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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・25 (林ひろたけ)

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通常 戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・25 (林ひろたけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/29 7:55
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 浮島丸事件と晋司の連行

 ソ連兵の野蛮さがつづいていたころ、朝鮮人の日本人への復讐も広がった。街にでかける日本人達に朝鮮人達から激しい悪罵《あくば=注》が浴びせられるようになった。日本人と親しくしていた朝鮮人はつぎつぎに保安隊につかまっているという噂が広がっていた。
 ある夜、収容所の日本人全員があつめられた。ぐずぐずいう子供をまえに保安隊員は威嚇射撃を実弾で行った。それはすざまじい威嚇だった。クラブの講堂には、そこに住んでいる人達の荷物が両方に押しのけられて、社宅も含めて収容所にいるすべての日本人全員が座らせられた。
 「朝鮮人の帰国船浮島丸が舞鶴沖で沈没した。機雷に触れて沈没しているなどいっているが、爆薬で爆破したのだ。朝鮮同胞への日本人の復讐だ」。安田さんこと洪泰保が保安隊長として演説した。安田さんは、はじめ通訳をつれて朝鮮語で演説をしてそれを通訳が日本語に直していた。
 しかし、その通訳は安田さんより日本語が下手だった。安田さんはすぐ通訳なしに日本語でしゃべりはじめた。
 林家の占めていた舞台の真中に立ち、まわりには銃剣つきの小銃をもった兵士が四人取り囲んで防衛した。洪泰保は、日本人の将校さんたちが訓話をするやりかたを真似ていた。彼の日本語は朝鮮のアクセントのない上手な日本語だったが、憎しみが込められていた。
 「おれの父さんは、三・一独立運動の時、日本帝国主義の兵隊に殺された。おれは父さんの顔を知らない。しかし、独立マンセイ(万歳)といっただけで父さんが殺された。日本人にはこの苦しみがわかるか。日本帝国主義は三六年にわたってこのわれわれの領土を支配した。ものを知らない朝鮮人を騙して土地を取り上げ、善良ぶって悪をなした。日本人が欲しいものをなんでも略奪した。朝鮮の財産のほとんどは日本人のものになった。地下から石炭や金を掘りだし朝鮮人民の財産を奪った。天皇陛下といって神様扱いをして、神社に頭をさげないという理由だけで何人ものわが同胞が殴り殺された。義明学校まで閉鎖された。天皇陛下といってもただの人間でないか。大便もすれば小便もする。そのうえ、われわれ同胞の創氏改名までせまった(朝鮮の姓を日本の姓に変えさせたこと)。 朝鮮人は『姓を変えるのは犬畜生』ということわざがあるんだ。
 日本人は朝鮮人を犬畜生にしたんだ」。だんだん興奮してきた安田さんは涙を流して激しく演説した。
 「おれの父さん」といういい方は、洋武が知っていた安田さんからはじめて聞く言葉だった。そして三年まえの夕食の時「ぼくは父を尊敬しています」 といった言葉を思い出した。
 寺山君が、「天皇陛下はウンチもすればおしっこもするといったのは、ほんとうだったのかも知れない」。この演説をいつまでも覚えていた。
 浮島丸事件というのは終戦直後の混乱の中での海難事件だった。昭和二十年の八月二十四日、朝鮮に帰国する朝鮮人を満載した浮島丸が、舞鶴港で理由不明の原因で沈没した。数百人から千名近くの朝鮮人青年が犠牲になった。日本政府は、米軍の落とした機雷に触雷した事故と発表したが、朝鮮人の間では、日本人による爆破だと伝えられた。多くの朝鮮人たちが強制的に日本に連れて行かれた。 そしてやっと本国に帰れると喜びに包まれていた青年たちが帰国の途についた時の事件だった。船が沈没するとき船のハッチが閉められたままだったために犠牲者はふくれあがった。救助され生き残った青年たちが朝鮮に帰りつき、その事件が朝鮮全土に伝えられるとともに、「日本人の計画的な復讐だ」 との宣伝もあり、全朝鮮で激しい憤激を呼び起こしたという。それまで朝鮮では独立の喜びに沸き返る世論はあったが、日本人を非難する世論は一般的ではなかった。しかし、この事件が朝鮮人の間に広がる中で、朝鮮の南北間わず朝鮮人の反日感情に火をつけた。その一端が洪泰保の演説だった。
 「日帝の七奪」 という言葉をコウタイホはつかった。日本帝国主義の三六年間の支配の中で、
「国王」 と 「主権」 と 「土地」 と 「資源」 と 「国語」 と 「姓名」 と 「人命」 まで奪ったというものである。日本人たちは七奪の中味を知るのはずっーと後になるのだが、朝鮮人の怒りがしだいに広がっていることを感じた。

 満州からの避難民の女性が突如保安隊に連れて行かれた。満州から避難してきた女性たちには、いざという時に飲んで自害するようにと青酸カリが渡されていた。その青酸カリを井戸に投げ捨て朝鮮人の毒殺をはかろうとしているという噂が広がっていた。そのため、満州から避難してきた女性の一人が、保安隊から事情聴取された。もちろん全くのデマだったが、青酸カリを満州から避難するとき渡されていることがわかって、全員から青酸カリが集められた。「ほっとしたのよ」。青酸カリを保安隊にわたすと女性たちは口々にそう言った。
 羽野さんのおじさんも何度も保安隊に呼ばれていた。羽野さんは、順安では請負師と呼ばれていた小規模の土建業をしていた。その羽野さんは、林家より早く順安来ていたのだが、その前は憲兵をやっていた。憲兵だったのは、二〇年以上も前のことだったが、何日も保安隊によばれてそのたびに家族の人も周りの人も心配した。しかし、拘留されることはなかった。
 洪泰保の演説があって数日後、晋司が突如として保安隊に連行された。終戦直後、林家の座敷に女学校の紺野校長一家が引っ越してきたが、その一家が収容所に収容される前に娘さんの嫁入りのための反物や宝石を庭に埋めて隠していたらしい。収容所に入った後、校長一家が朝鮮人に頼んで掘り起こしに行ってもらった。そのとき、林家の庭を掘り起こしにいった朝鮮人が、まちがって和雄達が掘った穴を掘り出したらしい。連日書類を燃やした大きな穴に、家の床の間にあった手留弾をかたどった灰皿と迫撃砲弾をかたどった花瓶の飾り物も投げ込んでいた。それは晋司が平壌の兵器廠を除隊になる時、記念にもらったものだった。もっと数は多かったが戦争中に金属類の供出ではとんど出してしまっていたが、二つだけ晋司が手元に残したものだった。洋武もお客さんが「灰皿を」といった時、手相弾の型をした灰皿を得意げに持っていったものだった。  
 しかも元の林家には保安隊の関係者が住んでいて、その人に見つかり、実際に穴を掘りに行った朝鮮人と校長先生と晋司は、物資の隠匿と武器の隠匿の重要犯罪人ということで保安隊に連れて行かれた。順安にとどまらず平原郡の郡事務所のあった永柔邑(邑は日本流に言うと町)というところに連れて行かれたことが一家に伝えられた。
 「おそらく林さんは生きて帰ってこれないだろう」と日本人会の役員が話していた。

注:酷くののしる 事

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