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疎開児童から21世紀への伝言 15

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通常 疎開児童から21世紀への伝言 15

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/6/18 16:15
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ひょうたんから駒 この会に思いがけないことがひそんでいた


 疎開の会十五年目、ニッポン一九四五年の証言‥・「占領下の日本」を担当した‥・占領下のメインを引き受けドアーの外は敗戦国で中は戦勝国。当時の日本のことを思うと、ひんしゆくを買うことになるが、その他、映画、ダンスなどが催されていたそうだ。接収解除後も外国人があふれていたとのこと。現在も猶変わらないことと。

 九月八日…米兵八〇〇〇名がジープで進駐 東京へ (GHQ) へ。
 九月十日…言論・新聞の自由を要請、民主化政策の占領(政治・経済・社会・文化)となった。
 昭和天皇(九月二十七日)・首相(二十九日)はマッカーサー元帥を訪問した。
 九月二十日…教科書の「墨塗り」指令。
 十二月三十一日…「修身、日本史、地理の授業停止・教科書回収に関する覚書」指示。
 接収建物…三六三軒(学校・ホテル・高層ビル・書店・公園・遊園地・デパートなど)…私の疎開先の小学校は全焼(五月)、元の小学校(鉄筋三階建て水洗トイレ付き、片側スロープ)は接収され(その他五校)、間借りのまま卒業式(旧制度)。こんな時、進学を決めなければならなかった。


 終戦直後八月の新聞記事…「新しき日本」建設への二大道標
 …科学と芸術の振興…叡智と耐久力で起て…と。
 十二月…「りんごの歌」が戦争直後の人々の心を和ませた。


 私がビンゴを知ったのは一九五〇年、高校時代のガールスカウト日米交歓会でのことであった。しかも一等賞。その後も何度か一等賞になっている。
 このビンゴゲームを英語指導に取り入れた記事が教育雑誌に載っていた。「私も同じことをやっています」と投書した。やがて招待状が届いた(東京都教育委員会)。参加し紹介を受けた。私自身も大受けした。
 (教える側も大成功したことになる)…一九六八年 

 第十五回疎開展で 「占領下の日本/ホテルニューグランド」を見た友人からメールが入った。「ホテルニューグランドに兄が勤めていた」と。すると鈴木知明氏へ 「懐かしい」と電話があったとのこと。「集団疎開先への面会は親・兄・姉・妹(幼児) で来てくれた」と、聞いていたそのお兄さんのこと。

 戦火、病気、事故でこの世を去られた先生、同志の方々のご冥福をお祈り申し上げます。


 再会と新しい出会い/全市内の小学校卒業生と共に

 大類幸恵様に 五十年ぶり

 よく遊びに行っていた斜め向かいの家に出入りするところを数回お見かけして以来。

 個人的には、この会の発足当初の展示会来場者名簿(市内九十三校、一二二三名)に五十年間音信不通だった旧友の名を見つけた時から心に変化があった。「元気」を確認して、もう一人を探すために、お姉さんの同窓会名簿からお兄さんを探し出し、すばやく判明した。何と三人は同じ沿線に住んでいた。再会は小学校一年の時にぴったり繋がった。以来、沿線駅や懐かしの場所、新名所で出会ったり、メールしたりして五十年の空白をうめている。会の設立あってのことと感謝したい。五十年ぶり‥・電話での声は耳が覚えていた。


 敗戦後の六年二学期・三学期の担任の先生(後に校長)に五十年ぶり、我が子二人(五学齢違い) の小学校の校長先生とは三十年ぶりに、疎開の会開催日に会場で再会できた。お二人は師範学校の同期生で、その何年か後に旅行会が一緒のグループになられた。


 十五回目の疎開展にはお目にかかれなかった。九十二歳を迎えている。いつも返信がすぐあるのに、お二人ともである。気になっている…。お一人が入院リハビリ中、「退院」の情報を得た(原稿しめ切直前に)。

 もうお一人(我が子の校長先生)は二〇〇八年五月に亡くなられていた(十二月二十日判明)。享年九十一歳*空白の三十年間のことを伝えてくださった*もう一度お会いする予定でいた。「先生の出征兵士として見送りを受けた時の写真が疎開展に掲示された。無事復員でき、ご本人の手元に戻った」というエピソードがあった。私が連絡役をした。

 共進小学校友人Y校グループが毎回の八月十五日には来場し慰労してくださった(会への寄付もしてくださった)。*お二人の校長先生にはこの旧友と一緒に再会していた。


 黒塗り教科書展示に関して

 ‥・黒塗りしてあるもの・黒塗りしていないものが必要になる。
 …ガラス張りで展示(新聞紙上に載った。2008/8)
 …借用/所有者(横浜市生まれ、相模原市在住)は活用を喜んでくださった。


 疎開児童受け入れ校で空爆全焼した唯一の学校

 疎開展の最終日の片づけを手伝ってくださった小学校の現役の先生‥・私の疎開先五十年後の先生/いち早く駆けつけてくださった。


 開戦までにアメリカ留学から帰国していて

 一九四九年、節子先生に出会って今がある(もう一度お会いしたかった。先生の笑顔と声は英語の発音とともに残っている)。その五十年後に 「疎開展」 の縁で節子先生の魂に出会っているよう。一九〇九年創業の有隣堂ご長女(節子先生) のことを「横浜有隣堂九男二女物語」(松信八十男著、草思社、一九九九) で改めて詳しく知った。


 二〇〇九年は横浜開港一五〇年であり、有隣堂創立一〇〇年となる。
 日本敗戦下を引き受けてくださったホテルニューグランドは後十数年で一〇〇年になる。


 感謝とお祝いを申し上げます。

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