戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃・30 (林ひろたけ)
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戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 (林ひろたけ) (編集者, 2008/7/5 9:05)
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編集者
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飢えと寒さが迫ってきた・4
ある晴れた朝、辻村先生を先頭に 「今日は虱退治をする」と掛け声がかかった。朝からクラブに収容されている人達の布団がみんな外に干された。そしていっせいに掃除が始まった。中庭には順安神社の使役の時、スイトンづくりのためつかわれた大きな釜にお湯が沸かされた。「下着はみんな沸いているお湯につけろ」。着ている下着が次々にお湯にしたされた。昼間でも寒かった。しかし、このいっせいの虱退治にはほとんどの人達が積極的に協力した。虱は下着を振ればばらばら落ちるはど虱が増えていた。頭を坊主にしていない女の人の髪の毛などにも虱はいっばいついていた。すべての日本人が虱と蚤の被害で苦しんでいた。終戦後の各地の記録の中で虱を媒介した発疹チフスが猖獗(しょうけつ)をきわめ、そのために多くの人の命を奪ったと記録されている。順安で発疹チフスの流行だけは食い止めることができた。
由美と洋武は、そのころ朝早くから石炭拾いに出かけた。順安駅に入る蒸気機関車は、速度を落としてブレーキをかけるので石炭が線路際に落ちることが多かった。それを拾いにいくのである。子供の拾ってくる石炭だがそれは馬鹿にならない燃料になった。ときどき駅員が飛んできて、「線路に入るな」と日本語で怒鳴ったがそんなことかまわずに拾って歩いた。私たちに続いて順ちゃんたちの姉弟も石炭拾いに加わった。そして線路沿いにずーと北まで行くとわが家のそばまで来ることがあった。「あれが武ちゃんの家ね」。順ちゃんは必ずそういった。子供達の方が、石炭や枕木の端くれや燃料になるものを拾うのは大人より上手だった。そのたびにハナは喜んくれた。「お前たちも役に立つね」という言葉がうれしかった。
日本人が石炭拾いをするようになっているなか、駅の周りに鉄条網をはって日本人がはいらないようにした。二、三日は鉄条網にさえぎられたが、しかしそれだけに石炭がたくさん落ちていた。子どもたちは鉄条網をくぐつて拾いに入った。それは大人たちにはできなかった。子どもたちの石炭の収穫は多かったが、擦り傷が体中に出来るようになった。子供達は少し怪我をするとすぐ膿んできた。 はじめのうちはどこの親も包帯などしていたが、包帯で巻いていたら間に合わないくらいあちこち膿んでそのままに放置するようになった。大人にもそれが広がってきた。辻村先生が 「たぶん栄養失調のせいでしょう」 という診断をした。「薬もないから、どうにもならない」 といいながら、もうおできの相談にはのらないようになっていた。石炭拾いは体中の擦り傷という代償が必要だった。そのすり傷がすべて膿んでおできになっていった。
大人達は生きていくために必死だった。順安駅から平壌に向けて二つの長い鉄橋があった。
普通江を二度わたる鉄橋だった。ソ連兵がその鉄橋を警備するために屯所を作ることになった。男は使役に出された。穴を掘り枕木で周りを囲み、半地下式の屯所が作られた。そこにソ連兵のための賄い婦が必要になった。若い女性を出すわけに行かず、結局ハナの年代が数名えらばれた。
ハナたちは、はじめは乱暴されるのでないか、たいへん心配していたが鉄橋警備のソ連兵たちは悪いことはしなかった。そればかりでなくハナはソ連兵の食事の残りを持ち帰るようになった。
黒パンもあった。米はラードであげて彼らのおかずになった。そうした残りなのかそれともハナがくすねてきたのかわからなかったが、わが家はこのハナのもちかえった食糧がしばらくの間飢えをすくった。順ちゃんの家におすそ分けをもっていくと喜ばれたが、いろんな人が少しでもうちにも分けて欲しいとねだりに来るようになった。ハナのソ連兵への賄い婦の使役は一ケ月近くも続いた。