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被爆55年 忘れられないあの日 ―広島・長崎被爆者の詞画集―

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/10/28 13:50
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
              
それはまさに地獄(じごく)列車(二)

 八月九日 長崎
         十五歳 女学生

 暫(しばら)く茫然(ぼうぜん)としていたが、気をとり直して車内に足を踏み入れた。

 車内は、埃(ほこり)と、血の臭(にお)いと、呻(うめ)き声で異様(いよう)なものだった。

 傷付いて動けない人を運び出す作業だが、手を握(にぎ)っても、皮膚(ひふ)がずるずるとむけて手が付けられないので、肩に担(かつ)いでホームに並べて寝かせた。
          
 すでに息絶えた屍体(したい)もあった。
       
 水!水!と縋(すが)り付く負傷者に、手分けして水を飲ませて走り廻った。

 戸板やリヤカーに乗せて、海軍病院や学校等に怪我人(けがにん)を運んだ。










一人で逝ってしまった
             
     八月六日 広島
          十三歳 女学生

 女学校一年生二百二十名は、市内土橋(どばし)で建物疎開(そかい)の勤労動員の作業中に被曝し、全員がな亡くなった。

 一人娘の謡子(ようこ)ちゃんも、全身大火傷(やけど)を負い、救護所まで運ばれた。

 「苦しい、苦しい」「オミズ、オミズ」

 「おかあさん」

 「おかあさん まだあ」

 「胸をさすってえ」

 「おばちゃん 手をにぎってえ」と、苦しみながら、八月六日午後十一時、一人ぼっちで十三歳で逝ってしまった。

 翌日、漸(ようや)くたどり着いたお母さんに会うこともなく、一人ぼっちで。



前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/10/29 7:40
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
ぐるぐる巻きで担架(たんか)に

     八月十一日 長崎
          六歳 幼女
             
 八月十一日の午前、道(みち)の尾(お)駅に、包帯(ほうたい)でぐるぐる巻きにされた人が、担架(たんか)に寝かされていました。

 ただ「水!水!」という呻(うめ)き声を出してうごめいていました。

 汽車が先へ行かないので降ろされて、一瞬見ただけでしたが、その光景は未だに瞼(まぶた)に焼き付いて忘れることが出来ません。

 恐ろしくて、恐ろしくて、一刻も早くその場から離れたくて、見ていることが出来ませんでした。









             
マンホールに避難(ひなん)した

     八月六日 広島
          十九歳 軍人

 「ピカドン」で傷を負った母親は、すさまじい爆風におののき、次に来る災(わざわ)いから身を守ろうとして、爆風で蓋(ふた)を飛ばされていたマンホールの中へ、幼児を抱きしめて必死で逃げ込んだ。

 (マンホールは、焼け野原となった街で唯一(ゆいいつ)の避難場(ひなんば)であった)
     

   爆風に蓋(ふた)をとばされしマンホール
        血みどろの母子をうちに守れり

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/11/1 8:25
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
水を飲んでくれなかった

     八月六日 広島
         二十三歳 女子挺身隊(ていしんたい)

 どこの水槽(すいそう)にも人が群がっている。

 上半身は裸、指先には黒い糸のようになった皮膚(ひふ)が垂(た)れ下っている。

 小さな男の子が「水をちょうだい」と言って私に縋(すが)りついたが、すぐにばったりと倒れてしまった。 
 
 水のある所に連れて行こうと、その子を抱(かか)えて走ったが間に合わなかった。

 死んでしまって飲んでくれなかった。










幼児を抱き息絶えた母親
               
     八月六日 広島
         二十五歳 軍人

                                
 八月六日午前八時十五分、警戒警報(けいかいけいほう)解除の直後、B29が飛来(ひらい)、一大閃光(せんこう)と共に全市の大半は火の海と化した。

 私の所属していた部隊(ぶたい)庁舎(ちょうしゃ)が、目の前で積み木(つみき)の玩具(がんぐ)を押し潰すように倒れた。

 皆実町(みなみまち)の部隊から、千田町、舟入、十日市町を経由して横川橋に至る道すがら、むせ返る余熱の燻(くすぶ)る瓦礫(がれき)の中で、息絶えだえに水を求めて水栓(すいせん)に這(は)い寄る男たち。

 幼児を抱いたまま防火用水に入って息絶えた若い母親。
 
 馬車馬(ばしゃうま)も横倒しになって、ロをバクバクさせて喘(あえ)いでいた。

 まさに地獄(じごく)の様相(ようそう)であった。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/11/3 7:42
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
お母さん死にたくない

     八月九日 長崎
         十五歳 女学生

        
 炎天下、全身火傷(やけど)をして死んでいる赤ん坊を抱いて虚(うつ)ろな目で空を見つめていた若い母親。

 悲惨(ひさん)な姿の人が一杯いるが、ただただ自分のことで精一杯、だれが救いを求めても何をしてやる気力もない。

 お母さん 死にたくない!

 いっしょに死んで!

 お母さーん 死にたくなーい!

 声はだんだん小さくなっていった。

 あの声は、未だに私の耳の奥底に焼き付いている。










少年はカつきて その場に倒れた

     八月六日 広島
         十九歳 軍人

                        
 広島では、空襲に備えて、建物の疎開(そかい)作業に多数の学徒が動員された。

 この作業に従事していた十四才の少年は、「ピカドン」で、広島が一面の焦土(しょうど)となったとき、全身に大火傷(やけど)を負いながら、追いかけるように迫(せま)って来る火の車、黒焦(こ)げになった死体がゴロゴロしている、灰燼(かいじん)と瓦礫(がれき)の山、泣き叫(さけ)ぶ人々の群れの中を必死に歩き続け、やっとの思いで我が家に辿(たど)り着いた。
         
 しかし家は既(すで)に例壊(とうかい)し、あたりは焼け野原と化していた。

 家族も見あたらず、カつきてその場に倒れてしまった。


    家族(いえ)求め火傷(やけど)に耐(た)えて帰り来て
         少年は斃(たお)る人なき焼野に

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/11/3 7:46
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
その夜から墓場で

     八月九日 長崎
         六歳 少女

 あの日のことは六歳の私の脳裏(のうり)にも、しっかりと刻(きざみ)みこまれています。

 歩いていたらよそのおじさんが、「おじょうちゃん飛行機がとんでいるよ」といいました。
         
 家の中に入った瞬間(しゅんかん)「ピカッ」 と光って壁がおち、もうもうと砂煙(すなけむり)につつまれました。
          
 中島川にかかった賑橋(にぎわいばし)近くの墓場に逃げました。

 山の上から向こうを見ると火の海でした。

 私は無心にその火を見ていました。
       
 あたりには怪我(けが)をした人が沢山横になっていました。

 その夜から私たちは墓場で過すことになりました。










変わり果てた母の姿

     八月六日 広島
         十六歳 中学生

 漸(ようや)く火が収(おさ)まったので、私は自宅の焼け跡に行って必死に母を探した。

 そして、やっと変わり果てた母の遺体を見つけた。

 母の脳天(のうてん)は未(いま)だ煉(くすぶ)っていて、白い煙を出していた。

 私は母の黒焦げの死体を抱いて泣きじゃくった。

 次の瞬間、私は狂気のように母の体を叩(たた)き砕(くだ)いた。

 そして、その上を目印の熱い瓦(かわら)で覆(おお)い、

 慟哭(どうこく)しながらその場を走り去った。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/11/4 8:36
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
私の見たあの日

      八月六日 広島
         十八歳 女教師
        
 (左上)乙斐駅(こいえき)近くの焼け爛(ただ)れた市内電車の中には、幼児を膝(ひざ)の上に抱(だ)いた母子、吊(つ)り革(かわ)を持った人、座席に座った人々も、皆そのままの姿で真っ黒焦げのミイラ。
              
 (左下)身内を探す人々の喧騒(けんそう)の乙斐駅(こいえき)周辺
 髪はチリヂリに焼け焦(こ)げ、顔は目鼻も分からない程黒く膨(ふく)れ上がり、皮膚(ひふ)は垂(た)れ下がり、男女の区別も付かない、蹲(うずくま)る遺体(いたい)の群。
 この世とは思えない地獄絵(じごくえ)、ここだけ静寂(せいじゃく)が漂(ただよ)う。

 (中央)皮膚(ひふ)が襤褸(ぽろ)のように、赤く垂(た)れ下った裸(はだか)の母親が赤子を胸に、放心(ほうしん)状態で息絶(いきた)え、溝(みぞ)の中に立ちつくす。

 (右上)榎町(えのきちょう)の街と共に、一瞬(いっしゅん)にして燃え尽きた我が家の前に、馬もろとも黒焦(こ)げになった将校の口許(くちもと)に金歯(きんば)が光る。

 (右下)天満川の上手までたどり着き、力尽きて倒れた屍の山。水を求めて川に入った人々の屍(しかばね)で川底も見えず。










救援トラックに載せられて

      八月六日 広島
         十四歳 中学生

 大手町八丁目の自宅で被曝した。

 曝風で潰(つぶ)れた家からやっと這(は)い出して、爆心地から遠ざかるように逃げている時、軍隊の救援トラックに拾われた。

 トラックには被曝した何人かが乗っていたが赤裸(あかはだか)になった火傷(やけど)の腕の皮膚(ひふ)が、手の先にぶら下がっていて、車がゆれて赤肌が触(ふ)れると荷台のあちこちで悲鳴(ひめい)が上がった。

 私達は、広島湾内の似島(にのしま)にある陸軍船舶隊の兵舎(へいしゃ)に収容された。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/11/5 8:07
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
友の亡骸(なきがら)を茶毘(だび)に

     八月九日 長崎
         十五歳 動員学徒
       
 火の手が収(おさ)まるのをまって、寮友を探しにでかけた。

 爆心地近くになると、黒焦(こ)げの死体が散乱(さんらん)し、真っ赤に腫(は)れ上がった顔で這いつくばり、呻(うめ)きながら水を求める人、それは正に地獄絵(じごくえ)であった。

 寮のあった場所についてみると、建物は全焼。
                          
 朝、手を振って別れた四百余人の友は、無残(むざん)にも黒焦げになって息絶えていた。

 泣きながら友の遺体を次々と焼いた。

    朝(あした)に紅顔(こうがん)ありて 暮(ゆうべ)に白骨(はっこつ)となる
        原爆に焼かれし友の 亡骸(なきがら)を茶毘(だび)に付す










トンネル工場の中

     八月九日 長崎
         十七歳 女

 何処(どこ)をどう駆(か)け廻ったか、私はトンネル工場の中に入っていました。
       
 逃げる途中、潰(つぶ)れた家の下から「助けて!助けて!」の叫(さけ)び声が、あちこちから聞こえてきましたが、逃げるのが精一杯で、振り返る余裕(よゆう)もありませんでした。

 トンネルの中は真っ暗で、ただ恐ろしさと心細さで震(ふる)えているばかりでした。

 その時、後頭部にガラスの破片(はへん)が突き刺さり頭から血が流れているのに気が付きました。

 大きな釘(くぎ)を踏み付けたのか、足の下から上に突き出ているのに始めて気が付き、自分で抜き取りました。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/11/6 8:03
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
川は死体で一杯に

     八月六日 広島
         二十一歳 軍人

 広島は市内を七つの川が流れる、静かな町だった。

 夏になると、私達はきれいな川に飛び込んで遊び、秋になると橋の上からハゼを釣って楽しんだ。

 それがあの日、ピカの犠牲(ぎせい)になった大人や子供の死体で埋まった。

 それは正に地獄絵(じごくえ)そのものだった。
                       
 軍隊の人が小船に来って、竹竿で溺死体(できしたい)を収容していったが、数が多くてかなり時間がかかったようだ。

 不思議なことに、この日を境にして、川底に張り付くように一杯いたハゼの姿が消えた。










一回に五十体ずつ焼く

     八月六日、広島
         十九歳 軍人

 八月七日、尾道市に駐屯(ちゅうとん)していた私達に突然広島行きの命令が出た。

 軍用列車で着いてみると、広島は一面の焼け野原、駅の周辺は死体で埋まっていた。

 私達の任務は被曝した人の遺体処理であった。

 無数の遺体を処理するには、個別では間に合わない。

 一回に五十体ずつ重油を掛けて焼いた。

 黒紫色の煙が、東練兵場(ひがしれんペいじよう)から二葉(ふたば)の里(さと)の方に流れていった。

 この悲惨な作業は何日続いただろうか。


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/11/7 9:21
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
「お母さん!」と叫ぶ子供

     八月十日 長崎
         十七歳 中学生

 「お母さん!お母さん!」と泣き叫びながら、その子は必死に母親を探していた。

 五歳位であろうか。

 わが子を探すお母さん。その人も、服はボロボロに焼け、顔は真っ黒に汚れていた。

 「この子は私の子でしょうか‥‥」変わり果てた子供の姿に、果たして自分の子供かどうか判らない様子であった。

 私も、行方不明(ゆくえふめい)の従姉妹(いとこ)を探(さが)しまわったが、つい遂に発見できなかった。










「原曝症」次は自分か
               
     八月九日 長崎
         十五歳 女学生

      
 夕方、兵頭(ひょうどう)さんが青白い顔をしてふらふらと私の所に近寄ってきた。

 「家に無事でいることを知らせてほしい」とのことで私は家族に電話をいれた。当時としては珍しく彼女の家には電話があったので、すぐ連絡がついて助かった。

 顔色は悪かったが彼女も見たところ変わった様子はなかった。

 お互いに無傷で助かったことを「よかった」「よかった」と手を取り合って喜んだ。

 しかし、秋風の吹く頃に、彼女は原曝症で亡くなった。
                  
 恐ろしい何かが私の身体も蝕(むしば)んでいるかも知れない。

 「次は自分の番ではないか」と、毎日、毎日生きた心地(ここち)がしなかった。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/11/8 8:59
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 帯のように長く燃えて
               
     八月九日 長崎
         二十四歳 主婦

 青空の中に銀色のB29が見えました。

 警戒警報(けいかいけいほう)も出ていない静かな朝でしたので、「おかしいなー」と、思っていた時、光と風が目の前を通ったように思いました。

 気が付いた時、私は子供と一緒に奥の座敷に飛ばされていました。

 何が起こったのかわかりませんでした。

 それからどれ位経ったでしょうか。私達は近所の人達と山の中に逃げました。

 あちこちから火の手が上がり、町中が帯のように長く長く燃えていました。

 この日のことは忘れることができません。










家族の手をさすり天国へ

     八月六日 広島
       十三歳 女学生
                       
 水筒をぶら下げ、一人ひとりの顔を覗(のぞ)き込みながら、兄を探して歩き廻(まわ)った。
                       
 多くの息絶えた人の顔も確かめて廻(まわ)った。

 「水を下さい!」「水を」
  
 火傷(やけど)や怪我(けが)をした人に何度も抱き付かれたが水は兄に飲ませたい一心で、誰にも上げることが出来なかった。
                      
 やっと見つけた兄は、上半身にひどい火傷(やけど)と傷を負い、息も絶えだえ、折角(せっかく)の水を飲むカもなく、日も見えないようで、家族の者の手を、一人ひとりさすりながら、永遠の別れを告げて、天国に召(め)されていった。

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