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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/25 8:11
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 武器探しそして略奪・2

 二五日の朝、それまで流れていた日本語の平壌放送が消えていた。新聞はすでにとどかなかった。ラジオが途絶えてから日本からのニュースはまったく途絶えてしまった。
 そして、二五日の昼過ぎに和雄が、ルックサックを背負いヌーとわが家に現れた。「和雄。和雄よく帰ってきたね。そのまま内地に帰ってしまうかと思っていた」とハナは喜んだ。晋司が酒びたりになる中で、和雄の帰宅はハナにとって代えがたい喜びだった。
 三八度線が南北に閉鎖になる寸前だった。和雄は鎮海から三八度上の開城まできたが、開城と平壌の鉄道は切断直前だった。開城から平壌までは貨車が二両だけついた最後の貨物列車に乗れたが、平壌から汽車が出ないで、歩いて帰ってきた。
 同時に、和雄の話では、京城でも平壌でも神社が焼き討ちあい日本人や日本に協力していた朝鮮人に朝鮮人が仕返しをしていて、朝鮮中が大混乱している状況が報告された。
 家の庭には兄さんたちによって大きな穴が掘られた。そして、そこには仏壇の位牌や神棚のものとか、書類やら雑誌やらが放り込まれて連日にように燃やされていた。とくに写真は一枚のこらず燃やされた。晋司の写真はすべて軍服姿だった。
 「軍人は一番目につけられる」と匪賊退治をしたあの恐ろしい満州での軍隊のアルバムもふくめて、由美や洋武の一人で写った写真も燃やされていった。そしてこの穴に放り込まれ迫撃砲弾《はくげきほうだん=注1》の形をした花瓶や手榴弾《注2》の形をした灰皿ケースが、その後晋司が保安隊に連行される原因となった。
 ハナは花好きだった。春にはレンギョウ、桜や杏の花もハナは大事にしていた。庭にはビールの空き瓶を逆さに植えて花壇を作っていた。春から夏まで庭に花が絶えないように花壇はいつもにぎやかだった。夏の庭には松葉牡丹が一杯咲いていた。そして、庭の生垣にはむくげが咲いていた。息子達が無造作に穴を掘る時、「あっ、そこは松葉牡丹、むくげが可哀想」など注意をするので息子達はいらいらしていた。とくに生垣のむくげは 「桜や杏など春の花とちがって、夏の花は咲いても咲いてもまた咲いて粘り強い花で。春の花もよいが、夏の花もすきよ」と日ごろからいっていた。もちろん、むくげが朝鮮の国の花であることなど知らなかった。そうした花壇が無残に掘り返されていた。
 そのころ 各種の官舎から日本人は追い出されつつあった。順安にあった朝鮮人のための女学校の校長先生一家が官舎を追い出されたのでわが家に移ってきた。紺野さんといった。紺野校長先生の家庭に座敷が提供された。便所が一つしかない家だったので、中の間が廊下のようになり使えず、わが家族もオンドル一間に押しこまれる形になって急に狭い感じになった。校長先生の家庭は娘さんが二人の四人家族だった。娘さんはもう成人していて嫁入りのための準備がされているらしく荷物も多かった。ハナは 「可哀想に。嫁入り道具が台無しになっているらしい。戦争には負けるものでないね」 と話していた。
 林家は両親と姉と私の四人家族だったが、和雄、典雄が帰ってきて六人家族になり、その上、校長家族が四人も増えて急ににぎやかになった。晋司は校長家族のために、座敷の庭先にかまどを築き炊事場を作った。ハナは「いつまでこうした状態が続くのでしょうね」と心配した。しかし、二週間後事態はいっそう悪くなった。
 九月中旬、日本人全員が一箇所に収容されることになった。
 順安の駅前にあった以前の砂金会社のクラブと社宅、そして終戦のときには栗本鐵工所の社宅と施設になっていたところに順安の日本人は全員収容されることになった。
 一人あたり衣類を三枚と布団だけなど荷物の制限を受けて、「その上日本にかえるまでの間だから」 ということで荷物の制限はきびしかった。
 ハナは冬物を用意した。「すぐ内地に帰えるんだから」 という理由でこれには男たちはあまり積極的でなかった。しかし、ハナは 「もしも帰れなかったらどうするの。零下二十度の冬をこすのよ」といって冬物ばかり用意した。結果的にはハナの判断が正しかった。それから一年の間、収容所生活を余儀なくされた。衣類、布団、鍋、お釜それに七輪など生きていくのに最低のものだけ許された。学校の教科書も書籍もいっさい持ちだすことはできなかった。

注1:少人数で運用でき操作も比較的簡便な為 砲兵でなく歩兵直属の火力支援部隊に配属される事が一般的で 最前線の戦闘部隊にとって数少ない間接照準による直協支援火気の一つである 弾
注2:武器の一つで主に手で投げて使う小型爆弾
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/26 8:06
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 マダムダワイ・1

 「一畳二名のわりだ」。いままで比較的大きな家に住んでいた日本人はぎゆうぎゆうづめに押し込められた。栗本鐵工所のクラブとその周辺にある社宅に全員がとじこめられた。そして、銃剣をつけた保安隊の人達がまわりをぐるぐる巡回していた。「外出禁止」 になった。
 順安にいた日本人は従来から農業経営や請負師とよばれていた土建業者。それに規模を縮小した砂金会社の社員。砂金会社の施設を買い取って大阪から疎開してきた栗本鐵工所の社員。それに満州から避難してきた避難民の三種からなっていた。満州から緊急に避難してきた避難民は順安面だけで千名に近かった。日本人国民学校だけでなく普通学校にも避難していた。終戦になって大部分はもう一度満州に帰っていったが、満州に帰っても家もない帰るあてのない人達百名ぐらいがそのまま順安に残った。満州に帰った人達はその後どうなったのか知らない。平原郡の順安以外の地に分散していた普通学校の先生の家族など数家族も合流した。
 日本人世話人会が組織され、砂金会社の順安の所長さんだった大村勇一さんが日本人会の会長に就任した。
 収容所の部屋割りはたいへんだった。クラブのまわりにあった栗本鐵工所の社宅には栗本鉄工所の職員の人達ともともと順安にいた人達が入居した。そして満州から引き揚げてきた人たちと栗本鐵工所の職工組がクラブにはいった。一畳二人の割だったからそれまで一家で使っていた社宅に平均して四家族二十人は入ることになった。
 林家はもともと順安にいた人達と六畳二間四畳半一間台所に風呂場の社宅一戸に四家族二〇名で入ることになった。それまで比較的付き合いのよかった羽村さんの家庭が五名、粟野さんの家庭が四名、小森さんの家庭が五名それに林家が六名だった。しかも林家を除いて子どもはいない大人ばかりだった。気が合う同士という配慮ではあったが、しかし、生活を一緒にはじめると食事の問題をはじめ最初からいさかいはたえなかった。
 にわかづくりの日本人収容所は順安駅の前にあった。京義線を南行してきて平壌に入りきれないソ連兵を満載した貨物列車が、順安駅に一晩中泊まることが多くなった。時には機関士がいらいらして激しく汽笛を鳴らしたりした。ソ連兵はそうした列車の中から自動小銃で武装したまま日本人収容所に押しかけてきた。かれらは「マダムダワイ」といってある時は朝鮮人の通訳をつれて、時には自分たちだけでやってきた。かれらが押しかけてくると日本人会から 「警戒警報が出された。家やクラブなど収容所のすべての電気が消されて、何人かの男達がでていって、時計など渡して押し返していた。朝鮮人の女性が襲われたというニュースも入ってきた。十五才以上から四五才ぐらいの女性はみな頭を坊主にして、ズボンをはき、男・女の区別がわからないよぅにした。その上、色の白い女性たちは、顔にかまどの墨を塗ることになった。
 ソ連兵がとんでもない野蛮な連中だということは終戦後すぐ日本人の間に伝わった。略奪した時計を腕に五つも六つもつけているとか、しかもねじの巻き方も知らないので時計が止まるとそのまま捨ててしまうなど近代文明などとは無縁な連中だった。服装も軍服は着ていたがどれも粗末なものだった。靴の裏側はボール紙で、なかには歩くとばたばたとはがれていた。しかも、ソ連兵のほとんどが頭を坊主頭だった。記録によるとドイツとの戦争で多くの兵士が死傷して、満州や朝鮮に入ってきたソ連兵の三十%が監獄から連れ出された兵士だったという。しかも、実弾をつめたマンドリン型の自動小銃をかかえあたりかまわずぶっ放していた。止めに入る男たちも命がけだった。
 戦勝国ソ連も長いたたかいにつかれきっていた。身なりも軍律も乱れきっていた。しかし、ソ連がほんとうに人間を大事にする国であったら中国共産党の八路軍(パーロ)のように規律は保たれたはずであった。
 私たちの社宅にもソ連兵が押し入ってきた。朝鮮人の通訳をつれて「マダムダワイ」「マダムダワイ」というのだけはわかった。羽村さんのところにも粟野さんのところにも若い娘さんがいた。ソ連兵はあの自動小銭をかかえて土足で家に入ってきた。電気が消された。「停電だ。だから帰れ」と晋司が叫んだがそんなことが通用する連中ではなかった。小さな社宅にソ連兵二人と通訳がどかどかと入り、マッチをすって明かりをつけて、布団をはがすやら押入れをひっくり返すやらはじめた。
 女性たちは風呂場に逃げた。マッチが少なくなっていたらしい。一本のマッチを最初台所を照らしその残り火で風呂場を照らした。風呂場に光を向けた時マッチは消えた。女性たちはそれで命拾いをした。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/27 7:25
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 マダムダワイ・2

 あわただしい雰囲気の中、わが家だけ急にクラブの方に移ることになった。四家族一緒の生活のなかで父の酒乱が他の家族からきびしく問題になり、林家はクラブの広間に移されることになった。林家はクラブの舞台のスペースが与えられた。社宅は追い出されたが順安の名士としての配慮もあったのだろう。舞台の上に回された。
 クラブに移るときは、晋司は可愛そうなぐらいハナや子供達に「もう酒もタバコもやめる」と謝っていた。子ども達への鉄拳制裁はまったくなくなっていた。しかし、クラブに移ってからも、時々どこからか酒を手に入れてきてはこっそり飲んでいた。匂いがたちこめるとまわりの人達の羨望と激しい非難の目が集中したが、それでも晋司は酒を止められなかった。
 クラブは日本人国民学校の学芸会が開かれていた場所だった。だから順安の日本人達はみなよく知っていた。小学校の講堂ぐらいの大きさで半分は畳があり、半分は板の間の百畳ほどの広さだった。そこは柔道の練習も剣道の練習もできる構造になっていた。板の間に満州からの避難民が、畳のところに従来から順安にいた人達が入っていた。この講堂には舞台がついていた。舞台の上に従来の日本人社会の代表格だった林家と満州からの避難民の代表格だった新京で国民学校の校長先生だった河村さん一家が入っていた。さらにおばあちゃんと乳飲み子のいる若いお嫁さんのいる日野さん一家が占めていた。
 クラブには内地からお客がきたときにとめる座敷の個室が別に三部屋ほどついていた。順ちゃんたち一家はその部屋の一番奥の六畳の間にはいっていた。順ちゃんのお父さんは結核が再発して寝ていることが多かった。家族だけで一部屋に入れるのは一番の贅沢だった。
 ハナは「順ちゃんと遊んでもいいけど、菊村さんの部屋に行ってはいけないよ」それからいいにくそうに「結核がうつるといけないから」。そうつけ足した。
 わが家と舞台を分けていた河村さんの一家は五〇歳過ぎだった校長先生夫妻と、おばあちゃんと二〇歳前後の姉妹だった。姉妹はみんながそうしたようにソ連兵の女性狩にそなえて頭を坊主にして、色の白いきれいな姉妹だった。お姉さんは京都の女子大の学生だった。夏休みに危険をおかして満州に帰ったときにソ連の参戦、そして順安に避難してきていた。妹は高等女学校をでてお父さんの学校で先生になったばかりだった。晋司はこの姉妹が気に入っていた。 酒を飲むとときどき領分を侵して河村家のところまででかけて「俺の息子は京都帝大の電気科に行っている。日本に帰ったら、この息子の嫁になってほしい」などいうものだから和雄があわててつれにいったりした。
 林家がクラブに移るころから、ソ連兵の襲撃はいっそう激しくなった。ソ連兵の襲撃があると、電気が消された。真っ暗な中、クラブには、玄関があり廊下があったからそこでソ連兵を出迎え玄関口で、男達が腕時計やらチョットした宝石やらを渡して帰ってもらっていた。ある日、突如として廊下に二人ほどの突っ立っていたソ連兵を発見した。もうすべてが手遅れだった。赤ちゃんが急に泣き出した。母親がその子を引き寄せようとしたとき、それがソ連兵らには女性とわかったのだろう、いきなりその親子に向けて自動小銃が発射された。親子はそこにいた日本人数十人の前であっという間に殺されてしまった。赤ちゃんの足がピクピクと動いてとまった。満州からの避難民の若いお母さんと赤ちゃんだった。そのとき日本人のなかから怒りと悲鳴がワーツと広がった。若いまだ子供のような鼻が空を向いていたソ連兵は、その声におされたように逃げるように去っていった。脱力感と屈辱感ががみんなの心を支配していた。
 朝鮮や満州からの避難記録の中で「ソ連兵は赤ちゃんの泣き声がきらいだからソ連兵が近づいたらお尻のつねって赤ちゃんを泣かした」とか「ソ連兵はギリシャ正教が多く彼らは赤ちゃんをつれた母親を襲わなかった」などいう記録があった。ソ連兵が赤ちゃんの泣き声に異常に反応することは朝鮮人からすでに言い伝えられていた。しかし、ここでは全く逆に反応した。身に寸鉄もおびていない赤ちゃんまで殺してしまうその残虐性と野蛮さに日本人のおびえは大きく広がっていった。
 満州から避難してきた女性達には青酸カリが配られていて、もしもソ連兵などに侵されたら、それをすぐ飲んで自殺して大和なでしこの操を守りなさい。といわれていることが噂みたいに流れていた。
 洋武が長じて日本共産党の一員になったことを知ったハナは「あのときの露助を忘れたのか」といって詰め寄った。洋武は「戦争が悪いのだ。戦争さえしなければあんなことは起こらなかった」とこたえるのがやっとだった。しかし、洋武もソ連を好きにはなれなかった。当時の日本共産党には、まだソ連のことを「ソ同盟」という人が多かったが、「ソ連は嫌いだ」といって党内で騒動になったことがあった。ハナは晩年になって日本共産党に理解を示し支持するようになったが、ソ連兵やソ連のことを「露助」と呼ぶことをやめなかった。
 「露助」とは日露戦争以来のロシヤ人への蔑称だった。戦争は庶民の憎しみをいつまでも残した。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/28 7:50
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 マダムダワイ・3

 話は一気に進む。洋武が日本に帰り高等学校に進学することになった。兄典雄は東京の自動車会社の旋盤工になって旧専門学校の物理学校からから新制大学の東京理科大学の夜学に通っていた。洋武は蒲田にあった典雄の下宿に転がり込んで高等学校に進んだ。
 「公立高校だからお金はあまりかからないようだ。もっと難しい学校もあるようだが田舎からいきなり入る学校だからこの程度がよいのでは」。典雄は洋武を高等学校に進めるためにすべての手立てを講じてくれた。洋武の進学した高校は都立小山台高校といった。公立ではあったが東京でも金持ちが行く学校だった。かなり後になって大金持ちになることを「田園調布に家が立つ」というギャグがはやったが、小山台高校はその田園調布の子女が通う学校だった。それだけに引揚者であった洋武のみすぼらしさは格別だった。学生服は木綿。学生帽は姉の手製だった。それでも家族みんなの力で高校に進学できたことを、洋武は感謝しながら高校に通った。通常洋武は遅刻することはめったになかった。昭和二七年(一九五二年)の初冬、武蔵小山の駅を降りたところ五分ほど遅刻をしていることに気づいた。高校は駅から裏門をとおり校庭を横切って校舎に入ったが、時間を過ぎるとその裏門は閉じられることになっていた。生徒たちは「遅刻門」とか「地獄門」とか言っていた。遅刻門が閉じられると、校庭の周りにめぐらせてあるコンクリートの塀にそってぐるりと回り正門から入らねばならなかった。その塀にはさまざまな広告が張り出され時々生徒たちで大掃除することになっていた。
 その塀にはその朝はりだされた「伝単」と呼ばれていたポスターがあった。
 「朝鮮の同胞を見殺しにするな!再軍備反対-・MSA協定反対-・全都高校生集会」。MSA協定というのは日米相互防衛条約のことをさし、当時の左派社会党や共産党は絶対反対を主張し政治の大きな対決点であった。「朝鮮の同胞」というところに赤い丸印が書いてあった。洋武はそのあまりきれいでないポスターに魅せられ足を止めた。電話番号をまず頭に叩き込んだ。塀の角を回ると二人の体育の先生と職員がその種のポスターだけをたわしでこすってはいでいた。「そこの生徒急ぎなさい」 と注意をされた。
 授業は数学だった。英語や国語は苦手だったが、数学だけは得意だった。若い先生の気合の入った授業も好きだった。授業は始まっていた。洋武の席は悪いことに一番前だった。そっと席に着いたが授業には集中できなかった。授業より塀のポスターの方が気になった。
 朝鮮戦争がはじまって新聞報道写真の戦乱にとまどう白い朝鮮服のオマニや子どもたちの姿に 「ざまみろ」 という気分がなかったわけではなかった。自分が朝鮮で受けたさまざまな苦難の仕返しをしている気分もあった。しかし、米軍と韓国軍が三十八度線を北に大きく押し返し、平壌が戦場になりあの順安のあった平原郡に米空挺部隊 (落下傘部隊) が降下したというニュースに接してから、洋武は朝鮮戦争の動向に無関心ではいられなかった。
 「あの順安が戦場になっている。朝鮮の人たちはどうしているのだろうか。椙山君たちは無事だろうか」。新聞を見るたびに朝鮮戦争の動向に敏感になっていた。新聞写真に載る、戦禍に逃げ惑う白い服を着たアポジやオマ二の姿に強い関心を持つようになっていた。ちょうどその頃、戦争は三十八度線上で膠着状態になり、鉄原 (三十八度線上の地名) を中心とする 「鉄の三角地帯」で激しい戦闘がくりかえされ北も南も大きな犠牲を払っていることが伝えられていた。視察にいったアメリカの国会議員団が 「われわれに見せるために悲惨な戦争を演出している」 という非難の談話が問題になっていた。

 その頃、蒲田の駅から羽田空港まで新しい家が建ち始めていたが、まだ焼け野原だった。駅前には、露天がずらりとならび露天街はなかなかにぎやかだった。朝鮮戦争が始まると焼け跡の屑鉄が高い値段をよび、屑鉄商が買い集めていった。洋武も月三百円の授業料の一部をだそうと日曜日には屑鉄を拾い集めては屑鉄商に売って小遣いを稼いでいた。朝鮮戦争特需が日本経済を立て直したといわれていたが、末端まで浸透をし始めていた。
 当時の高校生の話題の中心は「なぜ戦争が起きるのか。どうすれば戦争をなくすことができるのか」だった。洋武は、お金がなかったので学校のすぐ近くにある武蔵小山の映画街に立ち寄ることはなかったが、チャップリンの映画を見てきた友人たちが熱心に「一人を殺せば殺人罪になるのに、何万人という人が殺し合う戦争は、なぜ殺人罪が適用にならないのか」という話題を提供してみんなで論議をしていた。
 ちょうど、総選挙があった。総選挙は日本の再軍備と朝鮮戦争が大きな争点だった。高校生たちも選挙への関心は高かった。武蔵小山駅前には衆議院の候補者達が代わるがわる演説をしていった。学校のなかでもどこからともなく「今日の昼休みには加藤勘十と松岡駒吉がくるらしい」など情報がはいった。加藤は左派社会党で、松岡は右派社会党の幹部で学校のある選挙区から立候補していた。
 昼休みに学生たちはその演説を聞きにいった。加藤勘十が「青年よ再び武器を取ってはならない」という演説をすると拍手が起こった。そこに、松岡駒吉がやってきた。加藤勘十は「松岡君もう少しまってくれ」といってまた演説を続けた。この選挙で二人とも当選した。選挙が終っても、しばしばこの政治問題が生徒たちの話題になっていた。
 洋武は「自分にも戦争をやめさせるためになにか出来ることがあるのではないか」と考える少年になっていた。
 突如、教室が大きな笑い声に包まれ隣の友達がいやというほど激しく突っついた。洋武は立ちあがったが何のことかわからなかった。「今日の林はおかしい。次ぎ」先生も笑いながらとばした。先生になにか当てられたらしい。授業がおわると友人達が冷やかしにきた。「先生は『林は遅刻はするし、指しても返事がないし、初恋の苦しみに耐えているらしい』といっていたのだよ」。
 洋武はそんな先生の言葉もわからないほど朝のポスターのことを考えていた。
 その日の授業が終ると公衆電話をかけた。まだ電話が珍しかったころである。公衆電話からの電話をかけることに勇気がいった。若いお姉さんの声で「武蔵小山の商店街はずれの貸本屋にくるように」と指示された。そこにいた若いお姉さんは、顔と帽章をみると怪訝な顔をした。「あなた、小山台高校の学生。そう話しておくから明日またおいで」。翌日、足を運んで小さな紙を渡された。あとで思い返してみると洋武は熱意を試されていたのだった。当時、平和とか戦争反対とかいう集会は警察の鋭い追及が続いていた時代だった。新聞には毎日のように「占領軍違反文書をもった職工を逮捕した。」 「逃走していた共産党員○○が警察につかまった。」などの記事がでていた。その中で、決起集会に参加しようという高校生にそのお姉さんも試したかったに違いなかった。決起集会のある場所の地図と日時が薬の包み紙のような小さな紙に書いてあった。
 確か土曜日の夕方だった。山手線大崎駅を降りてその場所はすぐわかった。焼け残った二階建ての小さな学校のような建物だった。参加者は十数名だった。しかもみな小父さんのような高校生だった。構成といい、人数といい「全都高校生集会とは縁遠いなあ」と思っていた。そこに集まった人たちの多くは定時制(夜学)の高校生達だった。小父さんたちは代わるがわるに立ちあがって難しいことを演説していた。
 最後に「民族の自由を守れ」という歌を歌った。洋武はまだ一度も聞いたことのない歌だった。
 しかし、行進曲風の元気のよいものだった。「民族」という歌詞が何度もでてくる歌だった。「民族独立行動隊の歌」だった。もう一つは、「平和、平和、平和を守れ」というリフレインがいつまでもつづく歌だった。「朝鮮戦争を中止して、朝鮮に平和を!」といった熱意だけは伝わってきた。私の耳には「民族」と「平和」の言葉の響きが快く残った。高校を卒業して大学に進んだ洋武は「平和!戦争準備をやめさせよう。アメリカの核実験反対」という学生自治会運動の一員として、平和運動に参加するようになり、そして日本共産党員になっていた。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 浮島丸事件と晋司の連行

 ソ連兵の野蛮さがつづいていたころ、朝鮮人の日本人への復讐も広がった。街にでかける日本人達に朝鮮人達から激しい悪罵《あくば=注》が浴びせられるようになった。日本人と親しくしていた朝鮮人はつぎつぎに保安隊につかまっているという噂が広がっていた。
 ある夜、収容所の日本人全員があつめられた。ぐずぐずいう子供をまえに保安隊員は威嚇射撃を実弾で行った。それはすざまじい威嚇だった。クラブの講堂には、そこに住んでいる人達の荷物が両方に押しのけられて、社宅も含めて収容所にいるすべての日本人全員が座らせられた。
 「朝鮮人の帰国船浮島丸が舞鶴沖で沈没した。機雷に触れて沈没しているなどいっているが、爆薬で爆破したのだ。朝鮮同胞への日本人の復讐だ」。安田さんこと洪泰保が保安隊長として演説した。安田さんは、はじめ通訳をつれて朝鮮語で演説をしてそれを通訳が日本語に直していた。
 しかし、その通訳は安田さんより日本語が下手だった。安田さんはすぐ通訳なしに日本語でしゃべりはじめた。
 林家の占めていた舞台の真中に立ち、まわりには銃剣つきの小銃をもった兵士が四人取り囲んで防衛した。洪泰保は、日本人の将校さんたちが訓話をするやりかたを真似ていた。彼の日本語は朝鮮のアクセントのない上手な日本語だったが、憎しみが込められていた。
 「おれの父さんは、三・一独立運動の時、日本帝国主義の兵隊に殺された。おれは父さんの顔を知らない。しかし、独立マンセイ(万歳)といっただけで父さんが殺された。日本人にはこの苦しみがわかるか。日本帝国主義は三六年にわたってこのわれわれの領土を支配した。ものを知らない朝鮮人を騙して土地を取り上げ、善良ぶって悪をなした。日本人が欲しいものをなんでも略奪した。朝鮮の財産のほとんどは日本人のものになった。地下から石炭や金を掘りだし朝鮮人民の財産を奪った。天皇陛下といって神様扱いをして、神社に頭をさげないという理由だけで何人ものわが同胞が殴り殺された。義明学校まで閉鎖された。天皇陛下といってもただの人間でないか。大便もすれば小便もする。そのうえ、われわれ同胞の創氏改名までせまった(朝鮮の姓を日本の姓に変えさせたこと)。 朝鮮人は『姓を変えるのは犬畜生』ということわざがあるんだ。
 日本人は朝鮮人を犬畜生にしたんだ」。だんだん興奮してきた安田さんは涙を流して激しく演説した。
 「おれの父さん」といういい方は、洋武が知っていた安田さんからはじめて聞く言葉だった。そして三年まえの夕食の時「ぼくは父を尊敬しています」 といった言葉を思い出した。
 寺山君が、「天皇陛下はウンチもすればおしっこもするといったのは、ほんとうだったのかも知れない」。この演説をいつまでも覚えていた。
 浮島丸事件というのは終戦直後の混乱の中での海難事件だった。昭和二十年の八月二十四日、朝鮮に帰国する朝鮮人を満載した浮島丸が、舞鶴港で理由不明の原因で沈没した。数百人から千名近くの朝鮮人青年が犠牲になった。日本政府は、米軍の落とした機雷に触雷した事故と発表したが、朝鮮人の間では、日本人による爆破だと伝えられた。多くの朝鮮人たちが強制的に日本に連れて行かれた。 そしてやっと本国に帰れると喜びに包まれていた青年たちが帰国の途についた時の事件だった。船が沈没するとき船のハッチが閉められたままだったために犠牲者はふくれあがった。救助され生き残った青年たちが朝鮮に帰りつき、その事件が朝鮮全土に伝えられるとともに、「日本人の計画的な復讐だ」 との宣伝もあり、全朝鮮で激しい憤激を呼び起こしたという。それまで朝鮮では独立の喜びに沸き返る世論はあったが、日本人を非難する世論は一般的ではなかった。しかし、この事件が朝鮮人の間に広がる中で、朝鮮の南北間わず朝鮮人の反日感情に火をつけた。その一端が洪泰保の演説だった。
 「日帝の七奪」 という言葉をコウタイホはつかった。日本帝国主義の三六年間の支配の中で、
「国王」 と 「主権」 と 「土地」 と 「資源」 と 「国語」 と 「姓名」 と 「人命」 まで奪ったというものである。日本人たちは七奪の中味を知るのはずっーと後になるのだが、朝鮮人の怒りがしだいに広がっていることを感じた。

 満州からの避難民の女性が突如保安隊に連れて行かれた。満州から避難してきた女性たちには、いざという時に飲んで自害するようにと青酸カリが渡されていた。その青酸カリを井戸に投げ捨て朝鮮人の毒殺をはかろうとしているという噂が広がっていた。そのため、満州から避難してきた女性の一人が、保安隊から事情聴取された。もちろん全くのデマだったが、青酸カリを満州から避難するとき渡されていることがわかって、全員から青酸カリが集められた。「ほっとしたのよ」。青酸カリを保安隊にわたすと女性たちは口々にそう言った。
 羽野さんのおじさんも何度も保安隊に呼ばれていた。羽野さんは、順安では請負師と呼ばれていた小規模の土建業をしていた。その羽野さんは、林家より早く順安来ていたのだが、その前は憲兵をやっていた。憲兵だったのは、二〇年以上も前のことだったが、何日も保安隊によばれてそのたびに家族の人も周りの人も心配した。しかし、拘留されることはなかった。
 洪泰保の演説があって数日後、晋司が突如として保安隊に連行された。終戦直後、林家の座敷に女学校の紺野校長一家が引っ越してきたが、その一家が収容所に収容される前に娘さんの嫁入りのための反物や宝石を庭に埋めて隠していたらしい。収容所に入った後、校長一家が朝鮮人に頼んで掘り起こしに行ってもらった。そのとき、林家の庭を掘り起こしにいった朝鮮人が、まちがって和雄達が掘った穴を掘り出したらしい。連日書類を燃やした大きな穴に、家の床の間にあった手留弾をかたどった灰皿と迫撃砲弾をかたどった花瓶の飾り物も投げ込んでいた。それは晋司が平壌の兵器廠を除隊になる時、記念にもらったものだった。もっと数は多かったが戦争中に金属類の供出ではとんど出してしまっていたが、二つだけ晋司が手元に残したものだった。洋武もお客さんが「灰皿を」といった時、手相弾の型をした灰皿を得意げに持っていったものだった。  
 しかも元の林家には保安隊の関係者が住んでいて、その人に見つかり、実際に穴を掘りに行った朝鮮人と校長先生と晋司は、物資の隠匿と武器の隠匿の重要犯罪人ということで保安隊に連れて行かれた。順安にとどまらず平原郡の郡事務所のあった永柔邑(邑は日本流に言うと町)というところに連れて行かれたことが一家に伝えられた。
 「おそらく林さんは生きて帰ってこれないだろう」と日本人会の役員が話していた。

注:酷くののしる 事
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/30 8:11
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 日本人に対して使役も強められた。

 順安神社は朝鮮人にとって恨みの的だった。神社の前を頭を下げないで通り過ぎ、警察につれていかれた朝鮮人も少なくなかった。順安にはキリスト教の学校があった。義明学校といったが、そこの外国人の校長が神社参拝を生徒に強要する事を拒否したため学校が閉鎖になっていた。それを機に順安のキリスト関係者への圧力がつよまった。キリスト教の病院も閉鎖された。順安にいた外国人達はみな帰国をさせられていた。昭和十年(一九三五年)ごろのことだった。平壌を中心とした平安南道は、朝鮮でもキリスト教が早くから入ってきた地域だった。順安というのは朝鮮でも片田舎だった。
 しかし、キリスト教の学校も病院もあって朝鮮独立運動も万歳事件以後も地下にもぐつてさまざまな形で繰り返されていた。日本が敗戦になるとまっさきに順安神社は焼き討ちにあったのもそうした経過があった。
 この順安神社は日本人が朝鮮人から土地をとりあげて作ったものだ。と安田さんことコウタイホが演説の中でもいっていた。
 だから順安神社を人民広場に作り変えるために日本人の使役が要求された。日本人の使役が始まった。男たちは連日土方作業にくりだされ、ハナも共同炊事の当番以外は連日作業に出かけていった。すでに食糧は急速に乏しくなっていた。昼の弁当はサツマイモ一切れと小麦粉の団子一つが入ったスイトン《注1:》だった。収容所では、いつもは各家庭がクラブの中庭に七輪を並べて炊事をしていた。しかし、この昼の弁当のために大きな釜が据えられ女の人と使役に出られないお年寄りの人がスイトンをつくった。サツマイモと小麦粉の団子がういたスイトンをバケツに入れて子供たちが交代で運んだ。そして順ちゃんと洋武の番がやってきた。
 その日に当番になった子ども達は早めに昼飯が与えられた。それは、子ども達が運ぶ途中でスイトンを食べてしまわないための予防策でもあった。全部で五つほどのバケツを二人づつこどもたちが並んで運んだ。洋武たちの組は一番小さな子供だったので、半分くらいしかはいっていないバケツだった。「こぼしてはいけません。サツマイモもお団子もちゃんと数えてあるんですから。こぼすと小父さんたちがいっそうお腹がへるのよ」。くどいほど注意をされた。
 日本人収容所に入れられての久しぶりの外出だった。順安の街は薄汚れていた。終戦までは牛車や馬車がとおり糞を道に落としたが、乾かしてオンドルの燃料にする朝鮮では近所の人が掃除をすることになっていた。日本人の子ども達もしばしば家の前の京義国道の掃除をさせられていた。しかし、そうした習慣も崩れたのだろうか、猫の死骸や割れた黒い甕などが無造作に道端に放り出してあった。
 順ちゃんは「ひどく汚れているね」といった。二人とも重いバケツを持つのがやっとだった。
 順安神社は想像もできないはど変わっていた。毎月八日の「大詔奉戴日」の参拝のとき息をきらして登った階段の傾斜のところの木々はみんな切り倒されていた。そして芝生が植えられて観客席になっていた。そして下の平らのところが広場になっていて、もうそこにはブランコの設備などが設置してあった。朝鮮では祭りなど何かあると女の人が原色のチマ(スカート)とチョゴリ(上着)を着て、クネ(高いブランコ)にサーカスのようにのった。またノルテギ(板をシーソーのようにして交互に高く飛びあがる板跳)くりかえしやっていた。それは日本人の子どもにとっても、はらはらさせる見世物であり見ていて飽きない遊戯だった。二週間後に迫ったお祭りのために突貫作業で日本人に広場を作らせていた。「あの神社が変ったね」。なにかがっかりした。
 シャベルやつるはしやそれにモツコを担いだりした大人たちが働いていた。子ども達の給食が到着するといっせいに休みになった。
 大人たちは、子ども達の持っていったスイトンを子どものようにむさぼり食べた。昼の時間はすぐ過ぎた。バケツをいっしよに運んだ上級生は先に帰っていった。二人は、はじめての参加でもありみんなからおくれて帰ることになった。
 帰りに空のバケツをもって帰り始めると、順ちゃんが「あつ。椙山君だ」と大きな声を出した。
 椙山君が急に出てきた。「君たちがバケツを運んでいたのを家から見ていたんだよ。それでお母さんに頼んで握り飯をつくってもらった」。
 そういえば椙山君の家は順安神社の続きにあった。森や木がいっぱいだったときには気づかなかったが、全部きり倒されてみると椙山君の家から見下ろすところに神社の広場があり、日本人が作業をしているところがあった。
 三人は、傾斜のある裏側に回った。そこからわが家がよく見えた。赤い屋根もそのままだった。「武ちゃんの家よく見えるね」と順ちゃんがいった。「いま保安隊の人が住んでいるよ」と椙山君が言った。林家は大きいうえに朝鮮式のオンドルも完備していて朝鮮人が入居を争っていると兄達から聞いたことがあった。
 椙山君の家の握り飯には朝鮮漬ともやしが混ぜてあり日本人の握り飯とは少し違っていた。それだけでおかずもいらない握り飯だった。二人はむさぼるようにしてその握り飯をたべた。
 「君たちたいへんだってね」。椙山君は少し言葉を落とした。
 「ぼくも日本人の学校に行っていたのでいじめられているんだ」。
 「ぼくの家ももうすぐお母さんの田舎に行くんだ。お父さんが面長で日本人に協力したということで○○に連れて行かれた」。
 椙山君はときどき朝鮮語をまじえて話をした。順ちゃんも洋武も聞き返すことがおおかった。椙山君は地面に「教化所」と書いた。洋武の父もその「教化所」に連れて行かれていた。それは刑務所のことだった。
 「みんなが来るのできっと君たちもくるのでないかと思って待っていたんだ。それにしても二人ともやせて病人みたいだ」。
 「ぼくたち食べるものがないんだよ」。
 「いま朝鮮人も食べるものがないんだよ。ロシヤが米をみんな持っていってしまったらしいんだ」。
 「新井君の家に遊びにいったけど誰もいなかったよ。このあいだ遊びにいったが家は空っぽだった。うちも面長公舎だから後はだれかほかの人が住むことになるね」。
 椙山君がいった。大きな新井君の家が空っぽになっているというのを想像できなかった。
 収容所に入れられた間の順安の様子を子どもなりに伝えていた。三人ともとめどもなく話しっていたかった。いつまでもそうしていたかった。しかし、二人の帰りが遅いので心配した上級生がもどって捜しにきた。
 上級生の 「お前ら早く帰って来い」。大きな声がきつかった。
 椙山君は手にしていた石をそっと投げて見せた。洋武は足下の石を蹴った。
 「内地に帰ったら手紙を書こうね。でもぼくたちほんとに内地に帰れるかどうかわからない」。順ちゃんが最後にそういってわかれた。

注1:練った小麦粉を手で引きちぎって 野菜と一緒に煮込んだ汁もの
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
  飢えと寒さが迫ってきた・1

 十二月になると治安は少し良くなった。順安の駅前にソ連軍の憲兵隊《注1》がついて、ソ連兵の蛮行が規制された。朝鮮人の日本人いじめも納まり始めた。収容所のまわりの保安隊の巡回はなくなり外出禁止もゆるやかになった。
 その一方、日本人収容所には飢えと寒さがいっそう深刻になってきた。朝鮮当局からの配給は、粟と高梁が少しと豆かす(豆の油を絞ったかす)か、ふすま(小麦のぬか)が主なものになった。安田さんは演説の中で「戦争中の朝鮮人への配給はこんなものだった」といっていたが、日本人たちの間には、明らかに飢えが始まっていた。
 順安駅前の元の「日通」の事務所にソ連軍の屯所《注2》が置かれたが、それは近隣から米を集めてきて、列車に積み込みソ連に向けて送り出すためでもあった。トラックが順安周辺から連日のように米を集めてきては長蛇の列をなした。男性は米を貨車に詰め替える使役に狩り出された。兄達は「トラックはみなGM(ゼネラル・モータース)だ。アメリカ製のトラックだ。ソ連はアメリカからトラックをせしめて戦争をやったんだ」など話していた。この使役は、報酬がなかったが男達は次々に応じた。朝鮮の農家から集めてきた米を、トラックから貨車に積み替える作業だった。みんな竹筒を用意していた。そして、米俵を積み替えるとき、竹筒を俵に差込み作業服のなかに取り込んでいた。米は籾米だった。誰かが一升ビンにいれてつきだすと白い米になるということで作業がはじまったが、瞬く間に収容所で米つきが始まった。これは子供でも出来る作業だった。みんな夜になると、せっせと米をついた。もちろんその量はわづかなものだったがそれでも飢えをいやすのに役立った。ただ、男のいない家では米にはありつけなかった。林家は、晋司は刑務所に連れて行かれていたが、兄達二人が籾米を稼いできた。順ちゃんのところと同じ舞台にいる河村さんにもおすそ分けした。わずかなお米だったが、そのたびに順ちゃんの小母さんは涙を出してお礼をいった、
 米の集積と積み替えはかなり長期につづいた。和雄達はソ連兵がいかに計算に弱いかをよく笑った。「下に十俵並べて十段つめば五十五になるくらいわかりそうなものを一つ一つ数えないとわからない。よくあれで戦争に勝てたものだ」など悪口を言った。
 駅前の屯所に駐留したソ連兵はそれまでの野蛮な兵隊とちがっていた。略奪や女性への暴行はしなかった。そんなソ連兵たちにわたしたち子供は、さっそく「パンダワイ」などいってまつわりついた。どこで知ったか覚えていないが黒パンのことをフレープと言うことも知った。大人たちの心配をよそに黒パンをせしめに行った。
 なぜか洋武が「フレープダワイ」というとソ連兵がおおじてくれた。だから洋武がソ連兵の屯所に行くときには、順ちゃんはじめ数名の子供達といっしよだった。子供達が見守る中ソ連兵は、こどもの数を何回もかぞえてそれに合わせてナイフで箱枕のようなパンをきり、厚さ一センチぐらいの黒パンを分けてくれるようになっていた。ソ連兵たちは一様にひまわりの種を食べた。ちょぅどチユウインガムをかむようにひまわりの種を口に入れ滓を土間にもそこらに吐き散らかした。
 そのひまわりの種を子ども達にもわけてくれた。ひまわりの種は朝鮮では珍しいものではなかった。しかし、それまで食べるものとは考えていなかった。飢えているときには何でもおいしかった。お互いに言葉はわからなかった。でも「スターリン・ハラショ」(すばらしいスターリン)程度のことは意味がわかった。また、ベルリン、ベルリンといってマンドリン小銃をパンパンと振り回し、弾をよけるしぐさをしてあと「ウラーウラー」といった。ベルリン攻略に参加した兵隊達のようだった。パンをもらうことでソ連兵も悪い人ばかりでないと思うようになった。
 ハナは、収容所暮らしがはじめると、真っ先に食糧の確保のためにあの「支那人(中国人)の農場」を訪ねた。「支那人の農場」は、草ぼうぼうになっていて主の支那人(中国人)はすでにいなかった。戦争が終わって中国に帰ったのだろうか。やっぱりあの中国人は中国のスパイだったのだろうか。日本人の間で噂になっていた。
 五日ごとにたつ定期市場も戦争中は中止していたが再開されていた。林家では相次ぐ略奪で現金は全くなかった。順安神社の使役が終り、ソ連軍の米の積み出しが終ると、男達はバラバラに朝鮮人のヤンバンたちの仕事の手伝いにいくことになっていた。和雄や典雄たちが使役で稼いでくる朝鮮人の半分にもならない賃金で文字通り糊口《ここう=注3》をしのいでいた。使役に出て得たお金の十五%は、日本人会に収めなければならなかった。日本人会の会計役は栗本鐵工所の増山さんだった。
 増山さんは十五%の取り立てが厳しいと言うことで評判は悪かった。同じ日本人のなかでも砂金会社や栗本鐵工所の人たちは、林家のように現金の略奪にはあわなかった。わずかの現金で市場に出かけて買物をしてくる人達もいた。
 正月になっても正月らしいことはなにもなかった。ハナは一人三着しかない下着の一つをそれぞれ洗濯して家族に著させたのがせめての正月らしさだった。大人達は一日だけ休みで収容所にいたが、また出かけて行った。どこの家にもご馳走はなかった。
 ただ、林家にはすこしうれしいことがあった。それは、終戦前の春、人手が足りないからといってハナが田植えの手伝いにいった小作人から白米の差し入れがあった。オマ二の夫は徴用からまだ帰っていなかった。日本人の小作人は、小作していた土地が自分ものになるという新しいソ連の決定で農民達に歓迎されていたようだった。オマ二はその春、地主なのに田んぼに入って田植えを手伝ってくれた林家に差し入れをもってきてくれたのだった。
 オマニは、「昨年は日本人の土地が自分のものになったが、今年は朝鮮人のヤンバンの土地も自分のものになるようだ。夫がいなくても小作を続けていてよかった」と喜んでいた。北朝鮮では農地改革が進み始めていたのだった。「共産主義は、私有財産否定なのね」とハナはその話を悔しそうに家族に報告していた。
 米の差し入れがあったことを伝え聞いた日本人会の会計をしていた増山さんがすぐやってきた。
 「林さんにお米が届けられてそうだが、日本人会の決まりで一度『会』にいれてもらうことになってまっせ。病人に配給することになっている」。ハナはムッとして抵抗したがダメだった。麻袋に入っている一斗はどのお米は隠しようがなかった。一升ほどわが家でとって、後は日本人会に供出された。
 「菊村さんのところは、戦争中も宝石や貴金属を買い溜めていたのでなんとかやっているらしい。
 わが家ではお父さんがこんな人だから宝石など贅沢はとんでもないといって、お金があれば国債を買うか貯金をするかで、戦争が終われば紙くず同然だった。それだけたいへんなのよ」とハナは嘆いた。菊村さんはそれまで朝鮮人の昔の部下がこっそり食糧をもってきているという話もあった。そうした差し入れも日本人会が一括して管理をしてみんなにわけることになっていた。

注1:主に軍隊内部の秩序と交通整理を任務とする隊
注2:兵隊達がたむろする所
注3:どうにか生計を立てて暮らす
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

  飢えと寒さが迫ってきた・2

 旧正月も近い寒い日、ハナは洋武をつれて、昔林家でチーネ(お手伝いさん)だった人の家を訪ねた。洋武を連れ出したのは、チーネの時、洋武を大事にしてくれたお姉さんだったからだ。冬の寒い朝、「寒いよ!」と泣くと、チーネはオンドルのかまどのところに連れていってチマ(スカート)で洋武の体をすっぽり包み、自分の手を火にかざし暖かくなった手で小さな手を包んでくれた。晋司が招集中でハナが忙しく子どもをかまってくれない時だったので、その手のぬくもりはいつまでも忘れられないものだった。国民学校に上がる前、二〇までの数を数えられないのでハナがたいへんがっかりしていた。そのときにもチーネは、洋武に二〇まで数えられるように何回も一生懸命に教えてくれた。
 チーネの家は京義国道の沿線にあった。街には韓国旗(大挙旗)はもうなかった。そして赤旗があちこちに出ていた。
 チーネは二人をみると 「武ちゃん元気。やせてしまったネ」と声をかけてきた。チーネにたいしてハナは 「りさん」 と呼んだ。チーネの名前が 「李さん」 と初めて知った。
 チーネの家の土間は国道から少し低い位置にあった。土間にある小さないすに座り込んでしまうとちょうど国道の砂利道が目の高さにあった。二人が土間の入り口で国道を背にして、チーネのりさんは国道の方を向いて話していると、通りを数人のソ連兵が通っていた。
 「奥さんそこしめて」 「あなた方も襲われるの」
 「もうすごいの。この前も昼間、その先の姉さんがやられそうになって、ソ連の憲兵がきてそのソ連兵をみんなの見てる前でピストルでバーンと打ち殺したのよ。日本人の支配よりひどいの」
 チーネは顔を歪めた。ハナは「日本人よりひどいって、日本人はそんな悪いことしていないわよ」 と抗弁したが、チーネはしまったという顔をしただけだった。
 チーネの家は豆腐屋さんだった。ハナは豆と米をわけてほしいと頼んだ。「いまね、ロシヤが米を集めているの。米がなくなって、値段もものすごくあがっているの。とてもわけてあげられない」 と激しく首をふった。
 ハナと話しながらチーネは仕事の手を休めなかった。豆が臼で引かれ、豆乳が出来ていた。「武ちゃん、みていてね、今にごりをいれるとね。かたまってくるよ」。チーネは昔のようにやさしかった。湯気が激しくあがるなか豆乳はみるみる固まって水の中に白い塊が浮き出した。
 「これおいしいの。食べる」といってハナと洋武に真鍮のサバリ(お椀)にすくった。豆腐の固まりきれない塊は初めてだった。飢えている私たちにおいしくないものはなかったが、それでも、この世にこんなおいしいものがあるのかと思った。
 ハナとチーネは長い間話していた。ハナは安田さんこと洪泰保が、どんなに日本人に特に林家にひどいことをしているかを訴えていた。
 チーネは安田さん洪泰保とその後も付き合いがあるらしかった。
 「私たちは日本から独立したかっただけよ。だって日本人はよその国に来て威張っていたものね。朝鮮人は昨年からもう米がなくてたいへんだったのよ。イルポンサラム(日本人)が白いご飯を食べている時、私たちは粟ご飯だったのよ。それにヨボ、ヨボと朝鮮人をバカにしてきたのよ。私たちそれだけでもたまらなかったのよ。日本が戦争に負けて、今度こそ独立できると思うの」。
 ヨボセヨというのは「もしもし」という朝鮮語だったが、いつのまにか日本人は朝鮮人のことを「ヨボ」というようになった。それは「鮮人」など言われるよりいっそうきつい差別語だった。
 ハナはめったに使わなかったが、それでも 「ヨボの乞食がきた」などやはり差別語として使っていた。朝鮮が日本人にとって 「よその国」というのをはじめて聞いた。私たちは朝鮮が日本国だと信じて疑わなかった。日本軍のおかげで大東亜共栄圏の国々が独立したと先生から聞かされても、朝鮮や台湾が独立するなど考えても見なかった。「内鮮一体」 という言葉が私たちの常識になっていた。
 ハナは突如として 「まあ。あなた達もアーメンだったの」 と声を上げた。「別に入信していたわけではないのだけど、義明学校にはお世話になったのよ」。チーネは答えた。チーネは普通学校四年を終えると義明学校にかわった。しかし、入ったその年に義明学校は廃止になった。「あの学校はお金のない家からお金をとらなかった。義明学校は教会が運営していたでしょう。教会の農場で牛を飼って子ども達にその世話をさせたり、牛乳配達をさせながら学校に行かせたの。安田さんも牛乳配達しながらあの学校を終えたの。私もお金がなかったからあそこに行こうと思ったのだけど学校が廃校になり、それで奥さんのところに働きにいったのよ」。安田さんもチーネも義明学校にかかわっていたことを、母もはじめて聞くような様子だった。いつか和雄兄さんが義明学校のことをアメリカ人のスパイが経営していたといったことがあったが、チーネの話はそれとは正反対で朝鮮人に歓迎されていたようだった。
 朝鮮人には普通学校があったが、すべての子ども達が行っているわけではなかった。そして、特に女性で学校に行く人は少なかった。「チーネは頭がよくて、気がつく」とハナはしばしばいっていた。
 チーネはそれにいろいろ安田さんの立場を弁護していたらしかった。日本人のハナが洪泰保というのに朝鮮人のチーネが安田さんというのがおかしかった。チーネの説明によると洪泰保は、万歳事件の犠牲者の遺児ということで保安隊長になったが「安田さんはキリスト教だから、いまたいへんなのよ」と立場が複雑であることを弁解していた。安田さんがキリスト教だと言うことも初めて聞くことだった。キリスト教は禁酒運動をしていたが安田さんはそういえばお酒を飲まなかった。
 日本の敗戦とともにそれまで地下に潜っていたキリスト教関係者や共産党関係者は一斉に舞台に登場した。安田さんもその一人だったようだ。順安では、八月十六日その日に動きが始まったことでも終戦を前に地下では準備が進められていたようだった。
 しかし、北朝鮮ではしだいにキリスト教関係者は圧迫され始めていた。チーネはすでに英雄のように言われていた金日成のこともそうほめなかった。
 チーネはそのとき「朝鮮人にはステーキもボルシチも口に合わないの。キムチがあればやっていけるのよ」と断固としていった。
 飢えていた洋武は食べ物の話にすぐ飛びついた。
 「お母さん、ボルシチってな一に」「お肉を大きく四角に切って野菜とぐつぐつ煮るのよ。いつか作ってやったでしょう」。ハナは面倒くさそうにそう答えた。
 チーネは「ロシヤの料理よ」といってまた話をつづけた。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 飢えと寒さが迫ってきた・3

 洋武がボルシチを食べたのはそれから十数年たってロシヤ民謡を歌う東京の喫茶店だった。値段は高かったがそうおいしいものとは思わなかった。しかし、それからさらに数年たってこの会話が当時の朝鮮人の政治的な会話であったことを知った。
 日本の敗戦後、朝鮮のあり方についてアメリカは朝鮮の国連による信託統治《注1》を提案していた。日本帝国主義三六年の支配から解放された朝鮮人の多くは「解放すなわち独立」と期待していただけに、朝鮮の世論はこの信託統治提案に激しく反対していた。結局、終戦の年の十二月、米英ソの三国外相会議で朝鮮人の意思を無視して、五年間の信託続治が確認された。そのときに南朝鮮である学者が  「アメリカの監督もロシヤの監督もいらない。朝鮮はすぐ独立すべきだ。どんなに栄養のあるアメリカのステーキであろうと、ロシヤのボルシチがおしいそうに見えようともそんなものはいらない。われわれにはキムチがあるではないか」と演説して万雷の拍手と泣き声で迎えられたという。そしてしばらく当時の朝鮮人の共通したスローガンになっていた。朝鮮共産党(まだ労働党とは名乗っていなかった)はソ連が承認したということもあって、この「五年間信託統治」案に賛成していた。当時、南朝鮮では「信託統治」案に賛成した朝鮮共産党は世論の袋叩きにあっていた。北朝鮮の片田舎にいたチーネにどういうルートで伝わったかしらない。しかし、まだ南北のさまざまな交流があったことを思えば、きっとチーネのこの発言はこうした米ソの大国のやりかたに強く反発した会話だったのでないかと思う。洪泰保もこうしたソ連のやり方に反発していたのかも知れない。ハナは政治的内容はともかくこの会話をしばしば思い返していた。
 結局、お米は分けてもらえなかった。大豆一升を十五円で母は買い取った。「高くなったね。もう十倍にもなったね。」ハナは嘆いていた。「米はもっとすごいの。奥さんこれも原価だからね。豆も粟もものすごくあがっているの」。チーネは弁解しながらお金を受け取った。おからはただでわけてくれた。
 「その代わり家で生まれたばかりの卵をあげましよう。武ちゃん少しでも元気になってね」。そういって裏庭の鶏小屋にはいり、コッツコッツ騒ぐ鶏をかきわけて、産んだぼかりの三個ほどの卵を新聞紙に包んでくれた。おからのなかにいれて「壊れないようにね」と念を押した。新聞は漢字とハングル文字がまじった新聞だった。ハナは卵をもらったことを「いま一つ五円もするんだよ」とたいへん喜んでいた。
 「もう来ないでね。みんなにいじめられるから」。チーネはそういって二人を送り出した。
 終戦前でも卵は貴重品だった。遠足か運動会に母が作ってくれる卵焼きは子ども達にとって憧れのおかずだった。たくさんの卵を使うマヨネーズは飛びきりの贅沢な料理だった。収容所にもどってきたとき、私はその日の夜の食事のスイトンにでも「かき卵」をしてもらえるものだと思っていた。しかし、母は一個を和雄に 「人に見られないように、早く食べなさい」と渡した。そして残り二つをもって「洋武はがまんしてね。結核の薬だから」といって順ちゃんの家にもっていった。洋武は激しく泣いて抗議したが聞き入れられなかった。「順ちゃんの父さんもう危ないのよ。おばさんが、生卵でもあったらと、この間嘆いていたの。順ちゃんのお父さんの薬だから我慢するのよ」とエプロンに包むようにして順ちゃんの家に行ってしまった。
 戦前、結核の薬はなかった。肝油を飲むのがせいぜい薬らしかった。あとは生卵とか生牡蠣とかを食べて栄養をつけて絶対安静するしかなかった。順ちゃんのおばさんが「生卵の一つでもあれば」 といつも言っていた。
 従来から順安にいる人達はまがりなりに食糧を時々どこからか手に入れることができた。満州からの避難民は順安に何のつてもなく配給の粟と大豆滓とふすまで飢えを凌ぐ以外なかった。
 河村さん一家もそうした一家だった。満州から避難してくるとき出きるだけの貴金属をもって逃げてきたが、それも次々に売り食いにまわされていた。ハナはできるだけ朝鮮人から手に入れた食糧を河村さん一家や菊村さん一家にまわしていたが、林家自身がひどい飢えの状態だった。
 河村さんのおばあちゃんは、そこにいるのかどうかもわからにような人だった。同じ狭い舞台で暮らしていても印象に残らないもの静かな人だった。そのおばあちゃんが肺炎になったのは正月早々だった。周囲がばたばたしていた。
 「カンフルでもあれば何とかなるが。なんにもないんだよ」そういいながら、辻村先生がおばあちゃんをみていた。辻村先生は満州建国大の医学部の最終学年でいつのまにか日本人会のお医者さんになっていた。おばあちゃんが死にそうだという噂がひろがり、子供達が無遠慮にわが家のスペースを越えて、おばあちゃんの苦しむ様子をのぞきこみに来るようになった。私は両手を広げて「見世物でない。来るな」と子供達の侵入を防いだ。
 ところが、そのなかの子のお母さんがやってきて、「うちの子をいじめているのはお前さん。うちの子をいじめたら承知しないから」と大阪弁でまくしたてた。典雄がこれをみて、その母親に激しく言い返した。「人の死を見に来るのをとめるのは当然じゃないか」。そのときにそのおばさんは少しひるんだが「こんな家だからおとうさんが刑務所につれていかれるのよ」捨て台詞を残して去っていった。
 おばあちゃんは重態になって一日でなくなった。人の死がめずらしかったのは河村のおばあちゃんまでだった。それからお年寄りが次々となくなった。葬式らしきものはまったくおこなわれなかった。
 敗戦になるまで順安で日本人が死ぬことはほとんどなかった。みな若かったせいもあるし、病気が悪くなると内地に帰ってしまった。洋武も日本人のお葬式も見たことはなかった。日本人墓地も小さくて十分なものではなかった。
 和雄達は日本人墓地に遺体を運んだ。すでに土地は固く凍っていて鶴嘴もないから思うように深く掘れなかったと嘆いていた。
 「せまい日本人墓地に穴を掘るから、昔死んだ人の骨が出るんだ。気持ちが悪いのはこの上もない。スコップでは深くは掘れないから浅く掘っているから暖かくなると野良犬や狼が遺体を掘り起こしてしまう」。兄たちの話に洋武はふるえるほど怖かった。
 順ちゃんのお父さんは、それから一週間もしないうちになくなってしまった。結核で死んだので、順ちゃんの家の布団は外に干されていた。子供達はその布団をみると鼻をつまんで息をしないようにした。順ちゃんも恵子ちゃんも美代子ちゃんも誰も遊んでもらえなかった。わが家は和雄が結核だったのでそうした偏見はなくて順ちゃんの家との付き合いは絶つことはなかった。
 北朝鮮の冬の寒さは特別だった。寒暖計はなかったので零下何度まで下がったのかわからなかった。晴れた乾燥した日が続き、それだけ気温は一気に下がった。普通江も水溜りも便所もカチカチに凍っていた。日本人達はみんな寒さで眠れない夜がつづいた。

注1:国際連合の信託を受けた国が 国際連合総会及び 信託統治理事会による監督により 一定の非独立地域を統治する制度
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 飢えと寒さが迫ってきた・4

 ある晴れた朝、辻村先生を先頭に 「今日は虱退治をする」と掛け声がかかった。朝からクラブに収容されている人達の布団がみんな外に干された。そしていっせいに掃除が始まった。中庭には順安神社の使役の時、スイトンづくりのためつかわれた大きな釜にお湯が沸かされた。「下着はみんな沸いているお湯につけろ」。着ている下着が次々にお湯にしたされた。昼間でも寒かった。しかし、このいっせいの虱退治にはほとんどの人達が積極的に協力した。虱は下着を振ればばらばら落ちるはど虱が増えていた。頭を坊主にしていない女の人の髪の毛などにも虱はいっばいついていた。すべての日本人が虱と蚤の被害で苦しんでいた。終戦後の各地の記録の中で虱を媒介した発疹チフスが猖獗(しょうけつ)をきわめ、そのために多くの人の命を奪ったと記録されている。順安で発疹チフスの流行だけは食い止めることができた。
 由美と洋武は、そのころ朝早くから石炭拾いに出かけた。順安駅に入る蒸気機関車は、速度を落としてブレーキをかけるので石炭が線路際に落ちることが多かった。それを拾いにいくのである。子供の拾ってくる石炭だがそれは馬鹿にならない燃料になった。ときどき駅員が飛んできて、「線路に入るな」と日本語で怒鳴ったがそんなことかまわずに拾って歩いた。私たちに続いて順ちゃんたちの姉弟も石炭拾いに加わった。そして線路沿いにずーと北まで行くとわが家のそばまで来ることがあった。「あれが武ちゃんの家ね」。順ちゃんは必ずそういった。子供達の方が、石炭や枕木の端くれや燃料になるものを拾うのは大人より上手だった。そのたびにハナは喜んくれた。「お前たちも役に立つね」という言葉がうれしかった。
 日本人が石炭拾いをするようになっているなか、駅の周りに鉄条網をはって日本人がはいらないようにした。二、三日は鉄条網にさえぎられたが、しかしそれだけに石炭がたくさん落ちていた。子どもたちは鉄条網をくぐつて拾いに入った。それは大人たちにはできなかった。子どもたちの石炭の収穫は多かったが、擦り傷が体中に出来るようになった。子供達は少し怪我をするとすぐ膿んできた。 はじめのうちはどこの親も包帯などしていたが、包帯で巻いていたら間に合わないくらいあちこち膿んでそのままに放置するようになった。大人にもそれが広がってきた。辻村先生が 「たぶん栄養失調のせいでしょう」 という診断をした。「薬もないから、どうにもならない」 といいながら、もうおできの相談にはのらないようになっていた。石炭拾いは体中の擦り傷という代償が必要だった。そのすり傷がすべて膿んでおできになっていった。
 大人達は生きていくために必死だった。順安駅から平壌に向けて二つの長い鉄橋があった。
 普通江を二度わたる鉄橋だった。ソ連兵がその鉄橋を警備するために屯所を作ることになった。男は使役に出された。穴を掘り枕木で周りを囲み、半地下式の屯所が作られた。そこにソ連兵のための賄い婦が必要になった。若い女性を出すわけに行かず、結局ハナの年代が数名えらばれた。
 ハナたちは、はじめは乱暴されるのでないか、たいへん心配していたが鉄橋警備のソ連兵たちは悪いことはしなかった。そればかりでなくハナはソ連兵の食事の残りを持ち帰るようになった。
 黒パンもあった。米はラードであげて彼らのおかずになった。そうした残りなのかそれともハナがくすねてきたのかわからなかったが、わが家はこのハナのもちかえった食糧がしばらくの間飢えをすくった。順ちゃんの家におすそ分けをもっていくと喜ばれたが、いろんな人が少しでもうちにも分けて欲しいとねだりに来るようになった。ハナのソ連兵への賄い婦の使役は一ケ月近くも続いた。
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