捕虜と通訳 (小林 一雄)
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捕虜たちと泣き笑いのカケひき―虚々実々の所内・その4
アメリカ軍機の爆撃や本土偵察が多くなったころから、収容所でも灯火管制を実施した。警報が出されると全バラック棟の電灯に黒いカバーをかけ、窓は黒い布地で覆われ、灯りが外に漏れないように処置された。こんなことからでも、彼らは 「アメリカ有利」 の情報を察知、暗いバラックの中でも、にぎやかに雑談に興じていた。私も当時、軍に関係することは直接、捕虜たちにいうことはなかったが、こうした現実の模様はかくすことはできず、つい「とにかく君たちは元気に暮らすことだ」と、暗示することばを述べるのが、精いっぱい。こうした暗示的な言語を、彼らは貴重な情報として、予測分析していたことは、あとで知った。
「いま、君らの尊敬するマッカーサー司令官は四国の善通寺捕虜収容所に入っている」-ある日、私は彼らに半分は冗談気分でこういってやった。善通寺収容所は高級将校の捕虜収容所だったが、彼らは私のこのことばを即座に「ネバー・バップン」(NEVER・HAPPEN=とんでもない)とはねつけた。そして灯火管制やB29《=ボーイング社製の大型長距離爆撃機》の爆撃機事件がその証拠だと、ハッキリ言明していた。すでにこの時期、捕虜たちは明らかに、あらゆる分析をしてアメリカ軍の優勢を予知していたようだ。所内での〝かけ引き″も、われわれ日本側が日ごとに裏目に出るような情勢だったのだ。
収容所が米軍機によって機銃掃射《きじゅうそうしゃ=飛行機から機関銃でねらいうつこと》される事件があった。空襲警報発令の時には捕虜も所内に造られた防空壕《ぼうくうごう=穴を掘り、または構築物で空襲の被害を避けた》に待避することになっていたのだが、彼らは容易に防空壕に入ろうとしない。
収容所の屋根には大きな文字でP・O・Wと書かれていたので、絶対安全だと信じていたのか、別の意味があったのか? 米軍機の姿を見て、戦況有利を信じ、自ら慰め、励ましていたのだろうことは容易に想像できた。
時には米軍機を仰いで手を振る者さえ出てきた。祖国を思い信じる軍人の心は、当時、彼我ともに同じだったと感じた。
そんなある日、突然飛来してきた米グラマン機が収容所を機関銃掃射したことがあった。幸い被害は無かったが、この時ばかりはさすがに彼らも驚き、憤り、空を仰いで「ガッデム・サノバピッチ」と叫んでいた。防空壕に入らなかった連中は、むしろ「友軍機の爆撃でやられた方が、日本軍の手にかかって死ぬよりも本望だ」と思っていたのだろうと考えていた私の想像を訂正してくれた風景だった。やはり人間として〝死″から逃れたいという欲求は誰も同じであることを思わせてもくれた。
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第六章
クリスマスに一挙に噴き出したアメリカ人気質・その1
収容所は、隔離ゾーンだからそこに住む人間はとかく精神的に湿っぽい暮らしを余儀なくされる。彼らは強者の側からつねに監視され、保護されている。だから彼らの持って生まれた〝民族性″〝人間性″も、個人差があるとはいえ、抑圧され、なかなか表面に出てこないのは致し方のないことなのだ。
しかし、なにかのきっかけ、チャンスがあると、それはまるで噴き出るように表面化する。いままで、あるいは普段、抑えられているだけに噴出度は、まるで活火山の爆発のようにすさまじい。
それまで私は〝アメリカ人気質″ということを考えたことがなかった。学生時代、アンクル・トムに代表される〝イギリス人気質″については、おぼろげながら〝紳士″ということばで一般論としては想像できた。欧州各国の人びとの気質も、アメリカ人の気質も共通性のある民族として理解していた。考えてみれば、これほど薄っぺらな〝モノの見方、理解の仕方″はない。
なのに、どうしてもそれ以上の理解はむづかしかった。だからアメリカ人の持つ共通の民族性、気質といっても、興味も関心も湧《わ》かなかったのは当然だろう。
それが、この捕虜収容所に勤務した結果、かつて無関心だった、当然これから十分に理解の必要を求められる〝アメリカ人″独特の〝気質″を否応なく知らされるハメとなり、いまでは、よかったと思っている。
昭和十九年(一九四四)も終わりを告げようとする十二月の半ばごろだったと記憶する。捕虜たちが「クリスマスに思いきり笑い、リラックス・ムードの一日を送りたいのでわれわれの提案を許可してほしい」と申し出てきた。
クリスマスの手づくりシアターを開設、喜びをともにしたいという希望である。倉西分所長は、一つ返事で許可した。「西欧文明の中核を形成するキリスト教の生みの親キリストの降誕を祝福する日の催しは、関係する民族にとっては、かけがえのないイベントである。その昔、ローマ人が冬至に行った農神祭をキリスト教徒が受け継いで宗教的な儀式に盛り上げたのがクリスマス・セレモニーともいわれている。何はともあれ、彼らにとってはキリスト降誕を祝う伝統的なクリスマスが民族文化の大きなウエイトを占めている。虜囚となっている彼らの唯一の最大の文化は、それなりに尊重するのが、たとえ戦乱の中とはいえ、彼らを保護する立場にある日本人の武士道であり、大和民族の心の表れだ」-倉西分所長の崇高ともいえる説を初めて聞き、感動したことを覚えている。
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クリスマスに一挙に噴き出したアメリカ人気質・その2
捕虜たちは喜んだ。大喜びだった。
クリスマス・イブからクリスマスの当日にかけては、それまで小出しにしか、していなかった捕虜のための国際赤十字社から贈られている、さまざまな救援品(慰問品)が倉庫からどっと搬出された。各種食用缶詰め、各種のタバコ、コーヒー、砂糖、バターやチーズ、コンビーフ…数えればきりがないほどの豪華な品を詰めた大きなボール箱がつぎつぎと運び出された。
百ケースはあっただろう。全部「メード・イン・USA」(アメリカ製)のスタンプが押してある。逆境のなかで行われたクリスマスだった。
炊事班の兵士たちは、その一つ一つをていねいにあけて煮物にしたり、いためた。…大車輪の調理を始めた。普段、あまり嗅《か》いだことのない美味な臭いが調理場の内外、あたり一面にただよい、晴れやかな表情で、なかにはハナ歌まじりに調理する兵士らの姿とともに、所内全体がお祭りを迎えるような明るさに満ちていた。
日本側へも「いっしょに祝福したいのでぜひ来てほしい」と招待の声がかけられた。軍人、軍属、民間人の手のあいた者はほとんどそれに応じて出席した。オランダ兵にも「同じように祝福を…」と料理がプレゼントされた。文字どおり、全所あげてのお祭りだ。あっけらかんな談笑とユーモアたっぷりの雰囲気に〝アメリカ"を見た。いま思えば、あの時、彼らからもらったコンビーフの味は、貧しい配給食だけの食生活の私には、すばらしかった。おいしかった。
お粗末な配給米に頼らざるをえなかった当時の日本人の一般家庭では、口にしようにもできない、すばらしい彼らの料理を目の前にして、彼我の食品の差の大きさに一瞬、疑問が湧《わ》いた。「すべてアメリカ製という、りっぱな品をみると、たとえ赤十字を経たものとはいえ、モノの質、量では、日本は到底、アメリカに先んじることはできない」と、素朴な思いも脳裏をかすめた。
まあ、それはともかく、あの時の美味な料理は、いまも忘れられない。
捕虜たちは喜んだ。大喜びだった。
クリスマス・イブからクリスマスの当日にかけては、それまで小出しにしか、していなかった捕虜のための国際赤十字社から贈られている、さまざまな救援品(慰問品)が倉庫からどっと搬出された。各種食用缶詰め、各種のタバコ、コーヒー、砂糖、バターやチーズ、コンビーフ…数えればきりがないほどの豪華な品を詰めた大きなボール箱がつぎつぎと運び出された。
百ケースはあっただろう。全部「メード・イン・USA」(アメリカ製)のスタンプが押してある。逆境のなかで行われたクリスマスだった。
炊事班の兵士たちは、その一つ一つをていねいにあけて煮物にしたり、いためた。…大車輪の調理を始めた。普段、あまり嗅《か》いだことのない美味な臭いが調理場の内外、あたり一面にただよい、晴れやかな表情で、なかにはハナ歌まじりに調理する兵士らの姿とともに、所内全体がお祭りを迎えるような明るさに満ちていた。
日本側へも「いっしょに祝福したいのでぜひ来てほしい」と招待の声がかけられた。軍人、軍属、民間人の手のあいた者はほとんどそれに応じて出席した。オランダ兵にも「同じように祝福を…」と料理がプレゼントされた。文字どおり、全所あげてのお祭りだ。あっけらかんな談笑とユーモアたっぷりの雰囲気に〝アメリカ"を見た。いま思えば、あの時、彼らからもらったコンビーフの味は、貧しい配給食だけの食生活の私には、すばらしかった。おいしかった。
お粗末な配給米に頼らざるをえなかった当時の日本人の一般家庭では、口にしようにもできない、すばらしい彼らの料理を目の前にして、彼我の食品の差の大きさに一瞬、疑問が湧《わ》いた。「すべてアメリカ製という、りっぱな品をみると、たとえ赤十字を経たものとはいえ、モノの質、量では、日本は到底、アメリカに先んじることはできない」と、素朴な思いも脳裏をかすめた。
まあ、それはともかく、あの時の美味な料理は、いまも忘れられない。
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クリスマスに一挙に噴き出したアメリカ人気質・その3
クリスマスの日の彼らが自慢する呼びものの一つは自作自演の劇である。仕ぐさは役者の多い彼らの演出でどうにでもなる。だが、演出効果を出すショー用の衣装は何一つない。「奥さんやママさんの衣装を貸してくれ」-結局、彼らのこの要望に応えて日本人職員が、それらを貸した。私も、母や姉、やがて私の妻となる〝彼女″から衣服や帽子、ショール、口紅からおしろい類まで、いろいろな女性の小道具を運び込んだ。
お粗末ながら一棟がにわか劇場に模様がえされ、一段高いステージを前に観客席もつくられた。倉西分所長以下、日本人職員も最前列の特別席に招かれた。大きな拍手とともに幕があき、軽快な口笛も兵士たちの口から鳴らされた。どの顔も笑っている。日本人も笑っている。
アメリカ本国の一般家庭の風景が、材料不足にもかかわらず手づくりで見事なできばえでステージいっぱいにつくられている。「メリー・クリスマス」-背広姿のパパのことばを合い図に、口紅をぬった、本物と間違う女装のママ、小柄な兵士が擬したこどもたちもいっせいに「メリー・クリスマス」。そしてテーブルを囲んで食事、団らん。大きなクリスマスツリーに鮮やかな電飾がつけられ、〝聖しこの夜″の合唱も。観客の兵士たちも立ちあがって唱和。束の間の故郷を思い出させる演出に、みんな顔を紅潮させ、歌い、笑い、投げキッスや口笛が交錯する。底抜けに明るい。捕虜とは思えない。普通のアメリカ人の風情を見た思いだ。
一転、舞台は捕虜収容所の風景。そこへ部隊一のひょうきん男、ジェリー一等兵 (JERRY)扮《ふん》する郵便配達夫が自転車に乗ってクリスマスカードや手紙の配達。首を長くして故郷の便りを待つ兵士たちが、われ先にとその郵便を奪い合う。「メリー・クリスマス」一人の兵士の声をきっかけに、全員がまた 「メリー・クリスマス」。そこへ、こんどは別の兵士の扮する郵便配達夫が 「電報」 と大声で一通の電報を持ってきた。
受けとった兵士の一人が大きな声で電文を読み上げる。「男の子、できた」。その兵士、瞬間飛びあがって「バンザーイ。でかしたぞ」「わがワイフは世界一の美女。私の誇るすてきな女…」と叫びながらステージ狭しと踊りまくった。…が一瞬、立ちどまって口を「へ」 の字に結び首をかしげる。やがてへナヘナと座り込み「何でベイビーができた?」「おれは三年間も戦場にいるのに…」そして大きな声を出して泣きじゃくる仕ぐさ。怒り心頭に発した表情で観客席向かって怒鳴り散らす。「ワイフが…ワイフがなぜこどもをつくった?わからない、わからない」歌声まじりのしょげた姿、そして卒倒する仕ぐさに会場は大爆笑。
ヒユー、ヒユーとまた口笛があちこちで鳴り、靴で床を鳴らす音も一段と激しくなって、やがて笑い声と拍手とともに幕。
クリスマスの日の彼らが自慢する呼びものの一つは自作自演の劇である。仕ぐさは役者の多い彼らの演出でどうにでもなる。だが、演出効果を出すショー用の衣装は何一つない。「奥さんやママさんの衣装を貸してくれ」-結局、彼らのこの要望に応えて日本人職員が、それらを貸した。私も、母や姉、やがて私の妻となる〝彼女″から衣服や帽子、ショール、口紅からおしろい類まで、いろいろな女性の小道具を運び込んだ。
お粗末ながら一棟がにわか劇場に模様がえされ、一段高いステージを前に観客席もつくられた。倉西分所長以下、日本人職員も最前列の特別席に招かれた。大きな拍手とともに幕があき、軽快な口笛も兵士たちの口から鳴らされた。どの顔も笑っている。日本人も笑っている。
アメリカ本国の一般家庭の風景が、材料不足にもかかわらず手づくりで見事なできばえでステージいっぱいにつくられている。「メリー・クリスマス」-背広姿のパパのことばを合い図に、口紅をぬった、本物と間違う女装のママ、小柄な兵士が擬したこどもたちもいっせいに「メリー・クリスマス」。そしてテーブルを囲んで食事、団らん。大きなクリスマスツリーに鮮やかな電飾がつけられ、〝聖しこの夜″の合唱も。観客の兵士たちも立ちあがって唱和。束の間の故郷を思い出させる演出に、みんな顔を紅潮させ、歌い、笑い、投げキッスや口笛が交錯する。底抜けに明るい。捕虜とは思えない。普通のアメリカ人の風情を見た思いだ。
一転、舞台は捕虜収容所の風景。そこへ部隊一のひょうきん男、ジェリー一等兵 (JERRY)扮《ふん》する郵便配達夫が自転車に乗ってクリスマスカードや手紙の配達。首を長くして故郷の便りを待つ兵士たちが、われ先にとその郵便を奪い合う。「メリー・クリスマス」一人の兵士の声をきっかけに、全員がまた 「メリー・クリスマス」。そこへ、こんどは別の兵士の扮する郵便配達夫が 「電報」 と大声で一通の電報を持ってきた。
受けとった兵士の一人が大きな声で電文を読み上げる。「男の子、できた」。その兵士、瞬間飛びあがって「バンザーイ。でかしたぞ」「わがワイフは世界一の美女。私の誇るすてきな女…」と叫びながらステージ狭しと踊りまくった。…が一瞬、立ちどまって口を「へ」 の字に結び首をかしげる。やがてへナヘナと座り込み「何でベイビーができた?」「おれは三年間も戦場にいるのに…」そして大きな声を出して泣きじゃくる仕ぐさ。怒り心頭に発した表情で観客席向かって怒鳴り散らす。「ワイフが…ワイフがなぜこどもをつくった?わからない、わからない」歌声まじりのしょげた姿、そして卒倒する仕ぐさに会場は大爆笑。
ヒユー、ヒユーとまた口笛があちこちで鳴り、靴で床を鳴らす音も一段と激しくなって、やがて笑い声と拍手とともに幕。
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クリスマスに一挙に噴き出したアメリカ人気質・その4
戦場に虜囚となり、故国に残した愛妻や彼女たちのことを気にする風刺劇を通じて〝みじめさ″を吹っ飛ばそうとする努力。面、底知れぬ陽気な仕ぐさと演出でみんなと笑い、叫び、思いきり、イベントを楽しもうとする。この 〝アメリカ人気質″を初めて目の前に見て、アメリカ人の底の深さと、表現の面白さ、明るい心根につくづく感心させられた。このことは戦後、ずっと〝友人″として付き合うようになってから、彼らの一挙手一投足が証明する 〝民族性″であることの理解をいっそう深めていった。ユーモアに富むアメリカ人の特性がよく表れていた。
民族性といえば、笑い、泣き、哀しみ、嘆く風情は、万国共通だ。ただ、大自然のかもし出す環境、科学技術の進展を受容する尺度などによって、その集団の生きざま、モノの見方、そして考え方、行動は微妙に違ってくる。歴史の歩みがやがてそれを固定化させ、さらに同化させたり、風化させたりしながら、独特の〝調べ″となって伝統を形づくる。人間というまぎれもない同一の土壌に立って、その原点をふり返ると、どの民族も等しい希望と貪欲《どんよく》の間に苦しみ、笑い、生へのあくなきチャレンジ精神をかき立てている。
〝陽気なアメリカ人気質〟を収容所に見て、私の人類観、人間観は、チョッピリ、成長したのだろうか。それにしても「人情に国境はない」(Humanity is one)とつくづく思わせた。逆境の中で明日の命を憂いながら暮らす捕虜たちの、せめてもの喜び。そのひとときにユーモアを忘れない彼らの強さもそこにあるのだろう。鬼畜米英を叫ぶ当時の日本人とは大きくかけ離れた彼らの姿を見た思いで、一方では奇妙に感じられたものだ。
戦場に虜囚となり、故国に残した愛妻や彼女たちのことを気にする風刺劇を通じて〝みじめさ″を吹っ飛ばそうとする努力。面、底知れぬ陽気な仕ぐさと演出でみんなと笑い、叫び、思いきり、イベントを楽しもうとする。この 〝アメリカ人気質″を初めて目の前に見て、アメリカ人の底の深さと、表現の面白さ、明るい心根につくづく感心させられた。このことは戦後、ずっと〝友人″として付き合うようになってから、彼らの一挙手一投足が証明する 〝民族性″であることの理解をいっそう深めていった。ユーモアに富むアメリカ人の特性がよく表れていた。
民族性といえば、笑い、泣き、哀しみ、嘆く風情は、万国共通だ。ただ、大自然のかもし出す環境、科学技術の進展を受容する尺度などによって、その集団の生きざま、モノの見方、そして考え方、行動は微妙に違ってくる。歴史の歩みがやがてそれを固定化させ、さらに同化させたり、風化させたりしながら、独特の〝調べ″となって伝統を形づくる。人間というまぎれもない同一の土壌に立って、その原点をふり返ると、どの民族も等しい希望と貪欲《どんよく》の間に苦しみ、笑い、生へのあくなきチャレンジ精神をかき立てている。
〝陽気なアメリカ人気質〟を収容所に見て、私の人類観、人間観は、チョッピリ、成長したのだろうか。それにしても「人情に国境はない」(Humanity is one)とつくづく思わせた。逆境の中で明日の命を憂いながら暮らす捕虜たちの、せめてもの喜び。そのひとときにユーモアを忘れない彼らの強さもそこにあるのだろう。鬼畜米英を叫ぶ当時の日本人とは大きくかけ離れた彼らの姿を見た思いで、一方では奇妙に感じられたものだ。
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第七章
捕虜にも祝福されたわが新婚-防空壕で初夜過ごす・その1
私の多感な青春時代をふり返ってみると、学生時代はどちらかといえば硬派に近かった。とくに中学時代は勉強は並以上だったと思うが 〝不良″に近い人物だった。とくにまじめくさって勉強しなくてもそれなりの成績だったから、余計に暇をもてあそび不良印のようなかっこうをしていたのかも知れない。
人並みに初恋もし、美しい女性をみれば情熱がほとばしり、勉強をしない、成績もまずまずという自己主張を売りものにした、思い出多い青春を思い起こす。
わが愛する妻・尚子は、そんな時代に私の心に飛び込んできた女性である。旧制の私立羽衣学園では、ひときわ麗女で通り、頭もきれた、のんびりした女性である、といわれた。中学時代から知った仲だった。捕虜収容所へ勤務しはじめ、生活もやや安定したころから、急速につき合う日が多くなってきた。銃後《じゅうご=戦場でない後方の地》の守りのひと役に、女子艇身隊員《注1》として軍需工場に通う彼女のモンぺ《=はかまの形をした衣服。戦時中女性の基本的な服装》姿、若々しい表情には、戦雲急を告げる日々にも本当に新鮮さがあった。私の収容所勤務を元気づけてくれるように思えたものだ。旧制の男子中学《=男子中等学校》と高女《=高等女学校》。そうでなくても「男女七歳にして席を同じうせず」式のきびしい社会の風潮の中にあって、ずっと彼女と私が暖め合ってきた〝心の絆《きずな》″が一身同体に結ばれる日が、こんなに早くくるとは思わなかった。
昭和二十年(一九四五) 三月十三日。大安吉日。私の母・幸が「いま挙式しないと、こんな戦況の中では二度と挙式なんかできなくなる。私の選んだ日に、あなたの選んだ女 (ひと) と夫婦になれる式を行うということは、本当に幸福の道の出発にふさわしい」と、決めたのがこの日なのである。
《注1》女子艇身隊員= 戦時中の女子の勤労動員組織。12歳から40歳までの未婚女子は工場・農村などで勤労を 義務付けられた。
捕虜にも祝福されたわが新婚-防空壕で初夜過ごす・その1
私の多感な青春時代をふり返ってみると、学生時代はどちらかといえば硬派に近かった。とくに中学時代は勉強は並以上だったと思うが 〝不良″に近い人物だった。とくにまじめくさって勉強しなくてもそれなりの成績だったから、余計に暇をもてあそび不良印のようなかっこうをしていたのかも知れない。
人並みに初恋もし、美しい女性をみれば情熱がほとばしり、勉強をしない、成績もまずまずという自己主張を売りものにした、思い出多い青春を思い起こす。
わが愛する妻・尚子は、そんな時代に私の心に飛び込んできた女性である。旧制の私立羽衣学園では、ひときわ麗女で通り、頭もきれた、のんびりした女性である、といわれた。中学時代から知った仲だった。捕虜収容所へ勤務しはじめ、生活もやや安定したころから、急速につき合う日が多くなってきた。銃後《じゅうご=戦場でない後方の地》の守りのひと役に、女子艇身隊員《注1》として軍需工場に通う彼女のモンぺ《=はかまの形をした衣服。戦時中女性の基本的な服装》姿、若々しい表情には、戦雲急を告げる日々にも本当に新鮮さがあった。私の収容所勤務を元気づけてくれるように思えたものだ。旧制の男子中学《=男子中等学校》と高女《=高等女学校》。そうでなくても「男女七歳にして席を同じうせず」式のきびしい社会の風潮の中にあって、ずっと彼女と私が暖め合ってきた〝心の絆《きずな》″が一身同体に結ばれる日が、こんなに早くくるとは思わなかった。
昭和二十年(一九四五) 三月十三日。大安吉日。私の母・幸が「いま挙式しないと、こんな戦況の中では二度と挙式なんかできなくなる。私の選んだ日に、あなたの選んだ女 (ひと) と夫婦になれる式を行うということは、本当に幸福の道の出発にふさわしい」と、決めたのがこの日なのである。
《注1》女子艇身隊員= 戦時中の女子の勤労動員組織。12歳から40歳までの未婚女子は工場・農村などで勤労を 義務付けられた。
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第七章
捕虜にも祝福されたわが新婚-防空壕で初夜過ごす・その1
私の多感な青春時代をふり返ってみると、学生時代はどちらかといえば硬派に近かった。とくに中学時代は勉強は並以二だったと思うが 〝不良″に近い人物だった。とくにまじめくきって勉強しなくてもそれなりの成績だったから、余計に暇をもてあそび不良印のようなかっこうをしていたのかも知れない。
人並みに初恋もし、美しい女性をみれば情熱がほとばしり、勉強をしない、成績もまずまずという自己主張を売りものにした、思い出多い青春を思い起こす。
わが愛する妻・尚子は、そんな時代に私の心に飛び込んできた女性である。旧制の私立羽衣学園では、ひときわ 麗女で通り、頭もきれた、のんびりした女性である、といわれた。中学時代から知った仲だった。捕虜収容所へ勤務しはじめ、生活もやや安定したころから、急速につき合う日が多くなってきた。銃後《=戦地でない後方の地》の守りのひと役に、女子艇身隊員《注1》として軍需工場に通う彼女のモンぺ《=はかまの形をしたズボン。戦時中女性の基本的な服装》姿、若々しい表情には、戦雲急を告げる日々にも本当に新鮮さがあった。私の収容所勤務を元気づけてくれるように思えたものだ。旧制の男子中学《=中等学校》と高女《=高等女学校》。そうでなくても「男女七歳にして席を同じうせず」式のきびしい社会の風潮の中にあって、ずっと彼女と私が暖め合ってきた〝心の絆《きずな》″が一心同体に結ばれる日が、こんなに早くくるとは思わなかった。
昭和二十年(一九四五) 三月十三日。大安吉日。私の母・幸が「いま挙式しないと、こんな戦況の中では二度と挙式なんかできなくなる。私の選んだ日に、あなたの選んだ女 (ひと) と夫婦になれる式を行うということは、本当に幸福の道の出発にふさわしい」と、決めたのがこの日なのである。
注1 女子艇身隊員 戦時下の女子の勤労動員組織。12歳から40歳までの未婚の女性は居住地 の工場や農村に勤労奉仕として就労が義務付けられた。
捕虜にも祝福されたわが新婚-防空壕で初夜過ごす・その1
私の多感な青春時代をふり返ってみると、学生時代はどちらかといえば硬派に近かった。とくに中学時代は勉強は並以二だったと思うが 〝不良″に近い人物だった。とくにまじめくきって勉強しなくてもそれなりの成績だったから、余計に暇をもてあそび不良印のようなかっこうをしていたのかも知れない。
人並みに初恋もし、美しい女性をみれば情熱がほとばしり、勉強をしない、成績もまずまずという自己主張を売りものにした、思い出多い青春を思い起こす。
わが愛する妻・尚子は、そんな時代に私の心に飛び込んできた女性である。旧制の私立羽衣学園では、ひときわ 麗女で通り、頭もきれた、のんびりした女性である、といわれた。中学時代から知った仲だった。捕虜収容所へ勤務しはじめ、生活もやや安定したころから、急速につき合う日が多くなってきた。銃後《=戦地でない後方の地》の守りのひと役に、女子艇身隊員《注1》として軍需工場に通う彼女のモンぺ《=はかまの形をしたズボン。戦時中女性の基本的な服装》姿、若々しい表情には、戦雲急を告げる日々にも本当に新鮮さがあった。私の収容所勤務を元気づけてくれるように思えたものだ。旧制の男子中学《=中等学校》と高女《=高等女学校》。そうでなくても「男女七歳にして席を同じうせず」式のきびしい社会の風潮の中にあって、ずっと彼女と私が暖め合ってきた〝心の絆《きずな》″が一心同体に結ばれる日が、こんなに早くくるとは思わなかった。
昭和二十年(一九四五) 三月十三日。大安吉日。私の母・幸が「いま挙式しないと、こんな戦況の中では二度と挙式なんかできなくなる。私の選んだ日に、あなたの選んだ女 (ひと) と夫婦になれる式を行うということは、本当に幸福の道の出発にふさわしい」と、決めたのがこの日なのである。
注1 女子艇身隊員 戦時下の女子の勤労動員組織。12歳から40歳までの未婚の女性は居住地 の工場や農村に勤労奉仕として就労が義務付けられた。
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捕虜にも祝福されたわが新婚-防空壕で初夜過ごす・その2
前年の十九年三月早々、私には召集令状がきた。あわてた。いや心は〝悠久の大義″ に死地へ征(ゆ)く喜びがあった反面、妻にしようと心に決めた尚子のことが気がかりだったからである。一人の男子として、当時、国のために殉じることは当然だった。 しかし、しかしである。ずっと思いつづけ、やがて妻になるハズの彼女。心が騒いだ。いま考えると、当時、こんな状態のまま戦地に行き、永遠の別離を余儀なくされた方たちは数知れなかっただろう。事実、学友のほとんどは学徒出陣《=1943年、猶予廃止、学生・生徒も兵役に服した》で戦場で戦っていた。
当時、私は彼女に一筆したためた。
(以下、原文のまま、一部省略)
「遂に大命は下りました。現下の戦局、今更多言を要しません。入隊できるか否か疑問ですが、入隊できそうな気がします。本懐です。長い間、本当に永い月日でしたね。心の底から感謝し、如何なる難地にても忘れないことを誓います。美しく楽しい想い出を抱いて頑張ります。君も女子挺身隊員として今の働きを続けて下さい。そしてやがて近き将来には、よりよき軍国の妻、祖国の母となられんことをを切望してやみません。僕たち二人の愛情が今こそ祖国の名のもとに捧げられることを喜びます。幸せです。日本男子として、日本女子として自分たちの本分をまっしぐらに邁進《まいしん》しましょう。今更のようにあなたの存在に感謝します。永遠に若々しく、強く、たくましい日本女性であって下さい。では尚ちゃん、元気で征きます。
昭和十九年三月 二十二歳、一雄生
尚子殿
こうして出征したものの、予想されたように虚弱な体が原因で、その日のうちに入隊を拒否され、当時としては物悲しい、つらい思いで帰ってきた。いま思えばラッキーな運命だったといえよう。尚子と結婚もできたのだから、余計にそう思う。
それから一年。二十年の三月十三日の母が決めた大安吉日に挙式した。すべて配給制度で制限され、日に日に戦況が極度に悪化しっつあった時である。堺市内の私の実家に、親しい友人数人と、大学時代の恩師、親せきら十余人が集っての簡素なものだった。配給の酒をお神酒代りに、出張神主さんのお祓《はら》いを受けて三々九度。しかし、白無垢(しろむく)姿の彼女の気高いような美しさには感激だった。ささやかな挙式が、彼女の姿で豪華な〝日本"の挙式に思えたものだ。はずむ心、待ちつづけ合った二人だっただけに、感動のシーンだったように思う。
盃《さかずき》を交わす時に触れ合った彼女の手の暖かさは、この齢になったいまでも〝永遠の白無垢″の心のように胸の奥深くに焼きついて離れない。
前年の十九年三月早々、私には召集令状がきた。あわてた。いや心は〝悠久の大義″ に死地へ征(ゆ)く喜びがあった反面、妻にしようと心に決めた尚子のことが気がかりだったからである。一人の男子として、当時、国のために殉じることは当然だった。 しかし、しかしである。ずっと思いつづけ、やがて妻になるハズの彼女。心が騒いだ。いま考えると、当時、こんな状態のまま戦地に行き、永遠の別離を余儀なくされた方たちは数知れなかっただろう。事実、学友のほとんどは学徒出陣《=1943年、猶予廃止、学生・生徒も兵役に服した》で戦場で戦っていた。
当時、私は彼女に一筆したためた。
(以下、原文のまま、一部省略)
「遂に大命は下りました。現下の戦局、今更多言を要しません。入隊できるか否か疑問ですが、入隊できそうな気がします。本懐です。長い間、本当に永い月日でしたね。心の底から感謝し、如何なる難地にても忘れないことを誓います。美しく楽しい想い出を抱いて頑張ります。君も女子挺身隊員として今の働きを続けて下さい。そしてやがて近き将来には、よりよき軍国の妻、祖国の母となられんことをを切望してやみません。僕たち二人の愛情が今こそ祖国の名のもとに捧げられることを喜びます。幸せです。日本男子として、日本女子として自分たちの本分をまっしぐらに邁進《まいしん》しましょう。今更のようにあなたの存在に感謝します。永遠に若々しく、強く、たくましい日本女性であって下さい。では尚ちゃん、元気で征きます。
昭和十九年三月 二十二歳、一雄生
尚子殿
こうして出征したものの、予想されたように虚弱な体が原因で、その日のうちに入隊を拒否され、当時としては物悲しい、つらい思いで帰ってきた。いま思えばラッキーな運命だったといえよう。尚子と結婚もできたのだから、余計にそう思う。
それから一年。二十年の三月十三日の母が決めた大安吉日に挙式した。すべて配給制度で制限され、日に日に戦況が極度に悪化しっつあった時である。堺市内の私の実家に、親しい友人数人と、大学時代の恩師、親せきら十余人が集っての簡素なものだった。配給の酒をお神酒代りに、出張神主さんのお祓《はら》いを受けて三々九度。しかし、白無垢(しろむく)姿の彼女の気高いような美しさには感激だった。ささやかな挙式が、彼女の姿で豪華な〝日本"の挙式に思えたものだ。はずむ心、待ちつづけ合った二人だっただけに、感動のシーンだったように思う。
盃《さかずき》を交わす時に触れ合った彼女の手の暖かさは、この齢になったいまでも〝永遠の白無垢″の心のように胸の奥深くに焼きついて離れない。
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捕虜にも祝福されたわが新婚-防空壕で初夜過ごす・その3
ところが、式も終わり、祝福に参加してくれたお客らも帰り、やっと二人だけになれた、と思った途端の午後五時すぎだった。けたたましく長い音のサイレンが鳴った。警戒警報である。
敵機の襲来が予想されたのである。二人だけの時間も持てずに、私は国民服にゲートルを巻き、鉄かぶと姿、尚子はモンペ姿に防空頭巾《ぼうくうずきん=綿を入れたかぶりもの》という出立ちで、手をとり合って〝防空体制″の準備に入った。
やがて夜に入りかけたころだった。こんどは空襲警報のサイレンが鳴った。「そら来た。待避や」――二人は、こんどこそ手を握り合って隣組《となりぐみ=国民統制のために町内会の下に作られた組織》の共同防空壕《ぼうくうごう》に入り込んだ。
近所の人たちも相次いでやってきた。「おめでとうさん」という人びとの声を耳にしながら私ら二人は一番奥に体を寄せ合い、抱き合うようにして待避した。みんなのやさしい目が注がれていた。楽しい(?)ひとときだった(?)挙式後まもなく、こんな洗礼があるとは思わなかったが、それでも二人が抱き合って暖か味を確め合えたことで、晴れて夫婦になれた喜びをかみしめることができた。尚子も「そう思った」とは、ずっと後になっての告白である。恥じらいながらこういった彼女の表情をいまも忘れない。初めての夜の大阪大空襲の忘れ得ない日々の挙式。しかも“新婚初夜”は防空壕の中で。これも私らの運命だったのだろう。二日後の十五日は神戸大空襲。みじめな結婚のスタートだった。
三日間の結婚休暇を自宅で終わり(当時は新婚旅行どころではなかった)、三月十六日に収容所へ出勤した。初々しい新妻に見送られての出勤だった。いつものように捕虜たちのバラック棟に姿をみせると、みんな「ヒユー」「ヒユー」と口笛で私を迎えるではないか。そして「結婚おめでとう」といっせいに拍手の波。三日間、私がここに姿をみせなかったので、彼らが事務所に尋ねた結果、結婚休暇をとっていたことを知ったそうだ。厚かましい人間になっていたとはいえ、少々、顔を赤らめた。彼らはそんな私を囲んで「奥さんはどんな人?」「日本の結婚式はどんな方法なの」「彼女のキッスの味は?」と矢次ぎ早に詰問してくる。思いあまって「いや、すべて大満足。妻は本当によいもんだ。美人だぜ」とおのろけ半分にいってやった。
途端にある兵士は「本土にいる妻に会いたい。しかしやがてその日がきっとくるよ」と自分にいい聞かせるように小声でボソボソ。他の下士官は「私の未来の妻もコバヤシさんのワイフと同じょうに美人。戦争が終ったら式をあげ、こどもをつくって農場を経営することになっている」と、自分たちのことを逆に私にいう。捕虜のいまの心情がポロリと出るではないか。「これ以上、ここにいては可哀相だ」-私は急いで立ち去った。
それにしても、私の結婚式の日が「大阪大空襲」の日と重なり、防空壕での新婚夜、しかも近所の人たちみんなといっしょに…という皮肉。そして捕虜たちから祝福された反面、彼らを嫉妬 (しっと) させ、故郷を思い起こさせる予想せぬ結果になろうとは…。いまでも、あのころのことを思い出しては、妻、尚子と話し合うことがある。いま、当時を思い出しながら、尚子に感謝する毎日である。
そんな状態だったから、ハネムーン・ベイビーもなく、初夜が 〝アンタッチャブル″ のまま、尚子には本当にすまない気持ちがつきまとっているが、未だにこどもがいないのは何かの縁か、皮肉な運命のなせる業なのか。「アメリカに弁償させたい」とは当時、親友とよく冗談半分にいったことばだ。それにしても、現代っ子たちの挙式はあまりにも派手すぎる。戦時っ子のわれわれの場合は極端だったのだろうが、それにしても、もっともっといまの挙式のあり方を反省してほしいものだと、過去の体験を思い出しながら考えさせられた。
ところで、終戦後に報じられた新聞、ラジオのニュースで知ったのだが、あのみじめな新婚初夜の大阪大空襲を指揮したアメリカ空軍の指揮官はドゥリットル将軍。日本語流にもじって訳すと彼の名は〝ちょっぴり行う″ということになる。しかし被害者の私たち夫婦、いや大阪府民みんなにとっては、大きな被害を与えられたのだから 〝たくさん行う″ (DO・LOT=ドわれわれに与える行為をしたと、私の結婚話の笑いのタネになっている。
ところが、式も終わり、祝福に参加してくれたお客らも帰り、やっと二人だけになれた、と思った途端の午後五時すぎだった。けたたましく長い音のサイレンが鳴った。警戒警報である。
敵機の襲来が予想されたのである。二人だけの時間も持てずに、私は国民服にゲートルを巻き、鉄かぶと姿、尚子はモンペ姿に防空頭巾《ぼうくうずきん=綿を入れたかぶりもの》という出立ちで、手をとり合って〝防空体制″の準備に入った。
やがて夜に入りかけたころだった。こんどは空襲警報のサイレンが鳴った。「そら来た。待避や」――二人は、こんどこそ手を握り合って隣組《となりぐみ=国民統制のために町内会の下に作られた組織》の共同防空壕《ぼうくうごう》に入り込んだ。
近所の人たちも相次いでやってきた。「おめでとうさん」という人びとの声を耳にしながら私ら二人は一番奥に体を寄せ合い、抱き合うようにして待避した。みんなのやさしい目が注がれていた。楽しい(?)ひとときだった(?)挙式後まもなく、こんな洗礼があるとは思わなかったが、それでも二人が抱き合って暖か味を確め合えたことで、晴れて夫婦になれた喜びをかみしめることができた。尚子も「そう思った」とは、ずっと後になっての告白である。恥じらいながらこういった彼女の表情をいまも忘れない。初めての夜の大阪大空襲の忘れ得ない日々の挙式。しかも“新婚初夜”は防空壕の中で。これも私らの運命だったのだろう。二日後の十五日は神戸大空襲。みじめな結婚のスタートだった。
三日間の結婚休暇を自宅で終わり(当時は新婚旅行どころではなかった)、三月十六日に収容所へ出勤した。初々しい新妻に見送られての出勤だった。いつものように捕虜たちのバラック棟に姿をみせると、みんな「ヒユー」「ヒユー」と口笛で私を迎えるではないか。そして「結婚おめでとう」といっせいに拍手の波。三日間、私がここに姿をみせなかったので、彼らが事務所に尋ねた結果、結婚休暇をとっていたことを知ったそうだ。厚かましい人間になっていたとはいえ、少々、顔を赤らめた。彼らはそんな私を囲んで「奥さんはどんな人?」「日本の結婚式はどんな方法なの」「彼女のキッスの味は?」と矢次ぎ早に詰問してくる。思いあまって「いや、すべて大満足。妻は本当によいもんだ。美人だぜ」とおのろけ半分にいってやった。
途端にある兵士は「本土にいる妻に会いたい。しかしやがてその日がきっとくるよ」と自分にいい聞かせるように小声でボソボソ。他の下士官は「私の未来の妻もコバヤシさんのワイフと同じょうに美人。戦争が終ったら式をあげ、こどもをつくって農場を経営することになっている」と、自分たちのことを逆に私にいう。捕虜のいまの心情がポロリと出るではないか。「これ以上、ここにいては可哀相だ」-私は急いで立ち去った。
それにしても、私の結婚式の日が「大阪大空襲」の日と重なり、防空壕での新婚夜、しかも近所の人たちみんなといっしょに…という皮肉。そして捕虜たちから祝福された反面、彼らを嫉妬 (しっと) させ、故郷を思い起こさせる予想せぬ結果になろうとは…。いまでも、あのころのことを思い出しては、妻、尚子と話し合うことがある。いま、当時を思い出しながら、尚子に感謝する毎日である。
そんな状態だったから、ハネムーン・ベイビーもなく、初夜が 〝アンタッチャブル″ のまま、尚子には本当にすまない気持ちがつきまとっているが、未だにこどもがいないのは何かの縁か、皮肉な運命のなせる業なのか。「アメリカに弁償させたい」とは当時、親友とよく冗談半分にいったことばだ。それにしても、現代っ子たちの挙式はあまりにも派手すぎる。戦時っ子のわれわれの場合は極端だったのだろうが、それにしても、もっともっといまの挙式のあり方を反省してほしいものだと、過去の体験を思い出しながら考えさせられた。
ところで、終戦後に報じられた新聞、ラジオのニュースで知ったのだが、あのみじめな新婚初夜の大阪大空襲を指揮したアメリカ空軍の指揮官はドゥリットル将軍。日本語流にもじって訳すと彼の名は〝ちょっぴり行う″ということになる。しかし被害者の私たち夫婦、いや大阪府民みんなにとっては、大きな被害を与えられたのだから 〝たくさん行う″ (DO・LOT=ドわれわれに与える行為をしたと、私の結婚話の笑いのタネになっている。
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第八章
捕虜軍団の大移動 -激戦の波に押されて疎開地へ・その1
終戦の年、二十年(一九四五)三月の大阪大空襲を境に戟局は、誰の目にも"敗色"濃いものに映ってきた。日本の各地にアメリカ空軍の偵察機や爆撃機が堂々と飛来するのを、国民は自分たちの眼で確かめている。だから、軍部がどんなに隠蔽《いんぺい》しても、一歩一歩、後退を余儀なくさせられ、危機が迫りつつあることは、明らかだった。捕虜たちも、このことは十分、察知し、以前にもまして明るい表情をしているように見えたのは、周囲の状況がそう思わせたのだろうか。
その三月二十五日だった。突然、司令部から〝捕虜の移動"命令が出た。「阪神間の地域は軍事施設が多いので、敵軍機の襲撃目標になっている。捕虜の生命に万一のことがあっては日本自体が国際的に問題となる。しかも、軍需工場が日増しにピッチの早い生産、修理作業をつづけるいま、その実情を彼らに察知されないとも限らず、国防上の問題もある」というのが、移動の理由だった。そのうえ本土決戦にでもなれば紀伊半島沿岸が敵国の日本上陸地の一つになっているかも知れないと当時、一部でひそかにいわれていただけに、そんな場所の近くに捕虜を収容していては、いざというとき日本軍には不利と考えられたからでもあろう。
命令はただちに実行された。その日のうちに〝捕虜大移動″が始まった。といっても全員が同じ場所に移るのではない。大半は敦賀、武生の収容所へ分散、隔離されて行った。私は残り五十人のアメリカ将兵とともに、南海電車と国鉄(現JR)を乗り継いで兵庫県中部の山間にある朝来郡生野町へ移った。三菱鉱業の生野、明延両鉱業所で鉱業物発掘の作業をさせるためである。国策の鉱山とはいえ、山間僻地《へきちーかたいなか》のここは、人家もまばら、敵軍機の襲来など、ありえないと判断された場所だったのである。しかも鉱産物の発掘という、当時、軍需品生産と戦線支援に欠かすことのできない〝モノ″だけに、その作業は猫の手も借りたいほど、緊急を要していた。捕虜たちは、その要員として最適だったのである。それにしても戦火の最中、皮膚の色、眼の色の違う敵の捕虜集団が移送される姿を見た日本人は、どんな印象をもったのだろうか?
この生野捕虜収容所には先着の捕虜のほか、他の収容所からやってきた捕虜などアメリカ、イギリス、オーストラリアの各将兵がいっしょだったが、私には多奈川以来の顔なじみの〝アメリカ兵捕虜″が多数いたのが、職業柄、何よりも心強かった。多奈川分所時代庶務総括の峰本善成・軍曹らも、ひと足先に来ており、環境の違った場所に来た気分はしなかった。敵機が本土の都市部を中心に爆撃を繰り返す戦況の中でも、ここだけは最適の疎開地だった。
捕虜軍団の大移動 -激戦の波に押されて疎開地へ・その1
終戦の年、二十年(一九四五)三月の大阪大空襲を境に戟局は、誰の目にも"敗色"濃いものに映ってきた。日本の各地にアメリカ空軍の偵察機や爆撃機が堂々と飛来するのを、国民は自分たちの眼で確かめている。だから、軍部がどんなに隠蔽《いんぺい》しても、一歩一歩、後退を余儀なくさせられ、危機が迫りつつあることは、明らかだった。捕虜たちも、このことは十分、察知し、以前にもまして明るい表情をしているように見えたのは、周囲の状況がそう思わせたのだろうか。
その三月二十五日だった。突然、司令部から〝捕虜の移動"命令が出た。「阪神間の地域は軍事施設が多いので、敵軍機の襲撃目標になっている。捕虜の生命に万一のことがあっては日本自体が国際的に問題となる。しかも、軍需工場が日増しにピッチの早い生産、修理作業をつづけるいま、その実情を彼らに察知されないとも限らず、国防上の問題もある」というのが、移動の理由だった。そのうえ本土決戦にでもなれば紀伊半島沿岸が敵国の日本上陸地の一つになっているかも知れないと当時、一部でひそかにいわれていただけに、そんな場所の近くに捕虜を収容していては、いざというとき日本軍には不利と考えられたからでもあろう。
命令はただちに実行された。その日のうちに〝捕虜大移動″が始まった。といっても全員が同じ場所に移るのではない。大半は敦賀、武生の収容所へ分散、隔離されて行った。私は残り五十人のアメリカ将兵とともに、南海電車と国鉄(現JR)を乗り継いで兵庫県中部の山間にある朝来郡生野町へ移った。三菱鉱業の生野、明延両鉱業所で鉱業物発掘の作業をさせるためである。国策の鉱山とはいえ、山間僻地《へきちーかたいなか》のここは、人家もまばら、敵軍機の襲来など、ありえないと判断された場所だったのである。しかも鉱産物の発掘という、当時、軍需品生産と戦線支援に欠かすことのできない〝モノ″だけに、その作業は猫の手も借りたいほど、緊急を要していた。捕虜たちは、その要員として最適だったのである。それにしても戦火の最中、皮膚の色、眼の色の違う敵の捕虜集団が移送される姿を見た日本人は、どんな印象をもったのだろうか?
この生野捕虜収容所には先着の捕虜のほか、他の収容所からやってきた捕虜などアメリカ、イギリス、オーストラリアの各将兵がいっしょだったが、私には多奈川以来の顔なじみの〝アメリカ兵捕虜″が多数いたのが、職業柄、何よりも心強かった。多奈川分所時代庶務総括の峰本善成・軍曹らも、ひと足先に来ており、環境の違った場所に来た気分はしなかった。敵機が本土の都市部を中心に爆撃を繰り返す戦況の中でも、ここだけは最適の疎開地だった。