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疎開児童から21世紀への伝言 16

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通常 疎開児童から21世紀への伝言 16

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/6/20 10:07
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 集団疎開での主な出来事

 吉岡重昭(蒔田校)

 疎開が始まった昭和十九年八月、私は「蒔田国民学校」の五年生でした。当時、選択肢が三通りありまして、縁故疎開、集団疎開、残留組が有りました。私はどういう訳かよく覚えていないのですが、残留組を選びました。第一陣で行かれた方々には申し訳ないのですが、今になって思えば、たとえ三か月といえども、わが家に残っていたことは大変幸福だったと思います。たまに疎開先の箱根から帰って来た先生方が箱根の疎開生活は楽しいような事を云っては私たちを誘っていました。

 私は十一月まで学校へ通っていましたが、集団疎開の第二陣で十二月二日に出発しました。なぜ集団疎開を選んだのか、その理由は忘れました。
 
 総勢七十六人でした。その朝はものすごい寒さで、おそらく氷点下だったと記憶しております。現在の地下鉄「蒔田駅」の近くにありました、市電の停留所「宮元町三丁目」まで母が見送りに来てくれました。私が電車に乗る時、母が目頭をそっと押さえていたことを今でも鮮明に覚えています。私は今でもこのことを話す時、どうしても涙が出てきて困ってしまいます。

 横浜駅から列車に乗り、小田原駅からは箱根登山電車に乗り「宮ノ下駅」で下車しました。そこから約二時間ほど歩き、途中で昼食をとりました。私たちの疎開先、仙石原にある旅館「仙郷楼」に到着したのは、十二月ですので薄暗くなった四時頃だったと思います。

 最初に驚いたのは、第一陣の男子生徒全員が「仙郷楼」の入口で私たちを出迎えました。ところが、これは私たちを出迎えたのではなく「敵は本能寺にあり」で、目的は私たちが背負っているリュックサックの中に残っている食べ物だったのです。私のクラスだった全員が「吉岡!」「吉岡!」と言って手を出すのです。

 私はその光景を見てびっくりしました。食糧事情が悪いといっても自分の家から出てくるということはおにぎりの一個、キャラメルの一粒くらいは残っているのではないかということだったのです。私は多少食べ物が残っていたので、部屋に着いてから何人かに分けてあげたことを覚えています。

 次に驚いたのは、夕飯のご飯の少ないことでした。普通のご飯を食べるお茶碗一杯くらいでした。最初の夜、寝る時に母を思い出し涙が出たのを今でも鮮明に覚えています。約九か月間、疎開先にいましたが、涙を流したのはこの時だけでした。

 さて、疎開先での出来事を順にお話しいたしましょう。体操の時間、一列順に並ばされました。軍隊上がりの先生で、真似しろと言われてもできないような大声で「お前たちの目はイワシの目だ。死んでおる。そんな目で日本が戦争に勝てると思うか。」 と言っては、並んでいる順に殴られました。体を動かす体操の時間ではなく、殴られる体操だったのです。当時の軍隊上がりの先生たちは、親元を離れている、当時八歳か九歳の子どもたちを平気で殴りました。柱に額を打ちつけられ、大きなこぶをつくった子どもを日常茶飯事に見たものです。軍国主義の時代とはいえ、気違いじみた時代でした。とても許されることではありません。極刑をもってしても足りないくらいだと思います。

 初春の三月の末頃、朝日ニュースが私たち疎開児童の生活ぶりを国民に見せるために撮影に来ました。ススキで有名な台ケ岳の麓でラジオ体操をしている場面でした。五月の中頃だと思いますが、声楽家の四家文子さんとオペラ歌手の栗本正さんが疎開児童のために慰問に来てくれました。同じ仙石原に疎開していた共進国民学校と南太田国民学校、そして私たちの蒔田国民学校の児童が仙石原国民学校の講堂に集まり、四家文子さんと栗本正さんに歌を習いました。『あわて床屋』『フニクリフニクラ』などでした。

 不思議なことに、今日になって思うとこの時、現在の疎開問題研究会に入っている、共進国民学校の竹腰(旧姓・小野)祐子さんとお会いしていたのだと思うと、美空ひばりの歌ではないけれど、人生というのは実に不思議なものだとつくづく思います。その四年後、昭和二十四年四月にY校で同じクラスになるなんて誰が想像できたでしょう。

 同じく五月の末頃、四校の相撲大会が金時山の中腹でありました。女の先生がいらなくなった敷布で、にわかフンドシを作ってくれました。私は、南太田国民学校の鈴木昭君と相撲をとり、私が勝ったのです。

 さてそれから約四十年後、Y校で同期だった鈴木昭君と再会を果たしたのです。私たちY校同期のクラスの幹事が毎月二十七日に会合を開いておりまして、たまたま疎開の話題が出た時に、相撲大会の話になり判明したわけです。世の中広いようでいて狭いというはこのことだとつくづく思います。

 相撲大会から約一週間後のことですが、脱走事件が二件ほどありました。一人はお金を持っていたので横浜まで帰ることができましたが、もう一人は辻堂と藤沢の中間地点の線路脇で疲労のため倒れていたところを、近くに住んでいる人に助けられたそうです。小田原駅近くにある酒匂川、平塚駅近くの相模川にかかる、それぞれ約二百メートルはある鉄橋を這って渡ったそうです。わが家へ帰りたい一心からだったのでしょう。

 そしていつ頃か忘れましたが、集団疎開児童全員に皇后陛下からビスケットをいただいたことは忘れられません。

 初夏の六月下旬頃のことです。箱根で一番高い神山、千四百メートルへ登った時のことでした。頂上にいた時、アメリカの戦闘機グラマンに発見され、奇襲されました。初夏なので白いシャツを着ていたため目立ったのだと思います。映画・テレビでよく見るような機銃掃射を受けました。先生の顔が真っ青になり、全員木の陰に隠れるように言われました。私も当時十一歳、この世もこれで終わりかと思いました。こんな怖い思いをしたのは生まれて初めてでした。

 それから二週間後、私にとっては忘れることのできない日がやって来ました。学校から各家庭に通達があり、どこか行く所があれば引き取りに来るようにとのことだったそうです。父が迎えに来てくれました。約八か月ぶりに父と温泉に入りました。父が私の布団を背負って両手に荷物を持ち、私も行李を持って帰途につきました。私の町内会に、当時の桜木町の駅長さんがいましたので切符が手に入ったそうです。横浜駅から京浜急行に乗り、南太田駅で下車しました。見てびっくり、一面焼け野原、ビルらしきものは野沢屋だけでした。八か月ぶりに、わが家に着いた時は嬉しさで涙が出ました。終戦の日のちょうど一か月前のことです。八月十五日の終戦の玉音放送はわが家で聞きました。なお、私の家は五月二十九日の横浜大空襲では奇跡的に助かったのです。以上が、私の集団疎開中の経験談でございます。

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