戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・29 (林ひろたけ)
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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ) (編集者, 2008/7/5 9:05)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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飢えと寒さが迫ってきた・3
洋武がボルシチを食べたのはそれから十数年たってロシヤ民謡を歌う東京の喫茶店だった。値段は高かったがそうおいしいものとは思わなかった。しかし、それからさらに数年たってこの会話が当時の朝鮮人の政治的な会話であったことを知った。
日本の敗戦後、朝鮮のあり方についてアメリカは朝鮮の国連による信託統治《注1》を提案していた。日本帝国主義三六年の支配から解放された朝鮮人の多くは「解放すなわち独立」と期待していただけに、朝鮮の世論はこの信託統治提案に激しく反対していた。結局、終戦の年の十二月、米英ソの三国外相会議で朝鮮人の意思を無視して、五年間の信託続治が確認された。そのときに南朝鮮である学者が 「アメリカの監督もロシヤの監督もいらない。朝鮮はすぐ独立すべきだ。どんなに栄養のあるアメリカのステーキであろうと、ロシヤのボルシチがおしいそうに見えようともそんなものはいらない。われわれにはキムチがあるではないか」と演説して万雷の拍手と泣き声で迎えられたという。そしてしばらく当時の朝鮮人の共通したスローガンになっていた。朝鮮共産党(まだ労働党とは名乗っていなかった)はソ連が承認したということもあって、この「五年間信託統治」案に賛成していた。当時、南朝鮮では「信託統治」案に賛成した朝鮮共産党は世論の袋叩きにあっていた。北朝鮮の片田舎にいたチーネにどういうルートで伝わったかしらない。しかし、まだ南北のさまざまな交流があったことを思えば、きっとチーネのこの発言はこうした米ソの大国のやりかたに強く反発した会話だったのでないかと思う。洪泰保もこうしたソ連のやり方に反発していたのかも知れない。ハナは政治的内容はともかくこの会話をしばしば思い返していた。
結局、お米は分けてもらえなかった。大豆一升を十五円で母は買い取った。「高くなったね。もう十倍にもなったね。」ハナは嘆いていた。「米はもっとすごいの。奥さんこれも原価だからね。豆も粟もものすごくあがっているの」。チーネは弁解しながらお金を受け取った。おからはただでわけてくれた。
「その代わり家で生まれたばかりの卵をあげましよう。武ちゃん少しでも元気になってね」。そういって裏庭の鶏小屋にはいり、コッツコッツ騒ぐ鶏をかきわけて、産んだぼかりの三個ほどの卵を新聞紙に包んでくれた。おからのなかにいれて「壊れないようにね」と念を押した。新聞は漢字とハングル文字がまじった新聞だった。ハナは卵をもらったことを「いま一つ五円もするんだよ」とたいへん喜んでいた。
「もう来ないでね。みんなにいじめられるから」。チーネはそういって二人を送り出した。
終戦前でも卵は貴重品だった。遠足か運動会に母が作ってくれる卵焼きは子ども達にとって憧れのおかずだった。たくさんの卵を使うマヨネーズは飛びきりの贅沢な料理だった。収容所にもどってきたとき、私はその日の夜の食事のスイトンにでも「かき卵」をしてもらえるものだと思っていた。しかし、母は一個を和雄に 「人に見られないように、早く食べなさい」と渡した。そして残り二つをもって「洋武はがまんしてね。結核の薬だから」といって順ちゃんの家にもっていった。洋武は激しく泣いて抗議したが聞き入れられなかった。「順ちゃんの父さんもう危ないのよ。おばさんが、生卵でもあったらと、この間嘆いていたの。順ちゃんのお父さんの薬だから我慢するのよ」とエプロンに包むようにして順ちゃんの家に行ってしまった。
戦前、結核の薬はなかった。肝油を飲むのがせいぜい薬らしかった。あとは生卵とか生牡蠣とかを食べて栄養をつけて絶対安静するしかなかった。順ちゃんのおばさんが「生卵の一つでもあれば」 といつも言っていた。
従来から順安にいる人達はまがりなりに食糧を時々どこからか手に入れることができた。満州からの避難民は順安に何のつてもなく配給の粟と大豆滓とふすまで飢えを凌ぐ以外なかった。
河村さん一家もそうした一家だった。満州から避難してくるとき出きるだけの貴金属をもって逃げてきたが、それも次々に売り食いにまわされていた。ハナはできるだけ朝鮮人から手に入れた食糧を河村さん一家や菊村さん一家にまわしていたが、林家自身がひどい飢えの状態だった。
河村さんのおばあちゃんは、そこにいるのかどうかもわからにような人だった。同じ狭い舞台で暮らしていても印象に残らないもの静かな人だった。そのおばあちゃんが肺炎になったのは正月早々だった。周囲がばたばたしていた。
「カンフルでもあれば何とかなるが。なんにもないんだよ」そういいながら、辻村先生がおばあちゃんをみていた。辻村先生は満州建国大の医学部の最終学年でいつのまにか日本人会のお医者さんになっていた。おばあちゃんが死にそうだという噂がひろがり、子供達が無遠慮にわが家のスペースを越えて、おばあちゃんの苦しむ様子をのぞきこみに来るようになった。私は両手を広げて「見世物でない。来るな」と子供達の侵入を防いだ。
ところが、そのなかの子のお母さんがやってきて、「うちの子をいじめているのはお前さん。うちの子をいじめたら承知しないから」と大阪弁でまくしたてた。典雄がこれをみて、その母親に激しく言い返した。「人の死を見に来るのをとめるのは当然じゃないか」。そのときにそのおばさんは少しひるんだが「こんな家だからおとうさんが刑務所につれていかれるのよ」捨て台詞を残して去っていった。
おばあちゃんは重態になって一日でなくなった。人の死がめずらしかったのは河村のおばあちゃんまでだった。それからお年寄りが次々となくなった。葬式らしきものはまったくおこなわれなかった。
敗戦になるまで順安で日本人が死ぬことはほとんどなかった。みな若かったせいもあるし、病気が悪くなると内地に帰ってしまった。洋武も日本人のお葬式も見たことはなかった。日本人墓地も小さくて十分なものではなかった。
和雄達は日本人墓地に遺体を運んだ。すでに土地は固く凍っていて鶴嘴もないから思うように深く掘れなかったと嘆いていた。
「せまい日本人墓地に穴を掘るから、昔死んだ人の骨が出るんだ。気持ちが悪いのはこの上もない。スコップでは深くは掘れないから浅く掘っているから暖かくなると野良犬や狼が遺体を掘り起こしてしまう」。兄たちの話に洋武はふるえるほど怖かった。
順ちゃんのお父さんは、それから一週間もしないうちになくなってしまった。結核で死んだので、順ちゃんの家の布団は外に干されていた。子供達はその布団をみると鼻をつまんで息をしないようにした。順ちゃんも恵子ちゃんも美代子ちゃんも誰も遊んでもらえなかった。わが家は和雄が結核だったのでそうした偏見はなくて順ちゃんの家との付き合いは絶つことはなかった。
北朝鮮の冬の寒さは特別だった。寒暖計はなかったので零下何度まで下がったのかわからなかった。晴れた乾燥した日が続き、それだけ気温は一気に下がった。普通江も水溜りも便所もカチカチに凍っていた。日本人達はみんな寒さで眠れない夜がつづいた。
注1:国際連合の信託を受けた国が 国際連合総会及び 信託統治理事会による監督により 一定の非独立地域を統治する制度
洋武がボルシチを食べたのはそれから十数年たってロシヤ民謡を歌う東京の喫茶店だった。値段は高かったがそうおいしいものとは思わなかった。しかし、それからさらに数年たってこの会話が当時の朝鮮人の政治的な会話であったことを知った。
日本の敗戦後、朝鮮のあり方についてアメリカは朝鮮の国連による信託統治《注1》を提案していた。日本帝国主義三六年の支配から解放された朝鮮人の多くは「解放すなわち独立」と期待していただけに、朝鮮の世論はこの信託統治提案に激しく反対していた。結局、終戦の年の十二月、米英ソの三国外相会議で朝鮮人の意思を無視して、五年間の信託続治が確認された。そのときに南朝鮮である学者が 「アメリカの監督もロシヤの監督もいらない。朝鮮はすぐ独立すべきだ。どんなに栄養のあるアメリカのステーキであろうと、ロシヤのボルシチがおしいそうに見えようともそんなものはいらない。われわれにはキムチがあるではないか」と演説して万雷の拍手と泣き声で迎えられたという。そしてしばらく当時の朝鮮人の共通したスローガンになっていた。朝鮮共産党(まだ労働党とは名乗っていなかった)はソ連が承認したということもあって、この「五年間信託統治」案に賛成していた。当時、南朝鮮では「信託統治」案に賛成した朝鮮共産党は世論の袋叩きにあっていた。北朝鮮の片田舎にいたチーネにどういうルートで伝わったかしらない。しかし、まだ南北のさまざまな交流があったことを思えば、きっとチーネのこの発言はこうした米ソの大国のやりかたに強く反発した会話だったのでないかと思う。洪泰保もこうしたソ連のやり方に反発していたのかも知れない。ハナは政治的内容はともかくこの会話をしばしば思い返していた。
結局、お米は分けてもらえなかった。大豆一升を十五円で母は買い取った。「高くなったね。もう十倍にもなったね。」ハナは嘆いていた。「米はもっとすごいの。奥さんこれも原価だからね。豆も粟もものすごくあがっているの」。チーネは弁解しながらお金を受け取った。おからはただでわけてくれた。
「その代わり家で生まれたばかりの卵をあげましよう。武ちゃん少しでも元気になってね」。そういって裏庭の鶏小屋にはいり、コッツコッツ騒ぐ鶏をかきわけて、産んだぼかりの三個ほどの卵を新聞紙に包んでくれた。おからのなかにいれて「壊れないようにね」と念を押した。新聞は漢字とハングル文字がまじった新聞だった。ハナは卵をもらったことを「いま一つ五円もするんだよ」とたいへん喜んでいた。
「もう来ないでね。みんなにいじめられるから」。チーネはそういって二人を送り出した。
終戦前でも卵は貴重品だった。遠足か運動会に母が作ってくれる卵焼きは子ども達にとって憧れのおかずだった。たくさんの卵を使うマヨネーズは飛びきりの贅沢な料理だった。収容所にもどってきたとき、私はその日の夜の食事のスイトンにでも「かき卵」をしてもらえるものだと思っていた。しかし、母は一個を和雄に 「人に見られないように、早く食べなさい」と渡した。そして残り二つをもって「洋武はがまんしてね。結核の薬だから」といって順ちゃんの家にもっていった。洋武は激しく泣いて抗議したが聞き入れられなかった。「順ちゃんの父さんもう危ないのよ。おばさんが、生卵でもあったらと、この間嘆いていたの。順ちゃんのお父さんの薬だから我慢するのよ」とエプロンに包むようにして順ちゃんの家に行ってしまった。
戦前、結核の薬はなかった。肝油を飲むのがせいぜい薬らしかった。あとは生卵とか生牡蠣とかを食べて栄養をつけて絶対安静するしかなかった。順ちゃんのおばさんが「生卵の一つでもあれば」 といつも言っていた。
従来から順安にいる人達はまがりなりに食糧を時々どこからか手に入れることができた。満州からの避難民は順安に何のつてもなく配給の粟と大豆滓とふすまで飢えを凌ぐ以外なかった。
河村さん一家もそうした一家だった。満州から避難してくるとき出きるだけの貴金属をもって逃げてきたが、それも次々に売り食いにまわされていた。ハナはできるだけ朝鮮人から手に入れた食糧を河村さん一家や菊村さん一家にまわしていたが、林家自身がひどい飢えの状態だった。
河村さんのおばあちゃんは、そこにいるのかどうかもわからにような人だった。同じ狭い舞台で暮らしていても印象に残らないもの静かな人だった。そのおばあちゃんが肺炎になったのは正月早々だった。周囲がばたばたしていた。
「カンフルでもあれば何とかなるが。なんにもないんだよ」そういいながら、辻村先生がおばあちゃんをみていた。辻村先生は満州建国大の医学部の最終学年でいつのまにか日本人会のお医者さんになっていた。おばあちゃんが死にそうだという噂がひろがり、子供達が無遠慮にわが家のスペースを越えて、おばあちゃんの苦しむ様子をのぞきこみに来るようになった。私は両手を広げて「見世物でない。来るな」と子供達の侵入を防いだ。
ところが、そのなかの子のお母さんがやってきて、「うちの子をいじめているのはお前さん。うちの子をいじめたら承知しないから」と大阪弁でまくしたてた。典雄がこれをみて、その母親に激しく言い返した。「人の死を見に来るのをとめるのは当然じゃないか」。そのときにそのおばさんは少しひるんだが「こんな家だからおとうさんが刑務所につれていかれるのよ」捨て台詞を残して去っていった。
おばあちゃんは重態になって一日でなくなった。人の死がめずらしかったのは河村のおばあちゃんまでだった。それからお年寄りが次々となくなった。葬式らしきものはまったくおこなわれなかった。
敗戦になるまで順安で日本人が死ぬことはほとんどなかった。みな若かったせいもあるし、病気が悪くなると内地に帰ってしまった。洋武も日本人のお葬式も見たことはなかった。日本人墓地も小さくて十分なものではなかった。
和雄達は日本人墓地に遺体を運んだ。すでに土地は固く凍っていて鶴嘴もないから思うように深く掘れなかったと嘆いていた。
「せまい日本人墓地に穴を掘るから、昔死んだ人の骨が出るんだ。気持ちが悪いのはこの上もない。スコップでは深くは掘れないから浅く掘っているから暖かくなると野良犬や狼が遺体を掘り起こしてしまう」。兄たちの話に洋武はふるえるほど怖かった。
順ちゃんのお父さんは、それから一週間もしないうちになくなってしまった。結核で死んだので、順ちゃんの家の布団は外に干されていた。子供達はその布団をみると鼻をつまんで息をしないようにした。順ちゃんも恵子ちゃんも美代子ちゃんも誰も遊んでもらえなかった。わが家は和雄が結核だったのでそうした偏見はなくて順ちゃんの家との付き合いは絶つことはなかった。
北朝鮮の冬の寒さは特別だった。寒暖計はなかったので零下何度まで下がったのかわからなかった。晴れた乾燥した日が続き、それだけ気温は一気に下がった。普通江も水溜りも便所もカチカチに凍っていた。日本人達はみんな寒さで眠れない夜がつづいた。
注1:国際連合の信託を受けた国が 国際連合総会及び 信託統治理事会による監督により 一定の非独立地域を統治する制度