捕虜と通訳 (小林 一雄) (30)
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編集者
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第八章
捕虜軍団の大移動 -激戦の波に押されて疎開地へ・その1
終戦の年、二十年(一九四五)三月の大阪大空襲を境に戟局は、誰の目にも"敗色"濃いものに映ってきた。日本の各地にアメリカ空軍の偵察機や爆撃機が堂々と飛来するのを、国民は自分たちの眼で確かめている。だから、軍部がどんなに隠蔽《いんぺい》しても、一歩一歩、後退を余儀なくさせられ、危機が迫りつつあることは、明らかだった。捕虜たちも、このことは十分、察知し、以前にもまして明るい表情をしているように見えたのは、周囲の状況がそう思わせたのだろうか。
その三月二十五日だった。突然、司令部から〝捕虜の移動"命令が出た。「阪神間の地域は軍事施設が多いので、敵軍機の襲撃目標になっている。捕虜の生命に万一のことがあっては日本自体が国際的に問題となる。しかも、軍需工場が日増しにピッチの早い生産、修理作業をつづけるいま、その実情を彼らに察知されないとも限らず、国防上の問題もある」というのが、移動の理由だった。そのうえ本土決戦にでもなれば紀伊半島沿岸が敵国の日本上陸地の一つになっているかも知れないと当時、一部でひそかにいわれていただけに、そんな場所の近くに捕虜を収容していては、いざというとき日本軍には不利と考えられたからでもあろう。
命令はただちに実行された。その日のうちに〝捕虜大移動″が始まった。といっても全員が同じ場所に移るのではない。大半は敦賀、武生の収容所へ分散、隔離されて行った。私は残り五十人のアメリカ将兵とともに、南海電車と国鉄(現JR)を乗り継いで兵庫県中部の山間にある朝来郡生野町へ移った。三菱鉱業の生野、明延両鉱業所で鉱業物発掘の作業をさせるためである。国策の鉱山とはいえ、山間僻地《へきちーかたいなか》のここは、人家もまばら、敵軍機の襲来など、ありえないと判断された場所だったのである。しかも鉱産物の発掘という、当時、軍需品生産と戦線支援に欠かすことのできない〝モノ″だけに、その作業は猫の手も借りたいほど、緊急を要していた。捕虜たちは、その要員として最適だったのである。それにしても戦火の最中、皮膚の色、眼の色の違う敵の捕虜集団が移送される姿を見た日本人は、どんな印象をもったのだろうか?
この生野捕虜収容所には先着の捕虜のほか、他の収容所からやってきた捕虜などアメリカ、イギリス、オーストラリアの各将兵がいっしょだったが、私には多奈川以来の顔なじみの〝アメリカ兵捕虜″が多数いたのが、職業柄、何よりも心強かった。多奈川分所時代庶務総括の峰本善成・軍曹らも、ひと足先に来ており、環境の違った場所に来た気分はしなかった。敵機が本土の都市部を中心に爆撃を繰り返す戦況の中でも、ここだけは最適の疎開地だった。
捕虜軍団の大移動 -激戦の波に押されて疎開地へ・その1
終戦の年、二十年(一九四五)三月の大阪大空襲を境に戟局は、誰の目にも"敗色"濃いものに映ってきた。日本の各地にアメリカ空軍の偵察機や爆撃機が堂々と飛来するのを、国民は自分たちの眼で確かめている。だから、軍部がどんなに隠蔽《いんぺい》しても、一歩一歩、後退を余儀なくさせられ、危機が迫りつつあることは、明らかだった。捕虜たちも、このことは十分、察知し、以前にもまして明るい表情をしているように見えたのは、周囲の状況がそう思わせたのだろうか。
その三月二十五日だった。突然、司令部から〝捕虜の移動"命令が出た。「阪神間の地域は軍事施設が多いので、敵軍機の襲撃目標になっている。捕虜の生命に万一のことがあっては日本自体が国際的に問題となる。しかも、軍需工場が日増しにピッチの早い生産、修理作業をつづけるいま、その実情を彼らに察知されないとも限らず、国防上の問題もある」というのが、移動の理由だった。そのうえ本土決戦にでもなれば紀伊半島沿岸が敵国の日本上陸地の一つになっているかも知れないと当時、一部でひそかにいわれていただけに、そんな場所の近くに捕虜を収容していては、いざというとき日本軍には不利と考えられたからでもあろう。
命令はただちに実行された。その日のうちに〝捕虜大移動″が始まった。といっても全員が同じ場所に移るのではない。大半は敦賀、武生の収容所へ分散、隔離されて行った。私は残り五十人のアメリカ将兵とともに、南海電車と国鉄(現JR)を乗り継いで兵庫県中部の山間にある朝来郡生野町へ移った。三菱鉱業の生野、明延両鉱業所で鉱業物発掘の作業をさせるためである。国策の鉱山とはいえ、山間僻地《へきちーかたいなか》のここは、人家もまばら、敵軍機の襲来など、ありえないと判断された場所だったのである。しかも鉱産物の発掘という、当時、軍需品生産と戦線支援に欠かすことのできない〝モノ″だけに、その作業は猫の手も借りたいほど、緊急を要していた。捕虜たちは、その要員として最適だったのである。それにしても戦火の最中、皮膚の色、眼の色の違う敵の捕虜集団が移送される姿を見た日本人は、どんな印象をもったのだろうか?
この生野捕虜収容所には先着の捕虜のほか、他の収容所からやってきた捕虜などアメリカ、イギリス、オーストラリアの各将兵がいっしょだったが、私には多奈川以来の顔なじみの〝アメリカ兵捕虜″が多数いたのが、職業柄、何よりも心強かった。多奈川分所時代庶務総括の峰本善成・軍曹らも、ひと足先に来ており、環境の違った場所に来た気分はしなかった。敵機が本土の都市部を中心に爆撃を繰り返す戦況の中でも、ここだけは最適の疎開地だった。