特攻インタビュー(第2回)
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◆出戦命令から初陣まで(2)
陸軍航空特攻 中村 眞 氏
--------呑龍の場合は、基本的には8人乗りでしたですね?
中村‥ええ、8人でした。
--------その8人構成のチームというのは、いつも決まっていたのでしょうか?
中村‥チームっていうのもなかったですね。本にも書きましたけど、搭乗区分っていうのが前の日に発表になって、正操縦は私、副操縦は誰、機関係は誰というような、その都度、新しいメンバーで指名がありましたから。
--------じゃあ、どういう風なチームとか、ペアで乗り込むかっていうのは、毎回搭乗割が出るまでは判らなかったのでしょうか?
中村‥そうです。搭乗区分が発表になるまでは判らないですね。
--------日頃の部隊の中での人間関係というのが、かなり重要になるのでしょうか? やっぱり合う合わないとか、人間の好き嫌いがどうしても出ますものね。
中村‥そうです。みんな顔馴染みです。グループでいつも付き合う顔じゃなくて、誰とでも話が通じるというような、良い点もありましたね。
--------まだ特攻に行かれる前の部隊の生活で、思い出に残ることをお聞かせください。
中村‥フィリピンに行って最初の初陣が丸山隊長(大尉・中隊長・機長)とのコンビで、隊長は副操縦兼爆撃手でした。タクロバン飛行場というのが第九五戦隊の攻撃目標。あの頃はもう昼間は飛べなくて、夜間に10分間隔の波状攻撃という単機の爆撃でしたから、サーチライトが我々を探しながら、高射砲弾がボンボン周囲で破裂する中を初めて爆撃をやりました。そのときは高度4000mくらいで行ったと思います。タクロバン飛行場の上には薄い雲があって、そこに10分前に飛び出していった他の隊の飛行機が、ボコボコ高射砲で撃たれているわけですよ。
丸山隊長が「中村、6000mまで上がれ!」 って言いましたんで、本当はもう高度4000mから酸素吸入マスクを着けなくちゃならないのですが、そんなのもうすっかり忘れちゃって、そのまま6000mまで一気に上がりました。下の方では他の組が飛行場を攻撃している。その上に行って私が進路を決めて飛んでったら、その飛行場の上にこんな(手振り)雲がありました。「隊長、このままですと雲に入りますよー」って言ったら、「じゃあ、反方位で引き返せ!」と。その爆撃に入る進路っていうものは、どの飛行機でも全部違うわけですから、同じ進路で入っていくわけじゃなくて事前に決めてましたから、そこで反方位で引き返して爆撃をしました。やっぱり50kg爆弾を11発持ってったんですよね。そしたらどのくらいしてからか、「そら!当たった、当たった~-」と爆撃手の部屋から隊長が、もう飛行帽振り乱して上がってきましたね(笑)。今度は自分が副操縦の操縦梓を握って雲の中へ退避しました。そのときは敵の夜間戦闘機が3機ぐらい上がってきてい
ました。
--------やっぱり初陣のときは、緊張されましたでしょうか?
中村‥ええ、緊張しました。それが後になったら大分慣れました。あと落下傘部隊がブラウエン飛行場に降りたと。本当はみんな全滅していたらしいんだけども、降りた後、援助物資を投下しくちゃならんということになりました。島がいっぱいあるでしょ、それも夜ですから、どうやってその援助物資を投下するか。そのジャングルの中からね、懐中電灯をこう(手振り)回すことになっているから、よく見てろって(笑)。それで結局、そんな懐中電灯なんか見つからなくて、多分この辺だろうというところに援助物資を投下して帰ってきたこともありました。特攻に出る前には、いろいろ追尾攻撃も受けました。この頃は夜間しか動けませんから、こっちが行って敵を爆撃して飛行場に帰って来て、掩体壕に飛行機を押し込んだ途端に、敵がさっきの仕返しをしようと空襲に来てボンボンボンボンやられて (笑)、こつちも大急ぎで竹薮の中に逃げ込んだというようなこともありましたよ。
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陸軍航空特攻 中村 真 氏
◆飛行第九五戦隊として各地を移動(1)
--------浜松の飛行第一〇五戦隊に配属された後に、単身で満州の飛行第九五戦隊に配属されましたが、その後は部隊を転々としたというよりも、飛行第九五戦隊としていろんなところに移動されたのでしょうか?
中村‥そうです。最初は白城子の側でしたけど鎮東で編成になって、それからハルピンの隣の拉林鎮(ラリンチン)陸軍飛行場に移動しましたが、飛行第九五戦隊のままですからね。最後まで飛行第九五戦隊でした。
--------満州の後は、いったん鉾田に行かれましたですよね?
中村‥満州の中で、鎮東から拉林鎮陸軍飛行場に行って、そこから茨城の鉾田陸軍飛行場です。
--------その次は、北海道の方に?
中村一そうです。計根別(けねべつ)陸軍飛行場と帯広陸軍飛行場と書類には記録してありますが、私たちは帯広だったですから。その後ウルップ島や松輪(まつあ)島方面の哨戒になりました。
--------同じ飛行第九五戦隊でも、その中でいろんなところに分かれて移動されたのでしょうか?
中村‥そうです。北海道でも1800kmの洋上哨戒飛行がありました。帯広を中心に太平洋側に800kmの扇状に哨戒して、潜水艦を攻撃する訓練をやりました。北海道の山肌に石灰で潜水艦の絵が措いてあって、それでデモ訓練をしたりしました。赤ボタンを押し10kg爆弾を落とし旋回して逃げるんです。
--------そのウルツプ島・北海道、そして北海道・千島に行かれた後に、今度はいよいよ最前線のフィリピンということになるのでしょうか?
中村‥そうなんです。北海道にいる頃には、エトロフ島から爆弾倉一杯に買い込んできたタラバガニを、乾パンの空缶で茄でて、ウルップ島の海軍の夜間戦闘機銀河の連中と、よく一緒に一杯呑んでやってましたけれども(笑)、それから捷一号作戦が始まって、今度は海軍も陸軍も北海道にいる部隊が、みんな宇都宮だとか立川だとかに集められました。
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◆飛行第九五戦隊として各地を移動(2)
陸軍航空特攻 中村 真 氏
--------ウルップ島からフィリピンまで、戦隊ごとの移動ですと飛行機とパイロットだけじゃなくて、地上整備員とかいろんな地上部隊も飛行第九五戦隊の隊員の中にいたでしょうから、例えば彼らは後から船で移動したのでしょうか?
中村‥地上要員は、いわゆる機関係の助手みたいな形じゃないですかね。機関係にも機上機関係と地上で整備する機関係がいまして、我々と一緒に乗って飛び立つのは下士官の機上機関係の整備員。だいたい上等兵・兵長クラスの人たちは地上整備員です。何べんかピストンで地上整備員を先に送っておいて、後でみんなで編隊飛行で移動するということがありました。戦闘機部隊が地上勤務者の空輸をやることもありましたよ。
--------ではフィリピンに行くときも到着したときにはある程度、地上要員が揃っていたのでしょうか?
中村‥そうです。飛行機だとせいぜい10人か11人くらいしか乗る人間の数が限られていますから、軍艦で行った者もいたようです。
--------今までと違って、フィリピンに行くということは、本当の最前線という感覚だと思うのですが、やはりそこに行くと決まったときには、緊張されましたでしょうか?
中村‥特に緊張は感じませんでした。もう神経が敏感でなくなってきているんですよ(笑)。よく「死を恐れない」とか何とかって言うけれども、死んだらどうなるか誰も知らないわけなんで、恐れるも何も「飛行機乗りは飛行機に乗って戦争して落っこちたら死ぬ」というのが、軍隊では常識でした。
ただ11月だというのに、立川基地で南方用の夏の飛行服を新しく支給されたのは驚きました。
--------フィリピンに行く前にも事故で亡くなった方とか、やはり結構いらっしゃったんですか?
中村‥あ~、大勢いましたね。満州でも昭和18年の5月18日頃、鎮東に赴任したら、戦隊長の乗った飛行機が奉天かどこかと連絡飛行から帰ってきたときに、飛行場で並んで我々は出迎えていたんですよ。「あ~、あれだあれだ」って言ってたら、ツーツと光が落ちたんです。それで大騒ぎなって、取るものも取りあえず、そのまま皆で駆け出して飛行場を横切って墜落地点まで行ったんですよ。民間の満州人の家に一晩泊まったりしながら。それで行ってみたら、その飛行機の垂直尾翼だけがポーンと見えまして、ようやく「ああ、あれだあれだ」と現場に着いてみたら、紙屑カゴをバーツと散らしたように飛行機が粉々になって飛び散っていました。そこに中隊長の茨木大尉と川田軍曹だったか、それから戦隊長、そして後上砲席には額の濃い軍曹の死体がありました。雨が降りましたんで、血糊や泥なんかはみんな椅麓に洗われていました。
初めて墜落した者の死体の状況を見たわけですが、川田軍曹なんかは、しばらく生きていたんじゃないかなと思います。飛行服の上着の裾を手でかきむしったようになっていました。それから副操縦席にいたんでしょう、中隊長の茨木大尉の顔がペシャンコになっていて、手は操縦梓を握ったような格好になって仰向けになって死んでいました。神宮軍曹なんかは後上砲席にいたんだろうと思いますが、身体は俯せになっているのに首は背中を向いてるとか、そんな状況でしたね。満州に行って初めて私が見た事故でした。それらの遺体は運んできて飛行場の隅で火葬にしました。
--------そういう事故と隣り合わせみたいな生活が続くと、死生観っていうのも大分変わってきますか?
中村‥変わってきますね。まあ「いつでも来い」と。しかし、自分の操縦する飛行機は絶対に落ちないと信じていることですよ (笑)。だから人の飛行機に乗るのが嫌でしたね。自分が操縦桿を握ったら絶対に落ちないと。だけど何かの用事で人の飛行機に乗ったりすると「大丈夫かなあ?」なんて思っていました(笑)。いろいろありましたよ。そういう事故では、沼地に真っ逆さまに直線的に身体が突っ込んで、真っ黒い丸太ん棒のようになったパイロットの死体なんかも引き上げました。思い起こせば本当にきりがなかったですね。
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◆飛行第九五戦隊として各地を移動(3)
陸軍航空特攻 中村 眞 氏
--------フィリピンに派遣されたときの話を伺いたいのですが、フィリピンに到着したのは昭和19年の何月くらいでしょうか?
中村‥昭和19年の11月19日がフィリピンに到着した日なんですよ。これがね(資料を見て)、フィリピンのクラーク・フィールドに出陣する飛行第九五戦隊の雄姿という説明になっていますけど、本当は雄姿じゃないんです。先の部隊が28機でデルカルメンというところに進駐しました。そこにアメリカの戦闘機へルキャットが空襲に来たわけです。それでみんなボコボコにやられてしまって、28機のうち2機しか飛べるのが残らなかったんです。そのとき我々は、このバシー海峡でクラーク・フィールドに到着する寸前でした。地上から「今、敵が空襲中だから、ちょっと雲の上で待ってろ!」と言われたので、この写真は雄姿じゃなくて着陸しないで待ってる姿なんですよ、これ (笑)。
--------あ、そうなんですか!
中村‥デルカルメンに進駐するときではあったのですが、第一編隊・第二編隊・第三編隊の3番機に乗ってた整備の松井っていう見習士官が撮った写真なんですよ。
--------実は、勇ましいというより不安に駆られていたときだったんですね?
中村‥そう!
--------この写真の中には中村さんが搭乗されていた飛行機も写っているのでしょうか?
中村‥私が乗っているのは第一編隊の2番機…(写真を見て) この辺ですかね。3機で一編隊です。
--------その飛行場には降りることはできたのでしょうか?
中村‥空襲が終わってから着陸許可が下りて、その飛行場には降りました。
--------もうその翌日から、出撃になったのでしょうか?
中村‥そうです。飛行場に下りて、ちょうど食事の時間になって、お皿にあの頃の外米のジャブジャブっていうご飯を食べようとしたら、またグラマンの空襲だっていうんで、そのお皿を持ったまま爆撃でできた穴の中に入って退避していました。
--------敵機の空襲を受けたのも、フィリピンに行って初めての体験でしょうか?
中村‥ええ、19日に着陸した直後ですからね。
--------やっぱり空襲ってのは、怖いというか凄いものでしょうか?
中村‥こっちの対空砲火がないのをいいことにして、奴らもパイロットの顔が見えるくらい低空を暴れまわっていました。こっちも飛行機の方向を見ながら、穴の中をグルグルまわって撃たれないようにしていたので、そんなに恐怖はなかったです。
--------そしてその翌日から、先ほど仰ったように夜間爆撃に出撃されたんですよね?
中村‥そうです。もう昼間はダメでしたからね。もう帯広にいる頃から、昼夜転換訓練というのがあって、夜に飛んで昼は寝ているんですよ。だからなかなか眠れなくて…。夜になると「はい、集合!」で夜間飛行です。そんなことを帯広にいる頃からやっていましたので、もうそういう状況だったんじゃないですか? 昼間の制空権はアメリカに取られていましたので、こちらから攻撃する場合には夜間攻撃しかないと。だから菊水特攻隊の出発についても、栗原部員と師団司令部とで相当やりあったらしいんだよね。
今はもう昼間、速度の遅い重爆で攻撃しても成功は覚束ないから、夜間にやらせてくれということを、第五飛行団の方では盛んに軍司令部に言ったらしいけど、結局ダメで、他の援護戦闘機の関係や戦果確認機の連絡もあるから、そう一方的には決められない、予定通りやれってなことを言ったんでしょうね。援護の戦闘機なんか一機も来ないくせに。万朶隊の佐々木伍長もエンジン故障で助かったほうですね (笑)。私らと一緒に行ってたら死んでいたかもしれない。
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陸軍航空特攻 中村 真 氏
◆事前に知らされていなかった特攻(1)
--------昭和19年12月に出撃される頃には、特攻隊の出撃が始まっている時期のはずですが、特攻隊については分かっていらっしゃったのですか?
中村‥特攻隊については、ほとんど知らされていなかったです。「特攻隊って何だ?」っていうくらいなもんです。だから特攻の準備をしているときに、米子の養成所出身の吉水軍曹っていうお茶の先生の息子が来て、「中村、みんな帰って来ないようなことを言ってるよ」なんて言うから「ま、特攻隊って言うんであれば、爆撃した後に帰って来ないのが普通じゃないの?」なんて答えてました。「あ~、そうかねえ」なんていう調子だったから、特攻隊そのものについては、あんまりピンと来なかったですよ。
--------名前だけは聞いている、みたいな感じでしょうか?
中村‥特攻隊というのができたと。だいたい昭和19年の10月頃でしょう、特攻隊ができたのは。私らが出かけたのは12月ですからね。まして特攻隊として重爆が出るなんていうのは、あまり聞いたことがなかったです。
--------まあ、戦闘機ならそうなるでしょうね。
中村‥富嶽隊っていうのがあって、キー67かな? あれが特攻になってたというのは後で聞きましたね。
--------運命の昭和19年12月14日は、突然の特攻命令だったのでしょうか?
中村‥ええ、夜中に突然。どうもそうらしいな、というような噂が前の日にありましたよ。13日にね。いままで夜間ばっかりだったのが、今度は朝からの昼間攻撃になるわけで…。あ、これは特攻になるかも分かんないね、なんて話だったです。誰しもが映画で観るように天の一角を睨んで「ん!特攻やるぞ」っていうような雰囲気は全然ない(笑)。「あ、そうか、特攻か」っていうような調子です。毎日が夜間爆撃で出撃して帰って来ない者が多いから、我々だっていつ何処でどうなるか分からないわけで、「特攻だ」といってプチ当たろうとも、そう特別に大変な仕事だという意識はなかったですね。
--------その夜間の通常の爆撃は、その前日くらいまでは普通にやられていたんですか?
中村‥いわゆる10分間隔の波状攻撃です。タクロバンやブラウエンを目標にして、前の日まで、敵のサーチライトを縫うように、夜間の単機波状攻撃をやっていました。
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陸軍航空特攻 中村 真 氏
◆事前に知らされていなかった特攻(2)
--------14日に関しては前日に「次の出撃は昼間に爆撃するぞ」ということはもう聞いていたというわけですね?
中村‥そうです。4月13日夜に搭乗区分の発表があるんですよ。山内兵長っていうのが、「第二中隊の、明日の搭乗区分を申し上げま~す!」って、兵舎の入り口で怒鳴るんですよ。「長機‥機長・丸山大尉、正操縦・橘軍曹、…2番機‥機長・藍原少尉、正操縦・中村軍曹、…3番機‥機長・小林曹長、正操縦・久美田軍曹…」と。それで、「あ、そうか!」と知るのです。毎度おなじみの搭乗区分の告示なのに、昼間攻撃だということと、単機の時間差攻撃ではなく編隊爆撃ということから、あ、今度のはどうも特攻隊攻撃になるみたいだなと、前日の発令前にだいたいの予想がついていました。
--------その搭乗区分があった後に、中村さんの書かれた本にも書かれていましたけども、遺書を書かれたりみたいなこともされたのでしょうか?
中村‥ええ。でも実際に遺書が家族に届くかどうかはわかりません。軍事郵便で父母・兄弟にお別れを伝えるとか、あるいは辞世の旬を作って書いてみるとか…。多分「父母の健在を祈り、妹よ、よき日本の妻たれ」というようなものだったと思います。だいたい自分の寝る場所の整理が主でしたね。ざっくばらんな話をすると、新しい下着に替えて綺麗にしてということだけれども、新しい下着に替えたら古い下着はどうにかしなくちゃなんないでしょ?だから、私なんか2枚下着履いて行きました(笑)。どうせ向こうに行って、敵の軍艦にプチ当たって粉々になっちゃうんだ。どうせ分かんないだろうと思って(笑)。新しい下着に替えても、古い下着の処置に困っちゃうものね。
--------台湾で買い込んでいたタバコなども、全部整備員に分けたそうですね?
中村‥そうそう、地上勤務の兵隊さんに、みんな上げましたよ。
--------貰った方は、喜んだんじゃないですか?
中村‥まあ、そうですね。私がデング熱にかかって苦しんだときに世話になった機付きの兵隊さんでしたから。
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陸軍航空特攻 中村 真 氏
◆事前に知らされていなかった特攻(3)
--------次の部隊は特攻出撃だというのは、当然地上の勤務者も分かると思うのですけれども、特攻へ行かれる側はともかくとして、特攻を見送る側というのは、特攻に出撃する隊員たちに対して以前と態度が変わるというのは、あったのでしょうか?
中村‥普通でした。特に特攻だからという特別のはなくて…。ただ、我々が飛び立つ飛行場の外れの方には、見送りの兵隊さん、地上勤務の整備の人たちなんかが、ずっと整列をして手を振ってくれましたね。クラーク・フィールドから飛び立ったのが、飛行第九五戦隊の7機です。あとデルカルメンというところから、飛行第七四戦隊の2機が飛び立って上空で合流しました。
私らの飛行第九五戦隊の場合は、1機5名ということで人数制限をしました。人事係の木村准尉が乗ったと思ったら下りてきたので、「どうした?」って聞いたら「いや、僕、交代しろって言われた」なんて…。乗る予定の人が入れ替わったり、そういった異動は出発間際までありましたよ。
--------特攻で出撃する直前にも、同じ飛行機に誰が来るかというのは、入れ替わり立ち替わりみたいな感じで、最後までドタバタしていた感じなのでしょうか?
中村‥ええそうです。すでに搭乗区分が決まっていても、出発間際に変更がありました。例えば私の飛行機だと、尾部の13mm機関砲射手として乗るはずだった会田という准尉さんが、直前に交代して機から降り、小林光五郎という曹長と交代になったと。そのおかげで、小林曹長は死んで会田准尉は生き残ってしまう。そのことを後々までも「申し訳ない、申し訳ない」って会田さんは言っていました。日本に帰って来てからも小林さんの遺体はフィリピンの海底にあるわけですから、『千の風になって』の歌詞ではないけれども、小林曹長の遺骨のないカラのお墓を何べんも御参りに行っていました。会田さん、もう亡くなりましたけどね…。
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陸軍航空特攻 中村 真 氏
◆運命の昭和19年12月14日(1)
--------そして、いよいよ特攻出撃ですが、早朝だったのでしょうか?
中村‥そうです。12月14日午前1時過ぎに招集がかかって飛行服に身を固め、兵舎から戦隊本部に行きました。そこでみんなで並んでいると戦隊長から、「この攻撃は特別攻撃隊『菊水隊』と命名せらる」という第五飛行団命令の示達がありました。帯広駐在時代に高松宮から戴いた日本酒で盃一杯の乾杯をして、配られた恩賜のタバコを分け合いましたね。
--------普通に攻撃して万が一ダメだったら特攻をやればいいじゃないか、みたいなことが本には書いてありますね。
中村‥示達の後で丸山隊長から訓示があり、その中で「確実な方法で敵を撃沈せよ」と。体当たりで沈めろとは言わなかったからね。私は最初から体当たりで敵船を沈めようとは考えていなかったです。いろいろ攻撃して、どうしてもダメな場合に最後の手段として体当たりをと思っていました。
--------離陸のときの心境はいかがでしたでしょうか?
中村‥午前6時半頃に離陸しました。私は2番機で単操縦、500kgの爆装なので緊張したものです。地上滑走で出発点に着きフラップを15度に開きます。尾輪固定、プロペラピッチ最低、オーバーブースト解除を再確認して離陸目標のアラヤット山を睨むと、南海の夜明けの空を背景にして地平線にくっきりと浮かんでいました。滑走路の横、遠くに見送りの戦友たちが手を振っている。操縦梓を握りしめ右手を振り上げて「出発-」と怒鳴り、エンジンレバーを徐々に前方に押し出してゆきました。愛機は待ちかねたように全身を震わせて突っ走り、最後の爆音を轟かせて大地を蹴りました。「脚上げ!」…加速度がつく…「フラップ!」…ぐぐっと機が沈む…これでよし!と。
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陸軍航空特攻 中村 真 氏
◆運命の昭和19年12月14日(2)
--------そして上空での集合でしたね。
中村‥飛行場上空で空中集合して、編隊は翼を振って飛行場に別れを告げマニラ上空へと向かいました。あとは飛行第七四戦隊と合流して、マニラの上空で援護戦闘機60機と万乗隊の残りが来るという情報でしたから、彼らを待つのにだいぶ空中で旋回していたんですよ。マニラ上空では夜も明けて良い天気でした。しかし全然姿を見せる気配がないので、隊長の丸山大尉も見切りを付けたらしく、目的地のパナイ湾へ高度3000mで向かったんでしょうね。
--------船団攻撃は、そのとき初めてだったのでしょうか?
中村‥初めてでしたね。船団攻撃はやらず、だいたいレイテ島のタクロバン飛行場の爆撃というのが、飛行第九五戦隊の任務でした。
--------いきなりそれで船団攻撃の特攻命令を受けたわけですが、どうやってやろうか、つて話から始まるわけですね。
中村‥結局、跳飛弾による船団攻撃ということでしょう。跳飛弾攻撃というのは池や水の水面に平たい石を投げると、バッハッと水面を跳ね飛んでゆくあの理屈から考えた爆撃法ですね。私たちは対ソ連戦を目標に訓練を重ねて来た部隊なので、跳飛弾の使い方も爆撃方法も、ほとんど訓練を受けていない状態なんです。結局、隊の中で訓練をやったのは1度だけだった。
電波探知機を付けた呑龍に、専門家の少尉が「ちょっと操縦させてよ」と、北海道の根室・釧路の沖に軍艦島という島があるのですが、その島に向かって爆弾は落とさないけど、突っ込んでからガンと機体を引き上げるわけですよ。それをやったら主翼の付け根にある沢山打ってあるビスが、みんなワッと浮いちゃったっていうんですね。帯広に帰ってから整備の連中にガンガン文句言われて、「そんな無茶な操縦するんじゃねえー」なんて怒られましたけど(笑)。
本来の跳飛弾は、海軍では反跳爆弾です。攻撃方法としては、時速350~400kmくらいの速度で急降下して、海面10mくらいをスレスレに飛んで、敵の船の100~200m手前で落としたら、すぐに反転しないと、落とした自分の爆弾が跳ね返ってきて、てめえの飛行機がやられちゃうと。そういうのは後で研究して(笑)、海軍の人に「反跳弾って、どうやるんだよ?」と聞いたら教本を見せられました。反跳弾の訓練は1回もやったことなかったですからね。主翼のビスが、みんな浮かんでしまうような飛行機だったから、向いていないというか、ちょっと重爆なんかでは無理だったんじゃないですか。山本末男という大尉が台湾沖で、敵の輸送船に跳飛弾を投下したと。それっきり何もやっていなかったらしいから…。あれは、あんまり良い攻撃方法じゃなかったんじゃないですかね。
編集者
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陸軍航空特攻 中村 真 氏
◆運命の昭和19年12月14日(3)
--------12月14日に出撃されて、何時間かずっと飛んでいらっしゃると思うんですけど、そういうときにはどうやって攻撃しようかなとか、考えられながら飛んでいるのでしょうか?
中村‥いや、飛ぶ前に私の機の連中が集まったところで作戦会議を開きました。私が「一番大きな船をやってやろう。どうせ死ぬのなら相手を大勢やっつけたほうがいい。まず、俺が跳飛弾攻撃をかけるから前方射手の足立伍長は13mm機銃を全弾撃ち込んでくれ。爆撃後に敵船を飛び越して海面スレスレに飛ぶから、そしたら後上砲と尾部の13mm機銃は全弾撃ち込んでもらう。それでも敵船が沈まなかったら、反転して突っ込むからその覚悟はしていて貰いたい」と言うと、藍原少尉が「中村よ、なるべく小さい船をやろうや」なんて言ってたけど、みんな腹の中では覚悟を決めたようでしたね。
--------そして、クラーク・フィールドからの飛行第九五戦隊7機とデルカルメンからの飛行第七四戦隊2機が上空で合流したわけですね。
中村‥そうです。9機の編隊で行動していました。天気は良いし気流も静かでした。眠くなるような気分でしばらく飛んでいると、編隊長機がどんどん高度を下げだしたので、これは敵の陣地が近いなと思っていたら、隊長機の背中にあるジュラルミンの赤白2本の信号旗がパンと立つんですよ。「戦闘隊形を組めー」という合図です。いよいよ来たな!と私は被っていた飛行帽をはね上げて戦闘隊形に取り組みました。普通の編隊でしたら《一機高・一機幅》と言って、飛行機の高さと幅が決まっているわけです。戦闘隊形になったら《零横幅・零機高》というような具合にお互いの空間を詰めて、後上砲の集中砲火を張るわけなんでしょうね。戦闘隊形の旗が揚がったから、みんなワーツと9機が寄りました。それでパンパン敵機との撃ち合いが始まったわけなんですね。