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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・24 (林ひろたけ)

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通常 戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・24 (林ひろたけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/28 7:50
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 マダムダワイ・3

 話は一気に進む。洋武が日本に帰り高等学校に進学することになった。兄典雄は東京の自動車会社の旋盤工になって旧専門学校の物理学校からから新制大学の東京理科大学の夜学に通っていた。洋武は蒲田にあった典雄の下宿に転がり込んで高等学校に進んだ。
 「公立高校だからお金はあまりかからないようだ。もっと難しい学校もあるようだが田舎からいきなり入る学校だからこの程度がよいのでは」。典雄は洋武を高等学校に進めるためにすべての手立てを講じてくれた。洋武の進学した高校は都立小山台高校といった。公立ではあったが東京でも金持ちが行く学校だった。かなり後になって大金持ちになることを「田園調布に家が立つ」というギャグがはやったが、小山台高校はその田園調布の子女が通う学校だった。それだけに引揚者であった洋武のみすぼらしさは格別だった。学生服は木綿。学生帽は姉の手製だった。それでも家族みんなの力で高校に進学できたことを、洋武は感謝しながら高校に通った。通常洋武は遅刻することはめったになかった。昭和二七年(一九五二年)の初冬、武蔵小山の駅を降りたところ五分ほど遅刻をしていることに気づいた。高校は駅から裏門をとおり校庭を横切って校舎に入ったが、時間を過ぎるとその裏門は閉じられることになっていた。生徒たちは「遅刻門」とか「地獄門」とか言っていた。遅刻門が閉じられると、校庭の周りにめぐらせてあるコンクリートの塀にそってぐるりと回り正門から入らねばならなかった。その塀にはさまざまな広告が張り出され時々生徒たちで大掃除することになっていた。
 その塀にはその朝はりだされた「伝単」と呼ばれていたポスターがあった。
 「朝鮮の同胞を見殺しにするな!再軍備反対-・MSA協定反対-・全都高校生集会」。MSA協定というのは日米相互防衛条約のことをさし、当時の左派社会党や共産党は絶対反対を主張し政治の大きな対決点であった。「朝鮮の同胞」というところに赤い丸印が書いてあった。洋武はそのあまりきれいでないポスターに魅せられ足を止めた。電話番号をまず頭に叩き込んだ。塀の角を回ると二人の体育の先生と職員がその種のポスターだけをたわしでこすってはいでいた。「そこの生徒急ぎなさい」 と注意をされた。
 授業は数学だった。英語や国語は苦手だったが、数学だけは得意だった。若い先生の気合の入った授業も好きだった。授業は始まっていた。洋武の席は悪いことに一番前だった。そっと席に着いたが授業には集中できなかった。授業より塀のポスターの方が気になった。
 朝鮮戦争がはじまって新聞報道写真の戦乱にとまどう白い朝鮮服のオマニや子どもたちの姿に 「ざまみろ」 という気分がなかったわけではなかった。自分が朝鮮で受けたさまざまな苦難の仕返しをしている気分もあった。しかし、米軍と韓国軍が三十八度線を北に大きく押し返し、平壌が戦場になりあの順安のあった平原郡に米空挺部隊 (落下傘部隊) が降下したというニュースに接してから、洋武は朝鮮戦争の動向に無関心ではいられなかった。
 「あの順安が戦場になっている。朝鮮の人たちはどうしているのだろうか。椙山君たちは無事だろうか」。新聞を見るたびに朝鮮戦争の動向に敏感になっていた。新聞写真に載る、戦禍に逃げ惑う白い服を着たアポジやオマ二の姿に強い関心を持つようになっていた。ちょうどその頃、戦争は三十八度線上で膠着状態になり、鉄原 (三十八度線上の地名) を中心とする 「鉄の三角地帯」で激しい戦闘がくりかえされ北も南も大きな犠牲を払っていることが伝えられていた。視察にいったアメリカの国会議員団が 「われわれに見せるために悲惨な戦争を演出している」 という非難の談話が問題になっていた。

 その頃、蒲田の駅から羽田空港まで新しい家が建ち始めていたが、まだ焼け野原だった。駅前には、露天がずらりとならび露天街はなかなかにぎやかだった。朝鮮戦争が始まると焼け跡の屑鉄が高い値段をよび、屑鉄商が買い集めていった。洋武も月三百円の授業料の一部をだそうと日曜日には屑鉄を拾い集めては屑鉄商に売って小遣いを稼いでいた。朝鮮戦争特需が日本経済を立て直したといわれていたが、末端まで浸透をし始めていた。
 当時の高校生の話題の中心は「なぜ戦争が起きるのか。どうすれば戦争をなくすことができるのか」だった。洋武は、お金がなかったので学校のすぐ近くにある武蔵小山の映画街に立ち寄ることはなかったが、チャップリンの映画を見てきた友人たちが熱心に「一人を殺せば殺人罪になるのに、何万人という人が殺し合う戦争は、なぜ殺人罪が適用にならないのか」という話題を提供してみんなで論議をしていた。
 ちょうど、総選挙があった。総選挙は日本の再軍備と朝鮮戦争が大きな争点だった。高校生たちも選挙への関心は高かった。武蔵小山駅前には衆議院の候補者達が代わるがわる演説をしていった。学校のなかでもどこからともなく「今日の昼休みには加藤勘十と松岡駒吉がくるらしい」など情報がはいった。加藤は左派社会党で、松岡は右派社会党の幹部で学校のある選挙区から立候補していた。
 昼休みに学生たちはその演説を聞きにいった。加藤勘十が「青年よ再び武器を取ってはならない」という演説をすると拍手が起こった。そこに、松岡駒吉がやってきた。加藤勘十は「松岡君もう少しまってくれ」といってまた演説を続けた。この選挙で二人とも当選した。選挙が終っても、しばしばこの政治問題が生徒たちの話題になっていた。
 洋武は「自分にも戦争をやめさせるためになにか出来ることがあるのではないか」と考える少年になっていた。
 突如、教室が大きな笑い声に包まれ隣の友達がいやというほど激しく突っついた。洋武は立ちあがったが何のことかわからなかった。「今日の林はおかしい。次ぎ」先生も笑いながらとばした。先生になにか当てられたらしい。授業がおわると友人達が冷やかしにきた。「先生は『林は遅刻はするし、指しても返事がないし、初恋の苦しみに耐えているらしい』といっていたのだよ」。
 洋武はそんな先生の言葉もわからないほど朝のポスターのことを考えていた。
 その日の授業が終ると公衆電話をかけた。まだ電話が珍しかったころである。公衆電話からの電話をかけることに勇気がいった。若いお姉さんの声で「武蔵小山の商店街はずれの貸本屋にくるように」と指示された。そこにいた若いお姉さんは、顔と帽章をみると怪訝な顔をした。「あなた、小山台高校の学生。そう話しておくから明日またおいで」。翌日、足を運んで小さな紙を渡された。あとで思い返してみると洋武は熱意を試されていたのだった。当時、平和とか戦争反対とかいう集会は警察の鋭い追及が続いていた時代だった。新聞には毎日のように「占領軍違反文書をもった職工を逮捕した。」 「逃走していた共産党員○○が警察につかまった。」などの記事がでていた。その中で、決起集会に参加しようという高校生にそのお姉さんも試したかったに違いなかった。決起集会のある場所の地図と日時が薬の包み紙のような小さな紙に書いてあった。
 確か土曜日の夕方だった。山手線大崎駅を降りてその場所はすぐわかった。焼け残った二階建ての小さな学校のような建物だった。参加者は十数名だった。しかもみな小父さんのような高校生だった。構成といい、人数といい「全都高校生集会とは縁遠いなあ」と思っていた。そこに集まった人たちの多くは定時制(夜学)の高校生達だった。小父さんたちは代わるがわるに立ちあがって難しいことを演説していた。
 最後に「民族の自由を守れ」という歌を歌った。洋武はまだ一度も聞いたことのない歌だった。
 しかし、行進曲風の元気のよいものだった。「民族」という歌詞が何度もでてくる歌だった。「民族独立行動隊の歌」だった。もう一つは、「平和、平和、平和を守れ」というリフレインがいつまでもつづく歌だった。「朝鮮戦争を中止して、朝鮮に平和を!」といった熱意だけは伝わってきた。私の耳には「民族」と「平和」の言葉の響きが快く残った。高校を卒業して大学に進んだ洋武は「平和!戦争準備をやめさせよう。アメリカの核実験反対」という学生自治会運動の一員として、平和運動に参加するようになり、そして日本共産党員になっていた。

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