全員が「吉岡!」「吉岡!」と言って手を出すのです。
私はその光景を見てびっくりしました。食糧事情が悪いといっても自分の家から出てくるということはおにぎりの一個、キャラメルの一粒くらいは残っているのではないかということだったのです。私は多少食べ物が残っていたので、部屋に着いてから何人かに分けてあげたことを覚えています。
次に驚いたのは、夕飯のご飯の少ないことでした。普通のご飯を食べるお茶碗一杯くらいでした。最初の夜、寝る時に母を思い出し涙が出たのを今でも鮮明に覚えています。約九か月間、疎開先にいましたが、涙を流したのはこの時だけでした。
さて、疎開先での出来事を順にお話しいたしましょう。体操の時間、一列順に並ばされました。軍隊上がりの先生で、真似しろと言われてもできないような大声で「お前たちの目はイワシの目だ。死んでおる。そんな目で日本が戦争に勝てると思うか。」 と言っては、並んでいる順に殴られました。体を動かす体操の時間ではなく、殴られる体操だったのです。当時の軍隊上がりの先生たちは、親元を離れている、当時八歳か九歳の子どもたちを平気で殴りました。柱に額を打ちつけられ、大きなこぶをつくった子どもを日常茶飯事に見たものです。軍国主義の時代とはいえ、気違いじみた時代でした。とても許されることではありません。極刑をもってしても足りないくらいだと思います。
初春の三月の末頃、朝日ニュースが私たち疎開児童の生活ぶりを国民に見せるために撮影に来ました。ススキで有名な台ケ岳の麓でラジオ体操をしている場面でした。五月の中頃だと思いますが、声楽家の四家文子さんとオペラ歌手の栗本正さんが疎開児童のために慰問に来てくれました。同じ仙石原に疎開していた共進国民学校と南太田国民学校、そして私たちの蒔田国民学校の児童が仙石原国民学校の講堂に集まり、四家文子さんと栗本正さんに歌を習いました。『あわて床屋』『フニクリフニクラ』などでした。
不思議なことに、今日になって思うとこの時、現在の疎開問題研究会に入っている、共進国民学校の竹腰(旧姓・小野)祐子さんとお会いしていたのだと思うと、美空ひばりの歌ではないけれど、人生というのは実に不思議なものだとつくづく思います。その四年後、昭和二十四年四月にY校で同じクラスになるなんて誰が想像できたでしょう。
同じく五月の末頃、四校の相撲大会が金時山の中腹でありました。女の先生がいらなくなった敷布で、にわかフンドシを作ってくれました。私は、南太田国民学校の鈴木昭君と相撲をとり、私が勝ったのです。
さてそれから約四十年後、Y校で同期だった鈴木昭君と再会を果たしたのです。私たちY校同期のクラスの幹事が毎月二十七日に会合を開いておりまして、たまたま疎開の話題が出た時に、相撲大会の話になり判明したわけです。世の中広いようでいて狭いというはこのことだとつくづく思います。
相撲大会から約一週間後のことですが、脱走事件が二件ほどありました。一人はお金を持っていたので横浜まで帰ることができましたが、もう一人は辻堂と藤沢の中間地点の線路脇で疲労のため倒れていたところを、近くに住んでいる人に助けられたそうです。小田原駅近くにある酒匂川、平塚駅近くの相模川にかかる、それぞれ約二百メートルはある鉄橋を這って渡ったそうです。わが家へ帰りたい一心からだったのでしょう。
そしていつ頃か忘れましたが、集団疎開児童全員に皇后陛下からビスケットをいただいたことは忘れられません。
初夏の六月下旬頃のことです。箱根で一番高い神山、千四百メートルへ登った時のことでした。頂上にいた時、アメリカの戦闘機グラマンに発見され、奇襲されました。初夏なので白いシャツを着ていたため目立ったのだと思います。映画・テレビでよく見るような機銃掃射を受けました。先生の顔が真っ青になり、全員木の陰に隠れるように言われました。私も当時十一歳、この世もこれで終わりかと思いました。こんな怖い思いをしたのは生まれて初めてでした。
それから二週間後、私にとっては忘れることのできない日がやって来ました。学校から各家庭に通達があり、どこか行く所があれば引き取りに来るようにとのことだったそうです。父が迎えに来てくれました。約八か月ぶりに父と温泉に入りました。父が私の布団を背負って両手に荷物を持ち、私も行李を持って帰途につきました。私の町内会に、当時の桜木町の駅長さんがいましたので切符が手に入ったそうです。横浜駅から京浜急行に乗り、南太田駅で下車しました。見てびっくり、一面焼け野原、ビルらしきものは野沢屋だけでした。八か月ぶりに、わが家に着いた時は嬉しさで涙が出ました。終戦の日のちょうど一か月前のことです。八月十五日の終戦の玉音放送はわが家で聞きました。なお、私の家は五月二十九日の横浜大空襲では奇跡的に助かったのです。以上が、私の集団疎開中の経験談でございます。
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疎開地で出会い 黙って消えた戦傷病兵に思う
野本 洋(西前校)
昭和十九年八月、西前国民学校四年生であった僕は集団疎開の一員に加わり、湯河原町へ来た。引率の先生より「きょうから学校がここへ移った。しっかり勉強して、お父さん・お母さんに心配をかけないように…」と励まされ、終わりの見えない疎開生活の一日が始まった。
横浜からの疎開つ子を受け入れたこの町には、疎開児童より数段多い戦傷病兵が滞在していた。山間に長く続くこの町は、戦闘機が低空では入り込めない地形と、温泉地という天然の療養の適地から、当時では最高の医療機器と医師が全国から集められ「関東海軍病院」が急造されていた。
遠足気分の一夜が明けた朝、宿舎の前を白衣をまとい、太く巻いた包帯姿で看護婦さんに付き添われて歩いている多くの人々の様子を見た。それを先生に伝えると「お国のために戦って負傷したり病気になった兵隊さんが治療で来ている」と知らされた。きょうからは、道で会ったなら「おはようございます」「こんにちは」と必ず挨拶することを約束させられた。
僕らは先生の言いつけを守り、宿舎の前に出ては兵隊さんを待って挨拶することが疎開生活の日課に組み込まれた。そのうちに、先生の発案で、三人一組の小さな慰問団がつくられ、休日には兵隊さんの宿舎を訪ねることとなった。「同学年三人か、六・五・四年生一人ずつ」などなど何組かが編成され、慰問が始まった。
宿舎では当時はやっていた室内ゲームの「十六ムサシ」 「陣取り合戦」や歌を歌ったりした。隣の宿舎の兵隊さんも笑い声が聞こえたのか、看護婦さんと一緒に来てくれた。許可された時間いっぱいを過ごし、「じやあ、また……」と言って引き上げる。慰問ができない時には窓越しに手旗信号の交換があって「ハヤクヨクナツテ ニクイテキオ ヤツツケテクダサイ。」と、送信すれば兵隊さんからは、「アリガトウ イチニチ モハヤクナオシテ オクニノタメニタタカッテキマス。キミタチモ アトニッヅイテクダサイ。」と、返信があり何度も、このようなやりとりが続いた。
この兵隊さんにも、「白衣を脱ぐ時」が来た。僕らの知らないうちに黙って、五人、十人とこの地を去って行ってしまったのだ。そんなある日、小さな慰問団宛に置き手紙があって届けられた。「懐かしき皆さんへ」との書き出しに続き、「皆さん、本当に短い期間でしたが、たびたび遊びに来ていただき、ありがとうございました。いよいよ、きょうお別れですね。(中略)あちらへ行きましたら、あの憎い々々米英を撃滅して、皆さんのところへおもしろいニュースをたくさんお知らせします。皆さんも先生の教えをよく守り、一生懸命勉強して、お国の役に立つ人に早くなってください。(以下略)」と書かれた便箋二枚が入っていた。
僕ら三人組はすぐに返事を書き、置き手紙のあった宿舎に届けに行った。一ケ月ほど経った頃、「横須賀海兵団」から「検閲済み」の押印付き軍用ハガキが着いた。これが最後で、兵隊さんからのハガキは二度と来なかった。戦傷病兵ではあったが、この湯河原の地で過ごし、僕ら小さな慰問団は兄と慕い、僕らを弟ととして接した日々は束の間の平和な時ではなかったかと思う。
置き手紙と軍用ハガキは今も僕の手元にあり、とうに半世紀を超え、すっかりセピア色になっているが、僕は毎年五月二十七日には、横須賀の小高い丘に立って海に向かい、黙祷を続けている。
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ジオラマ外箱作り
--平成16年の日記より--1
田中米昭(東京目黒・向原校)
二〇〇四年
六月二十九日(火)晴
三ッ沢下町の地下鉄の出口から外に出ると、朝の八時半だというのに今日も暑くなりそうだという都会の風で汗ばんでくる。岡本さんから電話で聞いたとおりに五分ほど歩くと右側に作業場らしい建物があってシャッターが半分ほど開いていた。
中に入るともう四人の方が作業をしていた。ジオラマ作りのお手伝いと聞いていたが想像を超える細かい作りで、いきなり飛び込んできた私には手を出していいものやら、出さなければいけないものやら、「ここはこうなっていたわね」とか「こういうふうに作ったらどうだろうか」とか作るのを楽しんでいるような会話が行き交っていて、疎開という共通の体験があるものの横浜で暮らしたという経験がないものにとっては、疎開の生活を描き出すジオラマの製作には入り込むまでには少々時間がかかりそうであった。
それでも言われるままに縁側を張り合わせて間仕切りを作ったり色を塗った。していると、「ちょっと…‥」何かを考えていた岡本さんから声がかかった。この時点でもう完成していた「市電」のところで「このジオラマを入れるケースを段ボールで作ってもらいたい」というのである。目の前にある「市電」のジオラマはかなり大きなものになるが、これらが順に完成してくるのでケースに入れて積み上げないと製作場所が確保できないということ、もう一点は最終段階で有隣堂への搬入を考えるとどうしてもケースが必要だというのである。
そこでケース(箱)について二三の打合せをした。材料は廃ダンボール箱、これは岡本さんが調達してくる。ジオラマの大きさは畳一畳ほどの広さがあるが自体の重量は軽いので三つくらい積み重ねても潰れない程度の強度があれば良い、後は任せてもらえたので早速、この日は『市電』ケースを試作して検討しましょうということになった。初めはそれぞれのジオラマの必要な大きさと高さの中箱に、上から蓋をかぶせるという通常の箱を考えたが、これだと中箱にジオラマを入れる時に手が入らなくて壊してしまう恐れがあることに気がついた。つまり、中箱の底はジオラマよりやや大きめにして高さは15から20㌢位あれば強度は保てるし曲がりはしないだろう。大きめなら手も入るし、入れた後で詰め物をすれば運搬の時に動いて壊れることもないだろう。側板はジオラマの高さに応じて加減し下部はジオラマの発泡スチロールの台と中箱の間に側板を挟む形でガムテープを使って固定し、上蓋をかぶせる形とした。後で考えて見るとこの方法がアバウトであるが融通が利いて使いやすかったようである。
この日は「市電」のケースを一つ作ってこれならいいだろうということになったが、材料切れで三日後までに段ボールを集めておくという岡本ディレクターの言でこの日は終った。
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ジオラマ外箱作り
--平成16年の日記より--2
田中米昭(東京目黒・向原校)
七月二日(金)晴
前回の岡本さんとの打合せ通りの仕様で小さめと大のケース一個ずつを作った。小さくてもこういうものを作ると決めてかかったのは初めてであるし、材料の段ボールも大きさはさまざまで無駄の出ないように見比べて使用箇所を決めるなど考えながらやるのは時間がかかった。その他スチロールの台のL字型を作って終る。
七月六日(火)晴
箱一個作る。岡本さんの知り合いの電器店に頼んであるのだが材料の入手がなかなか難しいとのこと。ゆりさんが来て打合せをやっているようだった。
七月十四日(水)晴
今日は医者に行く日なので三ッ沢下町には遅れて行く。一個作る。
七月二十三日(金)晴
今日は十人位来ていて、野本さんも差し入れに来ていた。ジオラマ作りは皆さんとにかく熱心。楽しそうにやっている。十四日から今日までの間に箱は二個出来ていた。どなたか手伝ってくれたらしい。中箱と上蓋、側板と二個分作る。
八月三日 (火)晴
今日からジオラマの手が空いた時に木村さんに手伝ってもらうことになった。やはり二人の方がはかどる。
出来上がったジオラマはケースに入って重ねてあるので、箱の作業場所が狭くなってきた。ジオラマの邪魔をしないように空いているところを見つけて、時にはシャッターの外に出てしまうこともあったが、暑いくらいの天気なので外もまた良し、床面に段ボールを置いて寸法取をする姿勢は、腰が痛くなって困った。
八月四日 (水)晴
呼び出されて有隣堂の倉庫に外箱が入るかどうかの確認に行った。
八月六日(金)晴
今日は箱の完成を急がねばならない。八月九日の搬入を控えてジオラマ展示終了後の引取り先昭和館の内見があるからだ。最後の四個が出来上がって箱の総数は揃った。酷暑と段ボールの材料不足を乗り越えて十三個のケースが完成しジオラマ作品を納めることが出来た。
今日はハンデがあった。前日、地元の盆踊り会場の準備中、鉄パイプが頭に当たってタンコブが出来た。今日はタンコブは引いてきたが頭の奥がズーンとして終日、耳鳴りならぬ「頭鳴り」であった。大事をとって念のためのⅩ線写真の結果を聞きに行くので四時頃帰る。
八月九日 (月)晴
有隣堂搬入日、九時に着いたらもう搬入は始まっていた。会場内のジオラマ設営、飾付けを手伝って午前中で帰る。先日のⅩ線診断で大丈夫と思うが念のためにCTを撮ることになったからである。
後半は木村さんと箱作りができてよかった。こういう仕事は一人より大勢のほうがいいとつくづく思った。
後日談
年が明けて二〇〇五年、箱作りも忘れかけた頃、岡本さんから電話で今度は昭和館で材料を用意するから、改めてジオラマを入れる箱を作ってもらいたいという依頼があったのでやってもらえないかというのである。ジオラマの手直しもあるので一緒の日に行きましょうと日時を指定された。
二月四日、前の経験から段ボールを留めるホチキスのような器械があれば便利と近所の農家から借りて出かけた。自宅最寄り駅(小田急・伊勢原)から九段下まで五十分で着いた。早い。ところが肝心の段ボールの入荷が遅れて午後になり、ホチキス止めがうまく行かず、ボンドとテープの併用で切り抜けたが、二個しか出来なかった。これは大変と応援を依頼、またまた木村さんの出番となった。二月八日は残り七個を作りさらに取手をつけるという注文で作業量が大幅に増加した。風邪を押しての木村さんも辛そうだったが、時間は限られており、現役時代のモーレツ風な仕事ぶりで夕方六時近くになってやっと終えることができた。
今回、文集に書くにあたって、私にとっては一緒に作業することで分かってきた会の人々の熱意や会のこと、
それに一番強い印象を持つ出来事として、「箱づくりの話」がよいと思ったのである。
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疎開・空襲・空腹を乗り越えて
ー 我が青春に悔いあり ーその1
大石俊雄(東校)
l はじめに
二〇〇九(平成二十一)年六月二日は、横浜開港一五〇周年記念日である。横浜市歌に「むかし思えばとま屋の煙ちらりほらりと立てりしところ」と歌われ、戸数わずか百戸ほどの横浜村が、現在人口三六〇万人を超え、東京に次いで第二の人口を誇る大都市になろうとは誰が予想したであろうか。
その間、大きな事件も数多く勃発した。一九二三年の関東大震災、一九四一年の太平洋戦争の勃発、一九四二年横浜港におけるドイツ船の爆発事件による多数の死傷者と物すごい黒煙、そして一九四四年の学童疎開、更に、一九四五年五月二十九日の大空襲により、横浜の中心部は焼野原と化し、私も学童疎開から帰った途端に火の粉を浴び、自宅も全焼、逃げ遅れて九死に一生を得た悲しい思い出。そして翌日から食うや食わずの日々が続いた。戦争終結とともに、駐留軍が来るとの事で山下公園近くの焼け残っているビル街の会社に、我々中学生が動員され、資料、書類などを焼却した。
このような悲劇を、感受性の強い少年期に深く記憶に刻み込まれているのが、疎開児童であり、今考えると我々は悔いの多い青春であったと痛感している。
2 学童疎開
一九四四年八月、当時六年生であった私は、母の親類に縁故疎開した。最初、両親は集団疎開を考えていたが、体が小さく、すぐ下痢をする弱い体質なので急速、親類に頼み込んだらしい。食べ物は集団疎開の人よりも恵まれていたと思っているが、いじめには参った。
一人で都会から田舎へ行き、言葉の違いもあって仲間の輪の中に入れてもらえず、でもそこは子供同士、二ケ月程で仲良くなった途端に、些細なことから友達と喧嘩して、学校の階段から落ちたのか、落とされたのか分からないが、左足の付け根を十センチ程切ってしまった。親類の家とはいえ、始めて行った所でもあり子供心に遠慮もあり、走ったり、風呂へ入ったりしているうちについに歩けなくなり、横浜に送還され、当時の十全病院に通院、医者いわく、「もう少し遅かったら足首を切断」と治った後で言われた。今も、薄く傷跡が残り、これを見るたびに悲しい疎開生活を思い浮かべている。
六年間の小学校時代(当時は国民学校)のうち、本当に勉強したのは実質一年間位ではないかと思っている。
私たちのクラスは、戦争により先生が兵隊に行ったりして一年ごとに変わり、最後は兄貴のような代用教員、その間、学校のすぐ上にある野毛山公園に隣のクラスの先生に連れられ、自習時間との名目で、一時間、さらに二時間、三時間と遊ばされ、さらに疎開した学校では、怪我で横浜に二ケ月程帰ったりしていて勉強らしきことは殆んどしていなかったのではないかと思っている。
3 横浜大空襲
わが母校の疎開は、一九四四年八月から翌年十月迄の約一年二ケ月であったが、その間の大空襲は私にとっては忘れようにも忘れられない一日となった。
その日は朝から警戒警報に続いて空襲警報が発せられ、米軍機B29の大群が横浜上空で大量の焼夷弾を落とし、市内の中心部は焼野原と化し、我家も焼失、市内の小学校の中で最大の被害を受けたのがわが母校で、学区内のすべての家が焼失し、疎開児童の家族に多くの死傷者、行方不明者をだした。
当時、父は杉田の軍需工場に徴用、兄は陸軍兵として中国へ行き、私は母と二人であった。
いったんは逃げたものの、母が先祖の位牌を忘れたとのことで、母と取りに家に戻ったために完全に逃げ遅れ、火と煙に巻かれて道に座り込んでしまい、もう駄目だと思った時に警防団らしき人に頬と肩を叩かれ、目を覚まし辛うじてすぐ近くに逃げ、助かったが、その後暫くは煙をかなり吸っていたため呼吸困難の日が続いた。
隣家の同級生は、早めに黄金町方面に逃げたが、防空頭巾に焼夷弾の直撃を受けて亡くなり、逃げ遅れた私は、反対の曙町の狭い一角に逃げ、延焼を免れて助かった。
4 空腹
逃げ延びてからどこをどう歩いたのかまったく記憶がない。翌日から焼け跡に焼け残ったトタン板などを集め、両親とともにバラック小屋を建て、食べ物もない、すべてない「ナイナイづくし」の生活が始まり、風呂に入れず、しらみもたかり、さびしい日々が続いた。
5 終わりに
我々の時代は、駅弁を食べるときに、まず蓋についているご飯粒からきれいに食べてから中身を食べたものである。すべてが満ち溢れた現在の生活は当時を思うと涙が出るほど嬉しいの一語に尽きる。
現在、私の住んでいる周りには、大きなビル、マンション、商店街、飲食店などが多くあり、我々の少年時代とはまったく違った立派な建物、きれいで美しい服装、美味しい食べ物などがあふれている。こういった光景を見ると、逆に当時の悲しい思い出にひたってしまうのである。