特攻インタビュー(第2回) その13
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◆飛行第九五戦隊として各地を移動(2)
陸軍航空特攻 中村 真 氏
--------ウルップ島からフィリピンまで、戦隊ごとの移動ですと飛行機とパイロットだけじゃなくて、地上整備員とかいろんな地上部隊も飛行第九五戦隊の隊員の中にいたでしょうから、例えば彼らは後から船で移動したのでしょうか?
中村‥地上要員は、いわゆる機関係の助手みたいな形じゃないですかね。機関係にも機上機関係と地上で整備する機関係がいまして、我々と一緒に乗って飛び立つのは下士官の機上機関係の整備員。だいたい上等兵・兵長クラスの人たちは地上整備員です。何べんかピストンで地上整備員を先に送っておいて、後でみんなで編隊飛行で移動するということがありました。戦闘機部隊が地上勤務者の空輸をやることもありましたよ。
--------ではフィリピンに行くときも到着したときにはある程度、地上要員が揃っていたのでしょうか?
中村‥そうです。飛行機だとせいぜい10人か11人くらいしか乗る人間の数が限られていますから、軍艦で行った者もいたようです。
--------今までと違って、フィリピンに行くということは、本当の最前線という感覚だと思うのですが、やはりそこに行くと決まったときには、緊張されましたでしょうか?
中村‥特に緊張は感じませんでした。もう神経が敏感でなくなってきているんですよ(笑)。よく「死を恐れない」とか何とかって言うけれども、死んだらどうなるか誰も知らないわけなんで、恐れるも何も「飛行機乗りは飛行機に乗って戦争して落っこちたら死ぬ」というのが、軍隊では常識でした。
ただ11月だというのに、立川基地で南方用の夏の飛行服を新しく支給されたのは驚きました。
--------フィリピンに行く前にも事故で亡くなった方とか、やはり結構いらっしゃったんですか?
中村‥あ~、大勢いましたね。満州でも昭和18年の5月18日頃、鎮東に赴任したら、戦隊長の乗った飛行機が奉天かどこかと連絡飛行から帰ってきたときに、飛行場で並んで我々は出迎えていたんですよ。「あ~、あれだあれだ」って言ってたら、ツーツと光が落ちたんです。それで大騒ぎなって、取るものも取りあえず、そのまま皆で駆け出して飛行場を横切って墜落地点まで行ったんですよ。民間の満州人の家に一晩泊まったりしながら。それで行ってみたら、その飛行機の垂直尾翼だけがポーンと見えまして、ようやく「ああ、あれだあれだ」と現場に着いてみたら、紙屑カゴをバーツと散らしたように飛行機が粉々になって飛び散っていました。そこに中隊長の茨木大尉と川田軍曹だったか、それから戦隊長、そして後上砲席には額の濃い軍曹の死体がありました。雨が降りましたんで、血糊や泥なんかはみんな椅麓に洗われていました。
初めて墜落した者の死体の状況を見たわけですが、川田軍曹なんかは、しばらく生きていたんじゃないかなと思います。飛行服の上着の裾を手でかきむしったようになっていました。それから副操縦席にいたんでしょう、中隊長の茨木大尉の顔がペシャンコになっていて、手は操縦梓を握ったような格好になって仰向けになって死んでいました。神宮軍曹なんかは後上砲席にいたんだろうと思いますが、身体は俯せになっているのに首は背中を向いてるとか、そんな状況でしたね。満州に行って初めて私が見た事故でした。それらの遺体は運んできて飛行場の隅で火葬にしました。
--------そういう事故と隣り合わせみたいな生活が続くと、死生観っていうのも大分変わってきますか?
中村‥変わってきますね。まあ「いつでも来い」と。しかし、自分の操縦する飛行機は絶対に落ちないと信じていることですよ (笑)。だから人の飛行機に乗るのが嫌でしたね。自分が操縦桿を握ったら絶対に落ちないと。だけど何かの用事で人の飛行機に乗ったりすると「大丈夫かなあ?」なんて思っていました(笑)。いろいろありましたよ。そういう事故では、沼地に真っ逆さまに直線的に身体が突っ込んで、真っ黒い丸太ん棒のようになったパイロットの死体なんかも引き上げました。思い起こせば本当にきりがなかったですね。