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疎開児童から21世紀への伝言 17

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通常 疎開児童から21世紀への伝言 17

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/6/22 8:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 疎開地で出会い 黙って消えた戦傷病兵に思う

 野本 洋(西前校)

 昭和十九年八月、西前国民学校四年生であった僕は集団疎開の一員に加わり、湯河原町へ来た。引率の先生より「きょうから学校がここへ移った。しっかり勉強して、お父さん・お母さんに心配をかけないように…」と励まされ、終わりの見えない疎開生活の一日が始まった。

 横浜からの疎開つ子を受け入れたこの町には、疎開児童より数段多い戦傷病兵が滞在していた。山間に長く続くこの町は、戦闘機が低空では入り込めない地形と、温泉地という天然の療養の適地から、当時では最高の医療機器と医師が全国から集められ「関東海軍病院」が急造されていた。

 遠足気分の一夜が明けた朝、宿舎の前を白衣をまとい、太く巻いた包帯姿で看護婦さんに付き添われて歩いている多くの人々の様子を見た。それを先生に伝えると「お国のために戦って負傷したり病気になった兵隊さんが治療で来ている」と知らされた。きょうからは、道で会ったなら「おはようございます」「こんにちは」と必ず挨拶することを約束させられた。

 僕らは先生の言いつけを守り、宿舎の前に出ては兵隊さんを待って挨拶することが疎開生活の日課に組み込まれた。そのうちに、先生の発案で、三人一組の小さな慰問団がつくられ、休日には兵隊さんの宿舎を訪ねることとなった。「同学年三人か、六・五・四年生一人ずつ」などなど何組かが編成され、慰問が始まった。

 宿舎では当時はやっていた室内ゲームの「十六ムサシ」 「陣取り合戦」や歌を歌ったりした。隣の宿舎の兵隊さんも笑い声が聞こえたのか、看護婦さんと一緒に来てくれた。許可された時間いっぱいを過ごし、「じやあ、また……」と言って引き上げる。慰問ができない時には窓越しに手旗信号の交換があって「ハヤクヨクナツテ ニクイテキオ ヤツツケテクダサイ。」と、送信すれば兵隊さんからは、「アリガトウ イチニチ モハヤクナオシテ オクニノタメニタタカッテキマス。キミタチモ アトニッヅイテクダサイ。」と、返信があり何度も、このようなやりとりが続いた。

 この兵隊さんにも、「白衣を脱ぐ時」が来た。僕らの知らないうちに黙って、五人、十人とこの地を去って行ってしまったのだ。そんなある日、小さな慰問団宛に置き手紙があって届けられた。「懐かしき皆さんへ」との書き出しに続き、「皆さん、本当に短い期間でしたが、たびたび遊びに来ていただき、ありがとうございました。いよいよ、きょうお別れですね。(中略)あちらへ行きましたら、あの憎い々々米英を撃滅して、皆さんのところへおもしろいニュースをたくさんお知らせします。皆さんも先生の教えをよく守り、一生懸命勉強して、お国の役に立つ人に早くなってください。(以下略)」と書かれた便箋二枚が入っていた。

 僕ら三人組はすぐに返事を書き、置き手紙のあった宿舎に届けに行った。一ケ月ほど経った頃、「横須賀海兵団」から「検閲済み」の押印付き軍用ハガキが着いた。これが最後で、兵隊さんからのハガキは二度と来なかった。戦傷病兵ではあったが、この湯河原の地で過ごし、僕ら小さな慰問団は兄と慕い、僕らを弟ととして接した日々は束の間の平和な時ではなかったかと思う。

 置き手紙と軍用ハガキは今も僕の手元にあり、とうに半世紀を超え、すっかりセピア色になっているが、僕は毎年五月二十七日には、横須賀の小高い丘に立って海に向かい、黙祷を続けている。

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