戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・28 (林ひろたけ)
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居住地: メロウ倶楽部
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飢えと寒さが迫ってきた・2
旧正月も近い寒い日、ハナは洋武をつれて、昔林家でチーネ(お手伝いさん)だった人の家を訪ねた。洋武を連れ出したのは、チーネの時、洋武を大事にしてくれたお姉さんだったからだ。冬の寒い朝、「寒いよ!」と泣くと、チーネはオンドルのかまどのところに連れていってチマ(スカート)で洋武の体をすっぽり包み、自分の手を火にかざし暖かくなった手で小さな手を包んでくれた。晋司が招集中でハナが忙しく子どもをかまってくれない時だったので、その手のぬくもりはいつまでも忘れられないものだった。国民学校に上がる前、二〇までの数を数えられないのでハナがたいへんがっかりしていた。そのときにもチーネは、洋武に二〇まで数えられるように何回も一生懸命に教えてくれた。
チーネの家は京義国道の沿線にあった。街には韓国旗(大挙旗)はもうなかった。そして赤旗があちこちに出ていた。
チーネは二人をみると 「武ちゃん元気。やせてしまったネ」と声をかけてきた。チーネにたいしてハナは 「りさん」 と呼んだ。チーネの名前が 「李さん」 と初めて知った。
チーネの家の土間は国道から少し低い位置にあった。土間にある小さないすに座り込んでしまうとちょうど国道の砂利道が目の高さにあった。二人が土間の入り口で国道を背にして、チーネのりさんは国道の方を向いて話していると、通りを数人のソ連兵が通っていた。
「奥さんそこしめて」 「あなた方も襲われるの」
「もうすごいの。この前も昼間、その先の姉さんがやられそうになって、ソ連の憲兵がきてそのソ連兵をみんなの見てる前でピストルでバーンと打ち殺したのよ。日本人の支配よりひどいの」
チーネは顔を歪めた。ハナは「日本人よりひどいって、日本人はそんな悪いことしていないわよ」 と抗弁したが、チーネはしまったという顔をしただけだった。
チーネの家は豆腐屋さんだった。ハナは豆と米をわけてほしいと頼んだ。「いまね、ロシヤが米を集めているの。米がなくなって、値段もものすごくあがっているの。とてもわけてあげられない」 と激しく首をふった。
ハナと話しながらチーネは仕事の手を休めなかった。豆が臼で引かれ、豆乳が出来ていた。「武ちゃん、みていてね、今にごりをいれるとね。かたまってくるよ」。チーネは昔のようにやさしかった。湯気が激しくあがるなか豆乳はみるみる固まって水の中に白い塊が浮き出した。
「これおいしいの。食べる」といってハナと洋武に真鍮のサバリ(お椀)にすくった。豆腐の固まりきれない塊は初めてだった。飢えている私たちにおいしくないものはなかったが、それでも、この世にこんなおいしいものがあるのかと思った。
ハナとチーネは長い間話していた。ハナは安田さんこと洪泰保が、どんなに日本人に特に林家にひどいことをしているかを訴えていた。
チーネは安田さん洪泰保とその後も付き合いがあるらしかった。
「私たちは日本から独立したかっただけよ。だって日本人はよその国に来て威張っていたものね。朝鮮人は昨年からもう米がなくてたいへんだったのよ。イルポンサラム(日本人)が白いご飯を食べている時、私たちは粟ご飯だったのよ。それにヨボ、ヨボと朝鮮人をバカにしてきたのよ。私たちそれだけでもたまらなかったのよ。日本が戦争に負けて、今度こそ独立できると思うの」。
ヨボセヨというのは「もしもし」という朝鮮語だったが、いつのまにか日本人は朝鮮人のことを「ヨボ」というようになった。それは「鮮人」など言われるよりいっそうきつい差別語だった。
ハナはめったに使わなかったが、それでも 「ヨボの乞食がきた」などやはり差別語として使っていた。朝鮮が日本人にとって 「よその国」というのをはじめて聞いた。私たちは朝鮮が日本国だと信じて疑わなかった。日本軍のおかげで大東亜共栄圏の国々が独立したと先生から聞かされても、朝鮮や台湾が独立するなど考えても見なかった。「内鮮一体」 という言葉が私たちの常識になっていた。
ハナは突如として 「まあ。あなた達もアーメンだったの」 と声を上げた。「別に入信していたわけではないのだけど、義明学校にはお世話になったのよ」。チーネは答えた。チーネは普通学校四年を終えると義明学校にかわった。しかし、入ったその年に義明学校は廃止になった。「あの学校はお金のない家からお金をとらなかった。義明学校は教会が運営していたでしょう。教会の農場で牛を飼って子ども達にその世話をさせたり、牛乳配達をさせながら学校に行かせたの。安田さんも牛乳配達しながらあの学校を終えたの。私もお金がなかったからあそこに行こうと思ったのだけど学校が廃校になり、それで奥さんのところに働きにいったのよ」。安田さんもチーネも義明学校にかかわっていたことを、母もはじめて聞くような様子だった。いつか和雄兄さんが義明学校のことをアメリカ人のスパイが経営していたといったことがあったが、チーネの話はそれとは正反対で朝鮮人に歓迎されていたようだった。
朝鮮人には普通学校があったが、すべての子ども達が行っているわけではなかった。そして、特に女性で学校に行く人は少なかった。「チーネは頭がよくて、気がつく」とハナはしばしばいっていた。
チーネはそれにいろいろ安田さんの立場を弁護していたらしかった。日本人のハナが洪泰保というのに朝鮮人のチーネが安田さんというのがおかしかった。チーネの説明によると洪泰保は、万歳事件の犠牲者の遺児ということで保安隊長になったが「安田さんはキリスト教だから、いまたいへんなのよ」と立場が複雑であることを弁解していた。安田さんがキリスト教だと言うことも初めて聞くことだった。キリスト教は禁酒運動をしていたが安田さんはそういえばお酒を飲まなかった。
日本の敗戦とともにそれまで地下に潜っていたキリスト教関係者や共産党関係者は一斉に舞台に登場した。安田さんもその一人だったようだ。順安では、八月十六日その日に動きが始まったことでも終戦を前に地下では準備が進められていたようだった。
しかし、北朝鮮ではしだいにキリスト教関係者は圧迫され始めていた。チーネはすでに英雄のように言われていた金日成のこともそうほめなかった。
チーネはそのとき「朝鮮人にはステーキもボルシチも口に合わないの。キムチがあればやっていけるのよ」と断固としていった。
飢えていた洋武は食べ物の話にすぐ飛びついた。
「お母さん、ボルシチってな一に」「お肉を大きく四角に切って野菜とぐつぐつ煮るのよ。いつか作ってやったでしょう」。ハナは面倒くさそうにそう答えた。
チーネは「ロシヤの料理よ」といってまた話をつづけた。