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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・27 (林ひろたけ)

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通常 戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・27 (林ひろたけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/7/31 7:58
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
  飢えと寒さが迫ってきた・1

 十二月になると治安は少し良くなった。順安の駅前にソ連軍の憲兵隊《注1》がついて、ソ連兵の蛮行が規制された。朝鮮人の日本人いじめも納まり始めた。収容所のまわりの保安隊の巡回はなくなり外出禁止もゆるやかになった。
 その一方、日本人収容所には飢えと寒さがいっそう深刻になってきた。朝鮮当局からの配給は、粟と高梁が少しと豆かす(豆の油を絞ったかす)か、ふすま(小麦のぬか)が主なものになった。安田さんは演説の中で「戦争中の朝鮮人への配給はこんなものだった」といっていたが、日本人たちの間には、明らかに飢えが始まっていた。
 順安駅前の元の「日通」の事務所にソ連軍の屯所《注2》が置かれたが、それは近隣から米を集めてきて、列車に積み込みソ連に向けて送り出すためでもあった。トラックが順安周辺から連日のように米を集めてきては長蛇の列をなした。男性は米を貨車に詰め替える使役に狩り出された。兄達は「トラックはみなGM(ゼネラル・モータース)だ。アメリカ製のトラックだ。ソ連はアメリカからトラックをせしめて戦争をやったんだ」など話していた。この使役は、報酬がなかったが男達は次々に応じた。朝鮮の農家から集めてきた米を、トラックから貨車に積み替える作業だった。みんな竹筒を用意していた。そして、米俵を積み替えるとき、竹筒を俵に差込み作業服のなかに取り込んでいた。米は籾米だった。誰かが一升ビンにいれてつきだすと白い米になるということで作業がはじまったが、瞬く間に収容所で米つきが始まった。これは子供でも出来る作業だった。みんな夜になると、せっせと米をついた。もちろんその量はわづかなものだったがそれでも飢えをいやすのに役立った。ただ、男のいない家では米にはありつけなかった。林家は、晋司は刑務所に連れて行かれていたが、兄達二人が籾米を稼いできた。順ちゃんのところと同じ舞台にいる河村さんにもおすそ分けした。わずかなお米だったが、そのたびに順ちゃんの小母さんは涙を出してお礼をいった、
 米の集積と積み替えはかなり長期につづいた。和雄達はソ連兵がいかに計算に弱いかをよく笑った。「下に十俵並べて十段つめば五十五になるくらいわかりそうなものを一つ一つ数えないとわからない。よくあれで戦争に勝てたものだ」など悪口を言った。
 駅前の屯所に駐留したソ連兵はそれまでの野蛮な兵隊とちがっていた。略奪や女性への暴行はしなかった。そんなソ連兵たちにわたしたち子供は、さっそく「パンダワイ」などいってまつわりついた。どこで知ったか覚えていないが黒パンのことをフレープと言うことも知った。大人たちの心配をよそに黒パンをせしめに行った。
 なぜか洋武が「フレープダワイ」というとソ連兵がおおじてくれた。だから洋武がソ連兵の屯所に行くときには、順ちゃんはじめ数名の子供達といっしよだった。子供達が見守る中ソ連兵は、こどもの数を何回もかぞえてそれに合わせてナイフで箱枕のようなパンをきり、厚さ一センチぐらいの黒パンを分けてくれるようになっていた。ソ連兵たちは一様にひまわりの種を食べた。ちょぅどチユウインガムをかむようにひまわりの種を口に入れ滓を土間にもそこらに吐き散らかした。
 そのひまわりの種を子ども達にもわけてくれた。ひまわりの種は朝鮮では珍しいものではなかった。しかし、それまで食べるものとは考えていなかった。飢えているときには何でもおいしかった。お互いに言葉はわからなかった。でも「スターリン・ハラショ」(すばらしいスターリン)程度のことは意味がわかった。また、ベルリン、ベルリンといってマンドリン小銃をパンパンと振り回し、弾をよけるしぐさをしてあと「ウラーウラー」といった。ベルリン攻略に参加した兵隊達のようだった。パンをもらうことでソ連兵も悪い人ばかりでないと思うようになった。
 ハナは、収容所暮らしがはじめると、真っ先に食糧の確保のためにあの「支那人(中国人)の農場」を訪ねた。「支那人の農場」は、草ぼうぼうになっていて主の支那人(中国人)はすでにいなかった。戦争が終わって中国に帰ったのだろうか。やっぱりあの中国人は中国のスパイだったのだろうか。日本人の間で噂になっていた。
 五日ごとにたつ定期市場も戦争中は中止していたが再開されていた。林家では相次ぐ略奪で現金は全くなかった。順安神社の使役が終り、ソ連軍の米の積み出しが終ると、男達はバラバラに朝鮮人のヤンバンたちの仕事の手伝いにいくことになっていた。和雄や典雄たちが使役で稼いでくる朝鮮人の半分にもならない賃金で文字通り糊口《ここう=注3》をしのいでいた。使役に出て得たお金の十五%は、日本人会に収めなければならなかった。日本人会の会計役は栗本鐵工所の増山さんだった。
 増山さんは十五%の取り立てが厳しいと言うことで評判は悪かった。同じ日本人のなかでも砂金会社や栗本鐵工所の人たちは、林家のように現金の略奪にはあわなかった。わずかの現金で市場に出かけて買物をしてくる人達もいた。
 正月になっても正月らしいことはなにもなかった。ハナは一人三着しかない下着の一つをそれぞれ洗濯して家族に著させたのがせめての正月らしさだった。大人達は一日だけ休みで収容所にいたが、また出かけて行った。どこの家にもご馳走はなかった。
 ただ、林家にはすこしうれしいことがあった。それは、終戦前の春、人手が足りないからといってハナが田植えの手伝いにいった小作人から白米の差し入れがあった。オマ二の夫は徴用からまだ帰っていなかった。日本人の小作人は、小作していた土地が自分ものになるという新しいソ連の決定で農民達に歓迎されていたようだった。オマ二はその春、地主なのに田んぼに入って田植えを手伝ってくれた林家に差し入れをもってきてくれたのだった。
 オマニは、「昨年は日本人の土地が自分のものになったが、今年は朝鮮人のヤンバンの土地も自分のものになるようだ。夫がいなくても小作を続けていてよかった」と喜んでいた。北朝鮮では農地改革が進み始めていたのだった。「共産主義は、私有財産否定なのね」とハナはその話を悔しそうに家族に報告していた。
 米の差し入れがあったことを伝え聞いた日本人会の会計をしていた増山さんがすぐやってきた。
 「林さんにお米が届けられてそうだが、日本人会の決まりで一度『会』にいれてもらうことになってまっせ。病人に配給することになっている」。ハナはムッとして抵抗したがダメだった。麻袋に入っている一斗はどのお米は隠しようがなかった。一升ほどわが家でとって、後は日本人会に供出された。
 「菊村さんのところは、戦争中も宝石や貴金属を買い溜めていたのでなんとかやっているらしい。
 わが家ではお父さんがこんな人だから宝石など贅沢はとんでもないといって、お金があれば国債を買うか貯金をするかで、戦争が終われば紙くず同然だった。それだけたいへんなのよ」とハナは嘆いた。菊村さんはそれまで朝鮮人の昔の部下がこっそり食糧をもってきているという話もあった。そうした差し入れも日本人会が一括して管理をしてみんなにわけることになっていた。

注1:主に軍隊内部の秩序と交通整理を任務とする隊
注2:兵隊達がたむろする所
注3:どうにか生計を立てて暮らす

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