戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・23 (林ひろたけ)
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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ) (編集者, 2008/7/5 9:05)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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マダムダワイ・2
あわただしい雰囲気の中、わが家だけ急にクラブの方に移ることになった。四家族一緒の生活のなかで父の酒乱が他の家族からきびしく問題になり、林家はクラブの広間に移されることになった。林家はクラブの舞台のスペースが与えられた。社宅は追い出されたが順安の名士としての配慮もあったのだろう。舞台の上に回された。
クラブに移るときは、晋司は可愛そうなぐらいハナや子供達に「もう酒もタバコもやめる」と謝っていた。子ども達への鉄拳制裁はまったくなくなっていた。しかし、クラブに移ってからも、時々どこからか酒を手に入れてきてはこっそり飲んでいた。匂いがたちこめるとまわりの人達の羨望と激しい非難の目が集中したが、それでも晋司は酒を止められなかった。
クラブは日本人国民学校の学芸会が開かれていた場所だった。だから順安の日本人達はみなよく知っていた。小学校の講堂ぐらいの大きさで半分は畳があり、半分は板の間の百畳ほどの広さだった。そこは柔道の練習も剣道の練習もできる構造になっていた。板の間に満州からの避難民が、畳のところに従来から順安にいた人達が入っていた。この講堂には舞台がついていた。舞台の上に従来の日本人社会の代表格だった林家と満州からの避難民の代表格だった新京で国民学校の校長先生だった河村さん一家が入っていた。さらにおばあちゃんと乳飲み子のいる若いお嫁さんのいる日野さん一家が占めていた。
クラブには内地からお客がきたときにとめる座敷の個室が別に三部屋ほどついていた。順ちゃんたち一家はその部屋の一番奥の六畳の間にはいっていた。順ちゃんのお父さんは結核が再発して寝ていることが多かった。家族だけで一部屋に入れるのは一番の贅沢だった。
ハナは「順ちゃんと遊んでもいいけど、菊村さんの部屋に行ってはいけないよ」それからいいにくそうに「結核がうつるといけないから」。そうつけ足した。
わが家と舞台を分けていた河村さんの一家は五〇歳過ぎだった校長先生夫妻と、おばあちゃんと二〇歳前後の姉妹だった。姉妹はみんながそうしたようにソ連兵の女性狩にそなえて頭を坊主にして、色の白いきれいな姉妹だった。お姉さんは京都の女子大の学生だった。夏休みに危険をおかして満州に帰ったときにソ連の参戦、そして順安に避難してきていた。妹は高等女学校をでてお父さんの学校で先生になったばかりだった。晋司はこの姉妹が気に入っていた。 酒を飲むとときどき領分を侵して河村家のところまででかけて「俺の息子は京都帝大の電気科に行っている。日本に帰ったら、この息子の嫁になってほしい」などいうものだから和雄があわててつれにいったりした。
林家がクラブに移るころから、ソ連兵の襲撃はいっそう激しくなった。ソ連兵の襲撃があると、電気が消された。真っ暗な中、クラブには、玄関があり廊下があったからそこでソ連兵を出迎え玄関口で、男達が腕時計やらチョットした宝石やらを渡して帰ってもらっていた。ある日、突如として廊下に二人ほどの突っ立っていたソ連兵を発見した。もうすべてが手遅れだった。赤ちゃんが急に泣き出した。母親がその子を引き寄せようとしたとき、それがソ連兵らには女性とわかったのだろう、いきなりその親子に向けて自動小銃が発射された。親子はそこにいた日本人数十人の前であっという間に殺されてしまった。赤ちゃんの足がピクピクと動いてとまった。満州からの避難民の若いお母さんと赤ちゃんだった。そのとき日本人のなかから怒りと悲鳴がワーツと広がった。若いまだ子供のような鼻が空を向いていたソ連兵は、その声におされたように逃げるように去っていった。脱力感と屈辱感ががみんなの心を支配していた。
朝鮮や満州からの避難記録の中で「ソ連兵は赤ちゃんの泣き声がきらいだからソ連兵が近づいたらお尻のつねって赤ちゃんを泣かした」とか「ソ連兵はギリシャ正教が多く彼らは赤ちゃんをつれた母親を襲わなかった」などいう記録があった。ソ連兵が赤ちゃんの泣き声に異常に反応することは朝鮮人からすでに言い伝えられていた。しかし、ここでは全く逆に反応した。身に寸鉄もおびていない赤ちゃんまで殺してしまうその残虐性と野蛮さに日本人のおびえは大きく広がっていった。
満州から避難してきた女性達には青酸カリが配られていて、もしもソ連兵などに侵されたら、それをすぐ飲んで自殺して大和なでしこの操を守りなさい。といわれていることが噂みたいに流れていた。
洋武が長じて日本共産党の一員になったことを知ったハナは「あのときの露助を忘れたのか」といって詰め寄った。洋武は「戦争が悪いのだ。戦争さえしなければあんなことは起こらなかった」とこたえるのがやっとだった。しかし、洋武もソ連を好きにはなれなかった。当時の日本共産党には、まだソ連のことを「ソ同盟」という人が多かったが、「ソ連は嫌いだ」といって党内で騒動になったことがあった。ハナは晩年になって日本共産党に理解を示し支持するようになったが、ソ連兵やソ連のことを「露助」と呼ぶことをやめなかった。
「露助」とは日露戦争以来のロシヤ人への蔑称だった。戦争は庶民の憎しみをいつまでも残した。