戦中戦後、少年の記憶 北朝鮮の難民だった頃 ・22 (林ひろたけ)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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マダムダワイ・1
「一畳二名のわりだ」。いままで比較的大きな家に住んでいた日本人はぎゆうぎゆうづめに押し込められた。栗本鐵工所のクラブとその周辺にある社宅に全員がとじこめられた。そして、銃剣をつけた保安隊の人達がまわりをぐるぐる巡回していた。「外出禁止」 になった。
順安にいた日本人は従来から農業経営や請負師とよばれていた土建業者。それに規模を縮小した砂金会社の社員。砂金会社の施設を買い取って大阪から疎開してきた栗本鐵工所の社員。それに満州から避難してきた避難民の三種からなっていた。満州から緊急に避難してきた避難民は順安面だけで千名に近かった。日本人国民学校だけでなく普通学校にも避難していた。終戦になって大部分はもう一度満州に帰っていったが、満州に帰っても家もない帰るあてのない人達百名ぐらいがそのまま順安に残った。満州に帰った人達はその後どうなったのか知らない。平原郡の順安以外の地に分散していた普通学校の先生の家族など数家族も合流した。
日本人世話人会が組織され、砂金会社の順安の所長さんだった大村勇一さんが日本人会の会長に就任した。
収容所の部屋割りはたいへんだった。クラブのまわりにあった栗本鐵工所の社宅には栗本鉄工所の職員の人達ともともと順安にいた人達が入居した。そして満州から引き揚げてきた人たちと栗本鐵工所の職工組がクラブにはいった。一畳二人の割だったからそれまで一家で使っていた社宅に平均して四家族二十人は入ることになった。
林家はもともと順安にいた人達と六畳二間四畳半一間台所に風呂場の社宅一戸に四家族二〇名で入ることになった。それまで比較的付き合いのよかった羽村さんの家庭が五名、粟野さんの家庭が四名、小森さんの家庭が五名それに林家が六名だった。しかも林家を除いて子どもはいない大人ばかりだった。気が合う同士という配慮ではあったが、しかし、生活を一緒にはじめると食事の問題をはじめ最初からいさかいはたえなかった。
にわかづくりの日本人収容所は順安駅の前にあった。京義線を南行してきて平壌に入りきれないソ連兵を満載した貨物列車が、順安駅に一晩中泊まることが多くなった。時には機関士がいらいらして激しく汽笛を鳴らしたりした。ソ連兵はそうした列車の中から自動小銃で武装したまま日本人収容所に押しかけてきた。かれらは「マダムダワイ」といってある時は朝鮮人の通訳をつれて、時には自分たちだけでやってきた。かれらが押しかけてくると日本人会から 「警戒警報が出された。家やクラブなど収容所のすべての電気が消されて、何人かの男達がでていって、時計など渡して押し返していた。朝鮮人の女性が襲われたというニュースも入ってきた。十五才以上から四五才ぐらいの女性はみな頭を坊主にして、ズボンをはき、男・女の区別がわからないよぅにした。その上、色の白い女性たちは、顔にかまどの墨を塗ることになった。
ソ連兵がとんでもない野蛮な連中だということは終戦後すぐ日本人の間に伝わった。略奪した時計を腕に五つも六つもつけているとか、しかもねじの巻き方も知らないので時計が止まるとそのまま捨ててしまうなど近代文明などとは無縁な連中だった。服装も軍服は着ていたがどれも粗末なものだった。靴の裏側はボール紙で、なかには歩くとばたばたとはがれていた。しかも、ソ連兵のほとんどが頭を坊主頭だった。記録によるとドイツとの戦争で多くの兵士が死傷して、満州や朝鮮に入ってきたソ連兵の三十%が監獄から連れ出された兵士だったという。しかも、実弾をつめたマンドリン型の自動小銃をかかえあたりかまわずぶっ放していた。止めに入る男たちも命がけだった。
戦勝国ソ連も長いたたかいにつかれきっていた。身なりも軍律も乱れきっていた。しかし、ソ連がほんとうに人間を大事にする国であったら中国共産党の八路軍(パーロ)のように規律は保たれたはずであった。
私たちの社宅にもソ連兵が押し入ってきた。朝鮮人の通訳をつれて「マダムダワイ」「マダムダワイ」というのだけはわかった。羽村さんのところにも粟野さんのところにも若い娘さんがいた。ソ連兵はあの自動小銭をかかえて土足で家に入ってきた。電気が消された。「停電だ。だから帰れ」と晋司が叫んだがそんなことが通用する連中ではなかった。小さな社宅にソ連兵二人と通訳がどかどかと入り、マッチをすって明かりをつけて、布団をはがすやら押入れをひっくり返すやらはじめた。
女性たちは風呂場に逃げた。マッチが少なくなっていたらしい。一本のマッチを最初台所を照らしその残り火で風呂場を照らした。風呂場に光を向けた時マッチは消えた。女性たちはそれで命拾いをした。