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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・26 (林ひろたけ)

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通常 戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・26 (林ひろたけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/30 8:11
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 日本人に対して使役も強められた。

 順安神社は朝鮮人にとって恨みの的だった。神社の前を頭を下げないで通り過ぎ、警察につれていかれた朝鮮人も少なくなかった。順安にはキリスト教の学校があった。義明学校といったが、そこの外国人の校長が神社参拝を生徒に強要する事を拒否したため学校が閉鎖になっていた。それを機に順安のキリスト関係者への圧力がつよまった。キリスト教の病院も閉鎖された。順安にいた外国人達はみな帰国をさせられていた。昭和十年(一九三五年)ごろのことだった。平壌を中心とした平安南道は、朝鮮でもキリスト教が早くから入ってきた地域だった。順安というのは朝鮮でも片田舎だった。
 しかし、キリスト教の学校も病院もあって朝鮮独立運動も万歳事件以後も地下にもぐつてさまざまな形で繰り返されていた。日本が敗戦になるとまっさきに順安神社は焼き討ちにあったのもそうした経過があった。
 この順安神社は日本人が朝鮮人から土地をとりあげて作ったものだ。と安田さんことコウタイホが演説の中でもいっていた。
 だから順安神社を人民広場に作り変えるために日本人の使役が要求された。日本人の使役が始まった。男たちは連日土方作業にくりだされ、ハナも共同炊事の当番以外は連日作業に出かけていった。すでに食糧は急速に乏しくなっていた。昼の弁当はサツマイモ一切れと小麦粉の団子一つが入ったスイトン《注1:》だった。収容所では、いつもは各家庭がクラブの中庭に七輪を並べて炊事をしていた。しかし、この昼の弁当のために大きな釜が据えられ女の人と使役に出られないお年寄りの人がスイトンをつくった。サツマイモと小麦粉の団子がういたスイトンをバケツに入れて子供たちが交代で運んだ。そして順ちゃんと洋武の番がやってきた。
 その日に当番になった子ども達は早めに昼飯が与えられた。それは、子ども達が運ぶ途中でスイトンを食べてしまわないための予防策でもあった。全部で五つほどのバケツを二人づつこどもたちが並んで運んだ。洋武たちの組は一番小さな子供だったので、半分くらいしかはいっていないバケツだった。「こぼしてはいけません。サツマイモもお団子もちゃんと数えてあるんですから。こぼすと小父さんたちがいっそうお腹がへるのよ」。くどいほど注意をされた。
 日本人収容所に入れられての久しぶりの外出だった。順安の街は薄汚れていた。終戦までは牛車や馬車がとおり糞を道に落としたが、乾かしてオンドルの燃料にする朝鮮では近所の人が掃除をすることになっていた。日本人の子ども達もしばしば家の前の京義国道の掃除をさせられていた。しかし、そうした習慣も崩れたのだろうか、猫の死骸や割れた黒い甕などが無造作に道端に放り出してあった。
 順ちゃんは「ひどく汚れているね」といった。二人とも重いバケツを持つのがやっとだった。
 順安神社は想像もできないはど変わっていた。毎月八日の「大詔奉戴日」の参拝のとき息をきらして登った階段の傾斜のところの木々はみんな切り倒されていた。そして芝生が植えられて観客席になっていた。そして下の平らのところが広場になっていて、もうそこにはブランコの設備などが設置してあった。朝鮮では祭りなど何かあると女の人が原色のチマ(スカート)とチョゴリ(上着)を着て、クネ(高いブランコ)にサーカスのようにのった。またノルテギ(板をシーソーのようにして交互に高く飛びあがる板跳)くりかえしやっていた。それは日本人の子どもにとっても、はらはらさせる見世物であり見ていて飽きない遊戯だった。二週間後に迫ったお祭りのために突貫作業で日本人に広場を作らせていた。「あの神社が変ったね」。なにかがっかりした。
 シャベルやつるはしやそれにモツコを担いだりした大人たちが働いていた。子ども達の給食が到着するといっせいに休みになった。
 大人たちは、子ども達の持っていったスイトンを子どものようにむさぼり食べた。昼の時間はすぐ過ぎた。バケツをいっしよに運んだ上級生は先に帰っていった。二人は、はじめての参加でもありみんなからおくれて帰ることになった。
 帰りに空のバケツをもって帰り始めると、順ちゃんが「あつ。椙山君だ」と大きな声を出した。
 椙山君が急に出てきた。「君たちがバケツを運んでいたのを家から見ていたんだよ。それでお母さんに頼んで握り飯をつくってもらった」。
 そういえば椙山君の家は順安神社の続きにあった。森や木がいっぱいだったときには気づかなかったが、全部きり倒されてみると椙山君の家から見下ろすところに神社の広場があり、日本人が作業をしているところがあった。
 三人は、傾斜のある裏側に回った。そこからわが家がよく見えた。赤い屋根もそのままだった。「武ちゃんの家よく見えるね」と順ちゃんがいった。「いま保安隊の人が住んでいるよ」と椙山君が言った。林家は大きいうえに朝鮮式のオンドルも完備していて朝鮮人が入居を争っていると兄達から聞いたことがあった。
 椙山君の家の握り飯には朝鮮漬ともやしが混ぜてあり日本人の握り飯とは少し違っていた。それだけでおかずもいらない握り飯だった。二人はむさぼるようにしてその握り飯をたべた。
 「君たちたいへんだってね」。椙山君は少し言葉を落とした。
 「ぼくも日本人の学校に行っていたのでいじめられているんだ」。
 「ぼくの家ももうすぐお母さんの田舎に行くんだ。お父さんが面長で日本人に協力したということで○○に連れて行かれた」。
 椙山君はときどき朝鮮語をまじえて話をした。順ちゃんも洋武も聞き返すことがおおかった。椙山君は地面に「教化所」と書いた。洋武の父もその「教化所」に連れて行かれていた。それは刑務所のことだった。
 「みんなが来るのできっと君たちもくるのでないかと思って待っていたんだ。それにしても二人ともやせて病人みたいだ」。
 「ぼくたち食べるものがないんだよ」。
 「いま朝鮮人も食べるものがないんだよ。ロシヤが米をみんな持っていってしまったらしいんだ」。
 「新井君の家に遊びにいったけど誰もいなかったよ。このあいだ遊びにいったが家は空っぽだった。うちも面長公舎だから後はだれかほかの人が住むことになるね」。
 椙山君がいった。大きな新井君の家が空っぽになっているというのを想像できなかった。
 収容所に入れられた間の順安の様子を子どもなりに伝えていた。三人ともとめどもなく話しっていたかった。いつまでもそうしていたかった。しかし、二人の帰りが遅いので心配した上級生がもどって捜しにきた。
 上級生の 「お前ら早く帰って来い」。大きな声がきつかった。
 椙山君は手にしていた石をそっと投げて見せた。洋武は足下の石を蹴った。
 「内地に帰ったら手紙を書こうね。でもぼくたちほんとに内地に帰れるかどうかわからない」。順ちゃんが最後にそういってわかれた。

注1:練った小麦粉を手で引きちぎって 野菜と一緒に煮込んだ汁もの

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