戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・21 (林ひろたけ)
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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ) (編集者, 2008/7/5 9:05)
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武器探しそして略奪・2
二五日の朝、それまで流れていた日本語の平壌放送が消えていた。新聞はすでにとどかなかった。ラジオが途絶えてから日本からのニュースはまったく途絶えてしまった。
そして、二五日の昼過ぎに和雄が、ルックサックを背負いヌーとわが家に現れた。「和雄。和雄よく帰ってきたね。そのまま内地に帰ってしまうかと思っていた」とハナは喜んだ。晋司が酒びたりになる中で、和雄の帰宅はハナにとって代えがたい喜びだった。
三八度線が南北に閉鎖になる寸前だった。和雄は鎮海から三八度上の開城まできたが、開城と平壌の鉄道は切断直前だった。開城から平壌までは貨車が二両だけついた最後の貨物列車に乗れたが、平壌から汽車が出ないで、歩いて帰ってきた。
同時に、和雄の話では、京城でも平壌でも神社が焼き討ちあい日本人や日本に協力していた朝鮮人に朝鮮人が仕返しをしていて、朝鮮中が大混乱している状況が報告された。
家の庭には兄さんたちによって大きな穴が掘られた。そして、そこには仏壇の位牌や神棚のものとか、書類やら雑誌やらが放り込まれて連日にように燃やされていた。とくに写真は一枚のこらず燃やされた。晋司の写真はすべて軍服姿だった。
「軍人は一番目につけられる」と匪賊退治をしたあの恐ろしい満州での軍隊のアルバムもふくめて、由美や洋武の一人で写った写真も燃やされていった。そしてこの穴に放り込まれ迫撃砲弾《はくげきほうだん=注1》の形をした花瓶や手榴弾《注2》の形をした灰皿ケースが、その後晋司が保安隊に連行される原因となった。
ハナは花好きだった。春にはレンギョウ、桜や杏の花もハナは大事にしていた。庭にはビールの空き瓶を逆さに植えて花壇を作っていた。春から夏まで庭に花が絶えないように花壇はいつもにぎやかだった。夏の庭には松葉牡丹が一杯咲いていた。そして、庭の生垣にはむくげが咲いていた。息子達が無造作に穴を掘る時、「あっ、そこは松葉牡丹、むくげが可哀想」など注意をするので息子達はいらいらしていた。とくに生垣のむくげは 「桜や杏など春の花とちがって、夏の花は咲いても咲いてもまた咲いて粘り強い花で。春の花もよいが、夏の花もすきよ」と日ごろからいっていた。もちろん、むくげが朝鮮の国の花であることなど知らなかった。そうした花壇が無残に掘り返されていた。
そのころ 各種の官舎から日本人は追い出されつつあった。順安にあった朝鮮人のための女学校の校長先生一家が官舎を追い出されたのでわが家に移ってきた。紺野さんといった。紺野校長先生の家庭に座敷が提供された。便所が一つしかない家だったので、中の間が廊下のようになり使えず、わが家族もオンドル一間に押しこまれる形になって急に狭い感じになった。校長先生の家庭は娘さんが二人の四人家族だった。娘さんはもう成人していて嫁入りのための準備がされているらしく荷物も多かった。ハナは 「可哀想に。嫁入り道具が台無しになっているらしい。戦争には負けるものでないね」 と話していた。
林家は両親と姉と私の四人家族だったが、和雄、典雄が帰ってきて六人家族になり、その上、校長家族が四人も増えて急ににぎやかになった。晋司は校長家族のために、座敷の庭先にかまどを築き炊事場を作った。ハナは「いつまでこうした状態が続くのでしょうね」と心配した。しかし、二週間後事態はいっそう悪くなった。
九月中旬、日本人全員が一箇所に収容されることになった。
順安の駅前にあった以前の砂金会社のクラブと社宅、そして終戦のときには栗本鐵工所の社宅と施設になっていたところに順安の日本人は全員収容されることになった。
一人あたり衣類を三枚と布団だけなど荷物の制限を受けて、「その上日本にかえるまでの間だから」 ということで荷物の制限はきびしかった。
ハナは冬物を用意した。「すぐ内地に帰えるんだから」 という理由でこれには男たちはあまり積極的でなかった。しかし、ハナは 「もしも帰れなかったらどうするの。零下二十度の冬をこすのよ」といって冬物ばかり用意した。結果的にはハナの判断が正しかった。それから一年の間、収容所生活を余儀なくされた。衣類、布団、鍋、お釜それに七輪など生きていくのに最低のものだけ許された。学校の教科書も書籍もいっさい持ちだすことはできなかった。
注1:少人数で運用でき操作も比較的簡便な為 砲兵でなく歩兵直属の火力支援部隊に配属される事が一般的で 最前線の戦闘部隊にとって数少ない間接照準による直協支援火気の一つである 弾
注2:武器の一つで主に手で投げて使う小型爆弾
二五日の朝、それまで流れていた日本語の平壌放送が消えていた。新聞はすでにとどかなかった。ラジオが途絶えてから日本からのニュースはまったく途絶えてしまった。
そして、二五日の昼過ぎに和雄が、ルックサックを背負いヌーとわが家に現れた。「和雄。和雄よく帰ってきたね。そのまま内地に帰ってしまうかと思っていた」とハナは喜んだ。晋司が酒びたりになる中で、和雄の帰宅はハナにとって代えがたい喜びだった。
三八度線が南北に閉鎖になる寸前だった。和雄は鎮海から三八度上の開城まできたが、開城と平壌の鉄道は切断直前だった。開城から平壌までは貨車が二両だけついた最後の貨物列車に乗れたが、平壌から汽車が出ないで、歩いて帰ってきた。
同時に、和雄の話では、京城でも平壌でも神社が焼き討ちあい日本人や日本に協力していた朝鮮人に朝鮮人が仕返しをしていて、朝鮮中が大混乱している状況が報告された。
家の庭には兄さんたちによって大きな穴が掘られた。そして、そこには仏壇の位牌や神棚のものとか、書類やら雑誌やらが放り込まれて連日にように燃やされていた。とくに写真は一枚のこらず燃やされた。晋司の写真はすべて軍服姿だった。
「軍人は一番目につけられる」と匪賊退治をしたあの恐ろしい満州での軍隊のアルバムもふくめて、由美や洋武の一人で写った写真も燃やされていった。そしてこの穴に放り込まれ迫撃砲弾《はくげきほうだん=注1》の形をした花瓶や手榴弾《注2》の形をした灰皿ケースが、その後晋司が保安隊に連行される原因となった。
ハナは花好きだった。春にはレンギョウ、桜や杏の花もハナは大事にしていた。庭にはビールの空き瓶を逆さに植えて花壇を作っていた。春から夏まで庭に花が絶えないように花壇はいつもにぎやかだった。夏の庭には松葉牡丹が一杯咲いていた。そして、庭の生垣にはむくげが咲いていた。息子達が無造作に穴を掘る時、「あっ、そこは松葉牡丹、むくげが可哀想」など注意をするので息子達はいらいらしていた。とくに生垣のむくげは 「桜や杏など春の花とちがって、夏の花は咲いても咲いてもまた咲いて粘り強い花で。春の花もよいが、夏の花もすきよ」と日ごろからいっていた。もちろん、むくげが朝鮮の国の花であることなど知らなかった。そうした花壇が無残に掘り返されていた。
そのころ 各種の官舎から日本人は追い出されつつあった。順安にあった朝鮮人のための女学校の校長先生一家が官舎を追い出されたのでわが家に移ってきた。紺野さんといった。紺野校長先生の家庭に座敷が提供された。便所が一つしかない家だったので、中の間が廊下のようになり使えず、わが家族もオンドル一間に押しこまれる形になって急に狭い感じになった。校長先生の家庭は娘さんが二人の四人家族だった。娘さんはもう成人していて嫁入りのための準備がされているらしく荷物も多かった。ハナは 「可哀想に。嫁入り道具が台無しになっているらしい。戦争には負けるものでないね」 と話していた。
林家は両親と姉と私の四人家族だったが、和雄、典雄が帰ってきて六人家族になり、その上、校長家族が四人も増えて急ににぎやかになった。晋司は校長家族のために、座敷の庭先にかまどを築き炊事場を作った。ハナは「いつまでこうした状態が続くのでしょうね」と心配した。しかし、二週間後事態はいっそう悪くなった。
九月中旬、日本人全員が一箇所に収容されることになった。
順安の駅前にあった以前の砂金会社のクラブと社宅、そして終戦のときには栗本鐵工所の社宅と施設になっていたところに順安の日本人は全員収容されることになった。
一人あたり衣類を三枚と布団だけなど荷物の制限を受けて、「その上日本にかえるまでの間だから」 ということで荷物の制限はきびしかった。
ハナは冬物を用意した。「すぐ内地に帰えるんだから」 という理由でこれには男たちはあまり積極的でなかった。しかし、ハナは 「もしも帰れなかったらどうするの。零下二十度の冬をこすのよ」といって冬物ばかり用意した。結果的にはハナの判断が正しかった。それから一年の間、収容所生活を余儀なくされた。衣類、布団、鍋、お釜それに七輪など生きていくのに最低のものだけ許された。学校の教科書も書籍もいっさい持ちだすことはできなかった。
注1:少人数で運用でき操作も比較的簡便な為 砲兵でなく歩兵直属の火力支援部隊に配属される事が一般的で 最前線の戦闘部隊にとって数少ない間接照準による直協支援火気の一つである 弾
注2:武器の一つで主に手で投げて使う小型爆弾