疎開児童から21世紀への伝言 14
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編集者
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六十三年も前のことなのだけれど
二〇〇九年横浜海港・日本開国一五〇周年
植田総子 (共進校)
一八五三年、ペリー来航直後は、日米・日英・日露・日仏・日蘭・和親条約がなされた。ペリーは一八五八年にこの世を去っている。一八六一年にはアメリカ南北戦争が起こって、開港から四〇~五〇年後には日清戦争(一八九四年)、日露戦争(一九〇四年)が起こり、さらに十年後には第一次世界大戦(一九一四年)が大規模に。日本は国際連盟に加入し (一九二〇年)、一九三三年には脱退して日独伊三国同盟(一九四〇年)を結成した。一九三一年の満州事変がもとで日中戦争(一九三七年)、第二次世界大戦(一九三九年)へと突入、太平洋戦争(一九四一年) へ。「欲しがりません。勝つまでは」 で、ぎりぎりまで。
「開国」との関係はどうなっていたのだろうか。その時代を人々が去った後は、その後の人々によって源から離脱していってしまうものか。引継ぎをしないと。
太平洋戦争勃発初期の、日本戦勝ニュースに拍手を送ったが、数年後には本土空襲を受け、ついには大きなものを失った。当時「子ども」としては「頭のいい大人」 の決断を観察したことになる。今回改めて一九四五年の新聞にどう書かれていたのかを見てみた。結果的に民主主義国家となった。国というのは戦争状態が常と思えていた。戦争体験者から「過信だった」と反省の弁を聞いている。
戦争終結から十年後(一九五五年)太平洋沿岸市長会議が横浜で開催された。
この会議に同伴された奥さま方を三渓園に案内した。宿泊先(ホテルニューグランド)から、ホテル名入り便箋で礼状をいただいている。英文記事とともに大事に保存してある。(十一月十日)
二〇〇八年は疎開問題研究会(学童疎開の会)十五周年、戦後六十三年になった
六十三年前というのは、一九四五年からみれば、日清戦争よりも十年ほど前の鹿鳴館時代(明治十六年)のことになる。子の世代からは「昔のことでしょ」と言われるのももっともであるが日本の対外負の初体験から得たことで、語り継ぐべきこととして十五年前に結成された会の一メンバー(発起人ではない)になっている(横浜市生まれ、相模原市在住)。
疎開の会・十五周年特集「占領下の日本」‥・占領下のホテルニューグランド
マッカーサー元帥とホテルニューグランド二代目会長・野村洋三氏
一九四五年八月十五日正午‥・終戦
八月三十日…マッカーサー元帥搭乗機「バターン」は厚木飛行場に午後二時十九分に到着した
濃いサングラス、ノーネクタイ、コーンパイプをくわえた気楽な姿で日本人の前に現われた。飛行場で出迎えたのはアイケルパーカー中将「‥・これで一件落着だな」と握手、「メルボルンから東京まで長い道程だった」 (戦争の終結を意味する)‥・すでに米八軍一四六名進駐(二十八日)
‥・直接軍政を断念し、日本政府を通じて占領行政を行うこととなった‥・
野村洋三会長はモーニング姿に身を固め、マッカーサー元帥(Douglas MacArthur)の到着を待っていた。
「元帥の宿は当初、葉山御用邸の予定だった。その時点では、元帥をご招待しようと思っていた矢先、知事から頼まれた」
「大変落ち着いて静かな、軍人というよりはむしろ哲学者か詩人のような風貌だった」
執務はマッカーサーの部屋三一五号室MacArthur's suite 315 当時は三一五、三一六、三一七が揃って(suite room)三一五室は海に向かって三階中央/イチョウ並木の枝越しに港が一望…現在も「マッカーサーの部屋」がそのままに。拝見させていただいた。
初日の昼メニュー…スケソウダラ、サバ、たっぷりの酢をかけたキュウリ、人参、じゃがいも…一口でフォークを置いた/レモンティーは二杯飲んだ…このとき、野村会長は横浜の食糧事情を直訴した‥・数日後には市民への食料放出が始まった。
夕食以降は第八軍司令部が用意した食糧で。その日の夕食はハンバーガー、パン、ぶどう
九月二日…米軍ミズリー号で降伏調印式…敗戦
九月十一日‥・横浜からアメリカ大使館へ (東京)
九月十五日~‥・東京第一生命ビル (司令部) で執務
マッカーサーが去った後は高級将校、婦人将校が占拠。
ホテルニューグランドは一九四五年(会長七十五歳) ~一九五二年六月まで接収された。
マッカーサーは来日五回/四回目は新婚旅行で、このホテルニューグランドに。以後このホテルを訪れることはなかった。
マッカーサー元帥は東京オリンピックの年に世を去って(一八八〇年~一九六四年)、野村洋三氏は後を追うように翌年九十五歳で逝かれた(一八七〇年~一九六五年)。
野村洋三氏(二十一歳)はアメリカ留学先からの帰路(船中)、新渡戸稲造(二十九歳)と出会って親交を深めていた。
ホテル占拠解放後の野村洋三会長の回想(彼等が去ってみて気付いたこと)
…占領下そこはアメリカだった/留学と同じ状況があった
…料理の手順、衛生面、管理…大変だったけれど、外国人の多いホテル運営に役立った。
野村洋三会長のシェイクハンド(shake-hands)
「相手に自分の生きていることを伝え、喜びと感謝の念を伝える。一期一会の精神で、そこに人間交流が生じていくというそのことが大事なのだ。」「お客さんが健康に愉快に過ごすように祈る。」という思いで。
横浜疎開問題研究会会員・鈴木知明氏は接収中に入社(現役)野村洋三氏と共に…当時の様子を伺った。
ホテルニューグランド創立記念号も参考にさせていただいた。
当時のホテルニューグランド内でのことは全く話にも聞いていなかった。山下公園から見えるホテルニューグランドしか知らなかった。一番人気のビンゴ大会の状況が見られなかったのは残念なこと。
今上陛下(昭和八年生まれ)は、二〇〇八年十二月二十三日には七十五歳を迎えられた。私はその二日後の十二月二十五日に。昭和二十年度小学六年生が、平成二十年度は七十五歳なのだ。あるスーパーオープン記念に「あなたが生まれた日の新聞をあげます」とあるのを二十数年前に目にした。そこには「各国元首から祝電」とある。二十四日(日曜日) の東京朝日新聞には、日本国の 「お喜び」 のニュースに皇室と一般市民が報道されている。さらに三十日には、日本政府「列国に協調!」、「海の彼方より平和の声」という一段と大きな文字が目に入る。
されど・・・その八年後には‥・