疎開児童から21世紀への伝言 20
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編集者
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疎開・空襲・空腹を乗り越えて
ー 我が青春に悔いあり ーその1
大石俊雄(東校)
l はじめに
二〇〇九(平成二十一)年六月二日は、横浜開港一五〇周年記念日である。横浜市歌に「むかし思えばとま屋の煙ちらりほらりと立てりしところ」と歌われ、戸数わずか百戸ほどの横浜村が、現在人口三六〇万人を超え、東京に次いで第二の人口を誇る大都市になろうとは誰が予想したであろうか。
その間、大きな事件も数多く勃発した。一九二三年の関東大震災、一九四一年の太平洋戦争の勃発、一九四二年横浜港におけるドイツ船の爆発事件による多数の死傷者と物すごい黒煙、そして一九四四年の学童疎開、更に、一九四五年五月二十九日の大空襲により、横浜の中心部は焼野原と化し、私も学童疎開から帰った途端に火の粉を浴び、自宅も全焼、逃げ遅れて九死に一生を得た悲しい思い出。そして翌日から食うや食わずの日々が続いた。戦争終結とともに、駐留軍が来るとの事で山下公園近くの焼け残っているビル街の会社に、我々中学生が動員され、資料、書類などを焼却した。
このような悲劇を、感受性の強い少年期に深く記憶に刻み込まれているのが、疎開児童であり、今考えると我々は悔いの多い青春であったと痛感している。
2 学童疎開
一九四四年八月、当時六年生であった私は、母の親類に縁故疎開した。最初、両親は集団疎開を考えていたが、体が小さく、すぐ下痢をする弱い体質なので急速、親類に頼み込んだらしい。食べ物は集団疎開の人よりも恵まれていたと思っているが、いじめには参った。
一人で都会から田舎へ行き、言葉の違いもあって仲間の輪の中に入れてもらえず、でもそこは子供同士、二ケ月程で仲良くなった途端に、些細なことから友達と喧嘩して、学校の階段から落ちたのか、落とされたのか分からないが、左足の付け根を十センチ程切ってしまった。親類の家とはいえ、始めて行った所でもあり子供心に遠慮もあり、走ったり、風呂へ入ったりしているうちについに歩けなくなり、横浜に送還され、当時の十全病院に通院、医者いわく、「もう少し遅かったら足首を切断」と治った後で言われた。今も、薄く傷跡が残り、これを見るたびに悲しい疎開生活を思い浮かべている。
六年間の小学校時代(当時は国民学校)のうち、本当に勉強したのは実質一年間位ではないかと思っている。
私たちのクラスは、戦争により先生が兵隊に行ったりして一年ごとに変わり、最後は兄貴のような代用教員、その間、学校のすぐ上にある野毛山公園に隣のクラスの先生に連れられ、自習時間との名目で、一時間、さらに二時間、三時間と遊ばされ、さらに疎開した学校では、怪我で横浜に二ケ月程帰ったりしていて勉強らしきことは殆んどしていなかったのではないかと思っている。
3 横浜大空襲
わが母校の疎開は、一九四四年八月から翌年十月迄の約一年二ケ月であったが、その間の大空襲は私にとっては忘れようにも忘れられない一日となった。
その日は朝から警戒警報に続いて空襲警報が発せられ、米軍機B29の大群が横浜上空で大量の焼夷弾を落とし、市内の中心部は焼野原と化し、我家も焼失、市内の小学校の中で最大の被害を受けたのがわが母校で、学区内のすべての家が焼失し、疎開児童の家族に多くの死傷者、行方不明者をだした。
当時、父は杉田の軍需工場に徴用、兄は陸軍兵として中国へ行き、私は母と二人であった。
いったんは逃げたものの、母が先祖の位牌を忘れたとのことで、母と取りに家に戻ったために完全に逃げ遅れ、火と煙に巻かれて道に座り込んでしまい、もう駄目だと思った時に警防団らしき人に頬と肩を叩かれ、目を覚まし辛うじてすぐ近くに逃げ、助かったが、その後暫くは煙をかなり吸っていたため呼吸困難の日が続いた。
隣家の同級生は、早めに黄金町方面に逃げたが、防空頭巾に焼夷弾の直撃を受けて亡くなり、逃げ遅れた私は、反対の曙町の狭い一角に逃げ、延焼を免れて助かった。
4 空腹
逃げ延びてからどこをどう歩いたのかまったく記憶がない。翌日から焼け跡に焼け残ったトタン板などを集め、両親とともにバラック小屋を建て、食べ物もない、すべてない「ナイナイづくし」の生活が始まり、風呂に入れず、しらみもたかり、さびしい日々が続いた。
5 終わりに
我々の時代は、駅弁を食べるときに、まず蓋についているご飯粒からきれいに食べてから中身を食べたものである。すべてが満ち溢れた現在の生活は当時を思うと涙が出るほど嬉しいの一語に尽きる。
現在、私の住んでいる周りには、大きなビル、マンション、商店街、飲食店などが多くあり、我々の少年時代とはまったく違った立派な建物、きれいで美しい服装、美味しい食べ物などがあふれている。こういった光景を見ると、逆に当時の悲しい思い出にひたってしまうのである。