表参道が燃えた日(抜粋)-山の手大空襲の体験記-
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- 表参道が燃えた日(抜粋)-青山南町五、六丁目南側・高樹町・3 (編集者, 2009/6/3 20:17)
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- 表参道が燃えた日(抜粋)-青山南町五、六丁目南側・高樹町・6 (編集者, 2009/6/8 6:36)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・1 (編集者, 2009/6/11 21:42)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・2 (編集者, 2009/6/12 8:59)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・3 (編集者, 2009/6/13 8:48)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-渋谷区金王町・美竹町・青葉町・1 (編集者, 2009/6/14 8:32)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-渋谷区金王町・美竹町・青葉町・2 (編集者, 2009/6/15 8:17)
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戦災犠牲者追悼碑に寄せて
平良 安江 (八十九歳)
私の実家は、青山南町五丁目(現・南青山三丁目)八十番地にある「小西酒店」で、私は、十人兄弟(女六人、男四人)の七番目です。当時、戦争で男手がなく、すぐ下の妹と酒屋を切り盛りしていました。配給先は三三九軒ありました。この辺りはお屋敷が多く、すぐ裏の佐賀の鍋島家、青山脳病院等がお得意さんでした。また、近くには大隈重信さん宅、根津嘉一郎さん宅(現・根津美術館)がありました。
五月二十五日は、髪を洗おうとしていた時に空襲警報が鳴り、髪の毛を濡らしたまま物干し場に出ると、飛行機(B29)が飛んでくるのが見えました。飛行機はまるで五本の指を広げたようでした。すぐに逃げなくてはと思い、明治神宮に向かいましたが、途中出会った人から「明治神宮方面は危ない」と言われ、反対方向の青山墓地に逃げました。青山墓地には時限爆弾があると言われましたが、結果的には、大丈夫でした。慌てて逃げて来たためか、皆、頭がおかしくなって、仏壇を背負っている人、タライやバケツを持っている人がいました。私は、予め纏めておいた荷物を背負って逃げました。
逃げる途中、多くの建物は焼夷弾で焼けて、柱が最後に崩れ落ちていきました。どうしてあんなに強い熱風が吹くのか、善光寺さんも、風で天井が焼け落ちました。すべてが焼けてしまい、辺り一面何もない焼け野原となってしまいました。一夜を青山墓地で過ごし、翌朝、実家に戻ろうとしましたが、すべて燃え尽きてしまい、どこに実家があるのか、全く分かりませんでした。幸い、商品のお塩の俵が焼け残っていて、それでここが自分の家と分かりました。
焼け跡は、地べたがとても熱く、飛び上がりながら歩きました。青山会館から松本文具店に行く道の途中で、男女も分からない人間が、真っ黒焦げで横たわっていました。それを見て、涙が出て止まりませんでした。アメリカもひどいことをしてくれた、日本もこれで終わりかと、そのとき思いました。
翌朝、飛行機が一機飛んできましたが、様子を見に来たのだろうと思いました。
幸い、実家の金庫内の桐の箱も燃えないで残っていましたので、そのお金で、母や姉たちが疎開していた湯田中(長野県)に行くことができました。
安田銀行(現・みずほ銀行)の脇や川崎第百銀行の中で沢山の人が亡くなりました。
安田銀行の壁には亡くなった人の手の跡が残っていました。梅窓院も焼けて、多くの人が亡くなりました。防空壕にも火が回り、中にいた人は、皆、焼け死んでしまいました。一部が焼けずに残っていた遺体は、電信柱の油で火葬したといいます。青山脳病院も焼けましたが、根津さん宅だけ残りました。近くの畳屋さんのお家でも三、四人亡くなり、大きなお屋敷(松村家)でも、仕方なく病人を置いて逃げたと聞きました。
戦争は本当に悲惨です。この戦災犠牲者追悼碑の建立により、戦災により亡くなられた多くの方々を慰霊すると共に、戦争のない平和な世界が続くように、心から願っております。
(赤坂区青山南町五丁目)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
昭和二十年五月二十五日の記憶
山形 美智子
青山墓地(都立青山霊園)
間もなく私達日本人は六十二年目の終戦記念日を迎えようとしています。しかし地球上のあちらこちらで終わりの見えない戦争が続いているのが現状です。人間は何時まで、何処まで殺し合うのでしょうか?どうしたら世界が一つになって平和に穏やかに暮らせるようになるのでしょうか?その恐ろしさを体験した人々が次の世代に語り継ぎ風化させない努力をしなくてはいけないとの思いから筆を執りました。
私達家族は青山南町五丁目(現在フロラシオン)に当時両親と姉二人、五人家族で住んでいました。兄は学徒出陣で北京に、長姉は陸軍病院(現在の埼玉病院)の軍医の義兄と成増に住み、父は仕事の関係で地方に出張が多く、私達は何時も母と三人姉妹で心細い日々を送っていました。
昭和二十年五月二十三日の夜半から二十四日の明け方にかけて空襲があり、前の家と隣の家と次々焼夷弾が投下され、近所の人々が総出で夢中で火事が広がらぬよう消し止めました。なかなか消えぬ青い火の後を追いかけ無事消し止めた安心感から、空襲警報解除後直ぐ防空壕から濡れた品々を取り出し干しながら、昨日の今日だから、今日はもう空襲はないでしょうと、暗くした部屋で夕飯を囲みました。
二十五日の確か八時か九時頃だったと思います。再び空襲警報がけたたましく鳴り、ごうごうとお腹の底から揺すられるような爆音が聞こえてきました。慌てて防空壕に大事なものを詰め込み、蓋をして土をかぶせ、前日の経験を生かして消火の体制を整え、待機していました。しかし当日の空襲は次から次と飛来するB29爆撃機からの焼夷弾落下で、渋谷の辺りからどんどん燃え広がり、一刻も早く避難するよう命令が出ました。私達は明治神宮方向に逃げるか青山墓地に行くか考えましたが、もう熱風が渋谷の方から青山に向かって押し寄せてきていました。周りには未だ爆弾も焼夷弾も落ちていませんでしたが、青山墓地への広い道を大勢の人々に押されるように、手に持てるだけの荷物を大事に抱え、皆がはぐれないよう確り手をつなぎ、我が家は絶対に焼けないと信じながら避難しました。
途中お櫃(ひつ)を抱え座り込んでご飯を食べる女性に驚き振り返ると、御近所に住むお姉さまでした。この空襲に耐えられず正気を失ったようで、お年寄りのお母様の困惑の様子が今でもはっきり私の脳裏に残っています。私達の逃げる速度より何倍も早く迫ってくる紅蓮の炎の熱さは、木造建築が殆どのこの地をまるで大きな焚き火のように嘗め尽くしました。墓地に着いて風が少し収まり、もう焼けるものがなくなったのか墓地までは燃えてこないと判り、家の方角を見ると、丁度我が家らしき二階家が焼けおちるところでした。
次の日、火も段々落ち着いて来た多分お昼過ぎ頃だと思いますが、一先ず焼け跡に帰ろうと垂れ下がった電線を避けながら、焼け落ちた我が家を探しました。そこには煤けた石の門柱が此処ですよと言うように、一本は二つに折れ一本は確(しっか)りと残っていました。私達は綺麗に焼け落ち未だ燻(くすぶ)る焼け跡で、それから一週間ほど晴天に助けられ、青空の下で跡片付けしながらお互い励ましあいながら過ごし、父の帰りを待ちました。
私は煙で目を痛め苦しんでいました。たまたま表参道の安田銀行(現在みずほ銀行)に救護班が出来たと聞き、急ぎ駆け付け治療を受けました。まともに回りが見えるようになって目に飛び込んできた光景は、銀行の壁に沿って積みあがった見上げるほどの焼死体でした。表参道の交差点の所は、熱風が渦になって逃げ惑う人々を巻き上げ、壁に沿って積み上げられたようです。大勢の大人が鳶口と言う棒を使って一体ずつ引き下ろし、そのたびにぼっと燃え上がる火、それは言いようのない恐ろしさでした。急ぎ家に帰ろうと踵(きびす)を返すと、通りに掘られた防空壕から赤ちゃんを抱いたお母さんが半身潜るようにして亡くなっている光景、なお目を凝らすと、道路のあちこちの同じような光景に唯夢中で母の元に走り帰りました。皆に話そうと思っても言葉にならなく隅っこにじっとしていました。銀行の壁にはその後何年も、亡くなった人々の跡が残っていましたが、今はもう私たちの記憶の中にしかありません。
その夜食事になり、防空壕で助かった、当時には貴重な油や野菜を使って掻揚げの御馳走でしたが、でもそれを見た時昼間の光景が目に浮かびとても口にする事が出来ませんでした。また、家の周りで焼け残った松や杉の焼けぼっくいのシルエットも、私には恐ろしい物でした。疎開のため菰(こも)でくるんだ何棹(さお)もの箪笥(たんす)がまるで炭俵が焼けたように積み重なり、ああ此処が座敷だったのだ、十六ミリのフィルムがアルミのリールと共に灰となって積み重なり、ああ此処が応接間だったんだと思いながら何一つ残らぬ焼け跡を片付けていました。あの渋谷から明治神宮、青山・赤坂の一帯が見渡す限りの焼け野原の光景が想像出来ますか? このような光景が日本のあちらこちらで起っていたのです。それが戦争なのです。
周りの人々はそれぞれ避難先に行き、残るは私たち家族だけになりました。父とは連絡取れぬまま立看板に立ち退き先を記し、防空壕で焼け残った荷物を纏めて、姉に手配して貰った荷馬車に乗って表参道から明治通りを池袋方向に向かいました。途中新宿辺りの焼け野原にパンパンに膨れたお腹を上にした馬の死骸を恐々見ながら、又焼けなかった人々が差し出してくださる飲み物などを戴きながら姉の元にたどりつきました。あまりの疲労からかその後数日の記憶が全くないのに驚いています。唯二、三日して出張先の岡山で空襲を受け、怪我をしながらも無事たどり着いた父と再会した時のホットした気持ちは忘れられません。
引揚げた先が軍の飛行場に近く、その後も空襲の連続で、特に機銃掃射が酷く恐ろしく押入れの布団の中にもぐりこむ毎日でした。八月十五日を迎え暑い暑い部屋でラジオに耳を着けるようにして終戦の詔勅を聞いた時の複雑な思い、特に日本が消えると言う思いが頭をよぎりました。
私にとって青山で過ごした十五年間は生まれてから両親と一緒に過ごした貴重な十五年でした。その後両親と二人の姉は鹿児島の父の故郷に、私は学業を続ける為東京に残りました。暫くして兄も戦地から無事帰還し大学に戻りました。
多くの方が家族や大切な方を亡くされた中で、私達家族は家が焼け、沢山の物も失いましたが無事生き延びる事が出来た事に感謝しつつ、平和を噛み締めながら一生懸命働き、今日まで過ごしてきました。今思う事は戦争のない世界、そして世界中の人々が戦争の愚かさを真剣に考えて欲しいという事です。
(赤坂区青山南町五丁目)
山形 美智子
青山墓地(都立青山霊園)
間もなく私達日本人は六十二年目の終戦記念日を迎えようとしています。しかし地球上のあちらこちらで終わりの見えない戦争が続いているのが現状です。人間は何時まで、何処まで殺し合うのでしょうか?どうしたら世界が一つになって平和に穏やかに暮らせるようになるのでしょうか?その恐ろしさを体験した人々が次の世代に語り継ぎ風化させない努力をしなくてはいけないとの思いから筆を執りました。
私達家族は青山南町五丁目(現在フロラシオン)に当時両親と姉二人、五人家族で住んでいました。兄は学徒出陣で北京に、長姉は陸軍病院(現在の埼玉病院)の軍医の義兄と成増に住み、父は仕事の関係で地方に出張が多く、私達は何時も母と三人姉妹で心細い日々を送っていました。
昭和二十年五月二十三日の夜半から二十四日の明け方にかけて空襲があり、前の家と隣の家と次々焼夷弾が投下され、近所の人々が総出で夢中で火事が広がらぬよう消し止めました。なかなか消えぬ青い火の後を追いかけ無事消し止めた安心感から、空襲警報解除後直ぐ防空壕から濡れた品々を取り出し干しながら、昨日の今日だから、今日はもう空襲はないでしょうと、暗くした部屋で夕飯を囲みました。
二十五日の確か八時か九時頃だったと思います。再び空襲警報がけたたましく鳴り、ごうごうとお腹の底から揺すられるような爆音が聞こえてきました。慌てて防空壕に大事なものを詰め込み、蓋をして土をかぶせ、前日の経験を生かして消火の体制を整え、待機していました。しかし当日の空襲は次から次と飛来するB29爆撃機からの焼夷弾落下で、渋谷の辺りからどんどん燃え広がり、一刻も早く避難するよう命令が出ました。私達は明治神宮方向に逃げるか青山墓地に行くか考えましたが、もう熱風が渋谷の方から青山に向かって押し寄せてきていました。周りには未だ爆弾も焼夷弾も落ちていませんでしたが、青山墓地への広い道を大勢の人々に押されるように、手に持てるだけの荷物を大事に抱え、皆がはぐれないよう確り手をつなぎ、我が家は絶対に焼けないと信じながら避難しました。
途中お櫃(ひつ)を抱え座り込んでご飯を食べる女性に驚き振り返ると、御近所に住むお姉さまでした。この空襲に耐えられず正気を失ったようで、お年寄りのお母様の困惑の様子が今でもはっきり私の脳裏に残っています。私達の逃げる速度より何倍も早く迫ってくる紅蓮の炎の熱さは、木造建築が殆どのこの地をまるで大きな焚き火のように嘗め尽くしました。墓地に着いて風が少し収まり、もう焼けるものがなくなったのか墓地までは燃えてこないと判り、家の方角を見ると、丁度我が家らしき二階家が焼けおちるところでした。
次の日、火も段々落ち着いて来た多分お昼過ぎ頃だと思いますが、一先ず焼け跡に帰ろうと垂れ下がった電線を避けながら、焼け落ちた我が家を探しました。そこには煤けた石の門柱が此処ですよと言うように、一本は二つに折れ一本は確(しっか)りと残っていました。私達は綺麗に焼け落ち未だ燻(くすぶ)る焼け跡で、それから一週間ほど晴天に助けられ、青空の下で跡片付けしながらお互い励ましあいながら過ごし、父の帰りを待ちました。
私は煙で目を痛め苦しんでいました。たまたま表参道の安田銀行(現在みずほ銀行)に救護班が出来たと聞き、急ぎ駆け付け治療を受けました。まともに回りが見えるようになって目に飛び込んできた光景は、銀行の壁に沿って積みあがった見上げるほどの焼死体でした。表参道の交差点の所は、熱風が渦になって逃げ惑う人々を巻き上げ、壁に沿って積み上げられたようです。大勢の大人が鳶口と言う棒を使って一体ずつ引き下ろし、そのたびにぼっと燃え上がる火、それは言いようのない恐ろしさでした。急ぎ家に帰ろうと踵(きびす)を返すと、通りに掘られた防空壕から赤ちゃんを抱いたお母さんが半身潜るようにして亡くなっている光景、なお目を凝らすと、道路のあちこちの同じような光景に唯夢中で母の元に走り帰りました。皆に話そうと思っても言葉にならなく隅っこにじっとしていました。銀行の壁にはその後何年も、亡くなった人々の跡が残っていましたが、今はもう私たちの記憶の中にしかありません。
その夜食事になり、防空壕で助かった、当時には貴重な油や野菜を使って掻揚げの御馳走でしたが、でもそれを見た時昼間の光景が目に浮かびとても口にする事が出来ませんでした。また、家の周りで焼け残った松や杉の焼けぼっくいのシルエットも、私には恐ろしい物でした。疎開のため菰(こも)でくるんだ何棹(さお)もの箪笥(たんす)がまるで炭俵が焼けたように積み重なり、ああ此処が座敷だったのだ、十六ミリのフィルムがアルミのリールと共に灰となって積み重なり、ああ此処が応接間だったんだと思いながら何一つ残らぬ焼け跡を片付けていました。あの渋谷から明治神宮、青山・赤坂の一帯が見渡す限りの焼け野原の光景が想像出来ますか? このような光景が日本のあちらこちらで起っていたのです。それが戦争なのです。
周りの人々はそれぞれ避難先に行き、残るは私たち家族だけになりました。父とは連絡取れぬまま立看板に立ち退き先を記し、防空壕で焼け残った荷物を纏めて、姉に手配して貰った荷馬車に乗って表参道から明治通りを池袋方向に向かいました。途中新宿辺りの焼け野原にパンパンに膨れたお腹を上にした馬の死骸を恐々見ながら、又焼けなかった人々が差し出してくださる飲み物などを戴きながら姉の元にたどりつきました。あまりの疲労からかその後数日の記憶が全くないのに驚いています。唯二、三日して出張先の岡山で空襲を受け、怪我をしながらも無事たどり着いた父と再会した時のホットした気持ちは忘れられません。
引揚げた先が軍の飛行場に近く、その後も空襲の連続で、特に機銃掃射が酷く恐ろしく押入れの布団の中にもぐりこむ毎日でした。八月十五日を迎え暑い暑い部屋でラジオに耳を着けるようにして終戦の詔勅を聞いた時の複雑な思い、特に日本が消えると言う思いが頭をよぎりました。
私にとって青山で過ごした十五年間は生まれてから両親と一緒に過ごした貴重な十五年でした。その後両親と二人の姉は鹿児島の父の故郷に、私は学業を続ける為東京に残りました。暫くして兄も戦地から無事帰還し大学に戻りました。
多くの方が家族や大切な方を亡くされた中で、私達家族は家が焼け、沢山の物も失いましたが無事生き延びる事が出来た事に感謝しつつ、平和を噛み締めながら一生懸命働き、今日まで過ごしてきました。今思う事は戦争のない世界、そして世界中の人々が戦争の愚かさを真剣に考えて欲しいという事です。
(赤坂区青山南町五丁目)
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戦後、青山青南小学校の屋上にて
相良 久子
見事なケヤキの並木通り、表参道の華やかな賑わいを折々訪ねるたび、戦後の真黒に焦げて幹だけの連なりになったケヤキ並木と、すすけた白塀が続くだけの焼け跡の参道のイメージが二重になってしまいます。表参道を平常心で見ることができません。
私が疎開先の九州天草からたった一人で上京し、焼けただれた母校青南小学校の屋上のバラックに住む姉家族の元に身を寄せたのは、敗戦から一年半ほど経った昭和二十二年の春先でした。はじめて屋上から見た東京ははるか遠くまで見通せる無惨な焼け野原でした。ボツボツとバラックの立つ広い広い空間でした。すぐ下の通りを、進駐軍が、「レフト、ライト」「レフト、ライト」「ターン」と耳慣れぬ号令で行進演習をしていました。
これが私の東京?…。足もとの瓦礫を踏みしめながら、「日本は本当に負けたのだ」とほとばしる涙を止めることができませんでした。
校舎の中は瓦礫の山、まだそれらを取り除くすべもなかったのです。少しずつ学校に帰ってきた生徒達を迎えるべく、幾つかの部屋は整えられ、何人かの焼け出された先生方のバラックが教室の中にできていました。義兄も青南の教師でしたので、屋上の元養護学級のあったところにバラックを作ったのでした。つい二年前までの青南小学校の懐かしいたたずまいは、すすけたコンクリートの壁と、無惨に曲がった鉄骨のわくだけとなっておりました。桜の木ももちろん焼け焦げています。
私は、三月十日の下町大空襲のあと、急遽、父母に連れられ疎開したので、五月二十五日の青山大空襲は知らずにおりました。その日、どれ程の惨状があったか…。表参道のケヤキも音をたてて燃え上がり、燃え広がる焔の中を逃げまどって亡くなられた多くの人々、あの安田銀行の回りの黒焦げの人々の山。あとから知った私は、ただただ身の毛がよだち、涙が溢れるばかりです。でも、戦後、この青山の焼け跡で私達は必死に生きていかなければなりません。乳のみ児と幼児をかかえた姉夫婦は、小さい二間のバラックに、総勢五人、着るものも食べるものもどこで工面したものか、今考えると、よく生きていたと不思議な思いがします。ただただ夢中だったのでしょう。
今、思い起こしても、あの頃の思い出は、ただ毎日の「生活」の断片なのです。
水道は、一階の蛇口からしか出ません。毎朝、そして女学校から帰宅してからも、コンクリートだけになった狭い階段を昇り降りして一階の蛇口から水をくみ、それを四階の屋上まで運びました。バラックにトイレはなく、屋上の隅の瓦礫に穴を作り、校庭の畠に肥料として兄が運んでいました。その畠からは、ヒョロヒョロしたほうれん草などもとれ、貧しい食卓にのぼりました。薪は焼け跡からどうにか拾ってこれたので、簡易なおくどさんで食事を作りました。食料とて満足なものがあるはずもなく、薄い味噌汁やスイトン、僅かな配給の小麦粉、とうもろこし粉を使って電熱器で固いパンを焼き、それを乳のみ児にまで食べさせました。
思い切って善光寺さん近くの焼け跡に開いた闇市で、姉の焼け残った着物で、真白い米一升を買いに行った時、ちゃんと正しく量るかと、目を皿のようにして見つめていたことを思い出し、恥ずかしいようです。時折、進駐軍放出の真白いパンが配給となって、その時は思いっきり食べたものでした。白い小麦粉が配給になった時には、姉と二人でうどん作りです。足で踏んで作るのが大行事でした。
バラックに風呂などもちろんなく、トタンで作ったカンカラを持って、暗い中、焼け跡の表参道を下り、今の明治通りにあるたった一軒の銭湯に行くのも、何かしら恐ろしく大変なことでした。たびたび、あるお寺さんに風呂を拝借しに家族五人で出かけました。何というお寺さんだったでしょうか。焼け残っていたのでしょうか。記憶は定かではありません。
青山通りにポツポツと建ちはじめた店の中に、PX(進駐軍専用の店)がありました。軍帽を斜めにかぶった背の高い兵士達が、見たこともないアイスクリームをなめながら歩いています。今なら当たり前のソフトクリームだったのですが、驚きました。
そんな生活の中で、一つ忘れ難い思い出があります。その年も改まった頃、夜中に姉が産気づきました。用意しておいたリヤカーに乗せた姉を、義兄が高樹町の日赤病院まで連れてゆきました。屋上からは、月の青白い光に照らされて、リヤカーを引いた義兄が、焼け跡の道をゆっくりゆっくり歩いてゆく姿がいつまでも見えていました。母を求めて泣き叫ぶ小さな姪を抱き、今にも泣き出しそうな小学一年生の甥にしっかり握りしめられて、屋上に取り残されたまだ十六歳の私は、心細い限りながら、これから生まれてくる新しい生命への期待に、戦争が終わったこと、新しい未来の平和への想いがはじめて湧いてきたのを覚えています。
そろそろ朧になってきた私の戦後の青山での生活(の記憶)ですが、あの頃の日本人の生活は、今の方々には、到底思いも及ばないことでありましょう。今も、戦火の絶えないところで、このような苦しい生活を強いられている人がいると思うと、耐えられぬ思いがします。
二度とあの地獄の戦争が、地球のどこにも起きないようにと、ただひたすら祈るばかりです。
(赤坂区青山南町六丁目)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
青山炎上
斎藤 恭子
昭和二十年五月二十五日、この日私は十七年間住みなれたわが家を一夜にして失いました。
夕方からビュービューと電線がうなるほどの風の中、今日だけは鳴らないでとの思いもむなしく空襲警報が響き渡りました。焼夷弾が縄暖簾(なわのれん)のような状態で落ちてきて、消灯しているのに昼間のように明るくなり、襖の下の方から燃えはじめました。もう逃げるしかないと避難袋を背負い、父が大切にしていたカメラを探すのですが、いつも置いてある所に見当たらずまごまごしていると、「恭子早く!」という父の声にあきらめて外へ出ました。もうあちこち炎が上がっていて人っ子一人見当たらず、燃えているのにシーンと静まりかえり不気味な感じ…。
父母と私と三人で代々木練兵場(現代々木公園)へ向かって逃げるのですが、原宿方面は真っ赤です。西麻布から青山墓地へと思ったのですが、そちらも燃え上がって行かれず、仕方なく青南小学校の脇から立山墓地に抜けることにしました。崖の途中に穴を掘り、ぬらした絨毯(じゅうたん)を敷き背中から頭までかぶって敵機が過ぎるのを待ちました。崖下の谷の向かいに三軒の家があって、端の一軒はあっという間に焼け落ちる、家一軒がこんなに簡単に焼けるとは思いませんでした(でも気が動転していたので何分か何時間だったのかは定かではないけれど)。三軒目にも燃え移り真っ赤な火の玉が降りかかる、その時男性三人が ”火たたき″を手に屋根に上がり、大きな火の玉(五十センチメートルもあったでしょうか)を次々とたたき落とし、下からはバケツで水をかけ、遂に家を守りきりました。おかげで私どもも助かったのですが、熱地獄でした。
「そろそろ帰ろうか」と父にうながされ立ち上がったのですが、一晩寝ずに生まれてはじめての怖い体験をした頭では何も考えられず、オレンジ色の靄(もや)が立ちこめてこげくさい道をもくもくと歩きました。来た時とは違って一面の焼け野原で、石塀やお蔵の白い壁が点々と残っていて、火事ってこんなになるのかな―と思いました。
もちろんわが家も残っているわけもなく、家の建っていた場所には木材の焼け残りや、壁土、瓦の割れたもの等、道路から五十センチメートルも高く積もっていました。庭の隅にあった桐の大木が枝葉を焼かれ、幹だけが真っ黒の焼けぼっくいになってひょろりと立っていました。水道管はぐにゃぐにゃに曲がり、裂け目からチューチューと水が噴出していました(神戸震災の焼け跡もそっくりでした)。私は感情も感覚もなくなってしまい、悲しいとも淋しいとも思いませんでした。
自宅跡にもどってからの事は何も思い出せません。帰ってすぐなのか何日も経ってからなのか、父が桐の木に壕から出した柱時計をかけた事、母と焼け跡の瓦礫(がれき)を掘っていろいろ探していると、父のカメラがいつもの所から見つかり、ジャバラは型のまま灰になり、レンズはぐにゃりととけて…。父に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。おひな様をしまっておいた戸棚の場所からはすすけたお顔が見つかり、まわりを掘ると着物に織り込んだ金糸がピッピッと立ち上がるのは覚えています。どうやって寝たのか、何を食べていたのか全く思い出せません。
人の噂では表参道は死体の山で、家族全員が亡くなられたのか片付ける人もなく、しばらくは悲惨な状態だったようですが、遠くから手を合わせるのみで現場は見ていません。戦後しばらくは五月二十五日に表参道入り口にテントが張られ御供養されていましたが、今年はその場所に立派な慰霊碑が建立され、空襲を体験したものにとってはほっと心休まる思いです。丸い輪をゆるやかに支える型は平和そのもののようで心が癒されます。御尽力いただいた多くの方に感謝致しますとともに亡くなられた方々の御冥福を祈り、何時までも平和が続くよう願ってやみません。
(赤坂区青山高樹町)
斎藤 恭子
昭和二十年五月二十五日、この日私は十七年間住みなれたわが家を一夜にして失いました。
夕方からビュービューと電線がうなるほどの風の中、今日だけは鳴らないでとの思いもむなしく空襲警報が響き渡りました。焼夷弾が縄暖簾(なわのれん)のような状態で落ちてきて、消灯しているのに昼間のように明るくなり、襖の下の方から燃えはじめました。もう逃げるしかないと避難袋を背負い、父が大切にしていたカメラを探すのですが、いつも置いてある所に見当たらずまごまごしていると、「恭子早く!」という父の声にあきらめて外へ出ました。もうあちこち炎が上がっていて人っ子一人見当たらず、燃えているのにシーンと静まりかえり不気味な感じ…。
父母と私と三人で代々木練兵場(現代々木公園)へ向かって逃げるのですが、原宿方面は真っ赤です。西麻布から青山墓地へと思ったのですが、そちらも燃え上がって行かれず、仕方なく青南小学校の脇から立山墓地に抜けることにしました。崖の途中に穴を掘り、ぬらした絨毯(じゅうたん)を敷き背中から頭までかぶって敵機が過ぎるのを待ちました。崖下の谷の向かいに三軒の家があって、端の一軒はあっという間に焼け落ちる、家一軒がこんなに簡単に焼けるとは思いませんでした(でも気が動転していたので何分か何時間だったのかは定かではないけれど)。三軒目にも燃え移り真っ赤な火の玉が降りかかる、その時男性三人が ”火たたき″を手に屋根に上がり、大きな火の玉(五十センチメートルもあったでしょうか)を次々とたたき落とし、下からはバケツで水をかけ、遂に家を守りきりました。おかげで私どもも助かったのですが、熱地獄でした。
「そろそろ帰ろうか」と父にうながされ立ち上がったのですが、一晩寝ずに生まれてはじめての怖い体験をした頭では何も考えられず、オレンジ色の靄(もや)が立ちこめてこげくさい道をもくもくと歩きました。来た時とは違って一面の焼け野原で、石塀やお蔵の白い壁が点々と残っていて、火事ってこんなになるのかな―と思いました。
もちろんわが家も残っているわけもなく、家の建っていた場所には木材の焼け残りや、壁土、瓦の割れたもの等、道路から五十センチメートルも高く積もっていました。庭の隅にあった桐の大木が枝葉を焼かれ、幹だけが真っ黒の焼けぼっくいになってひょろりと立っていました。水道管はぐにゃぐにゃに曲がり、裂け目からチューチューと水が噴出していました(神戸震災の焼け跡もそっくりでした)。私は感情も感覚もなくなってしまい、悲しいとも淋しいとも思いませんでした。
自宅跡にもどってからの事は何も思い出せません。帰ってすぐなのか何日も経ってからなのか、父が桐の木に壕から出した柱時計をかけた事、母と焼け跡の瓦礫(がれき)を掘っていろいろ探していると、父のカメラがいつもの所から見つかり、ジャバラは型のまま灰になり、レンズはぐにゃりととけて…。父に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。おひな様をしまっておいた戸棚の場所からはすすけたお顔が見つかり、まわりを掘ると着物に織り込んだ金糸がピッピッと立ち上がるのは覚えています。どうやって寝たのか、何を食べていたのか全く思い出せません。
人の噂では表参道は死体の山で、家族全員が亡くなられたのか片付ける人もなく、しばらくは悲惨な状態だったようですが、遠くから手を合わせるのみで現場は見ていません。戦後しばらくは五月二十五日に表参道入り口にテントが張られ御供養されていましたが、今年はその場所に立派な慰霊碑が建立され、空襲を体験したものにとってはほっと心休まる思いです。丸い輪をゆるやかに支える型は平和そのもののようで心が癒されます。御尽力いただいた多くの方に感謝致しますとともに亡くなられた方々の御冥福を祈り、何時までも平和が続くよう願ってやみません。
(赤坂区青山高樹町)
編集者
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東京大空襲五月二十五日
佐藤 二郎
私は中学三年生、十四歳でしたが、学校へは行かず勤労動員で、汐留の国鉄自動車部で働いていました。父はすでに亡くなっており、高樹町の家には母と私と二人で住んでいましたが、この日は、たまたま叔父が来ておりました。三月に下町が焼け、四月には本郷・小石川あたりが焼け、いずれ山の手にも空襲があるだろうとみんな思っていました
あの日、五月二十五日夜九時か十時頃警戒警報が出ましたが、毎晩のことなので避難もせず家の中で寝ていました。当時は洋服を着たままゲートルまで巻いて寝るのが普通でしたから、身支度はできていました。ラジオの情報によると、いつになくB29の大編隊が来るようでだんだん不安が広がってきます。実際に空襲が始まったのは夜中を過ぎて二十六日になってからでした。空襲警報が出て防空壕に入りましたが、爆弾ではなく、焼夷弾だというのは音で分かりますから、防空壕を出て焼夷弾を消す用意をしました。当時の焼夷弾は直径十センチくらいの六角形で長さ六十センチくらいだったと思います。これが地面に突き刺さって、初めは線香花火のような小さな炎を上げます。このあと本格的に炎を上げて燃え出すのですが、初期であれば水につけるとか、ぬれむしろを掛けることで簡単に消すことができるのです。私の家はあまり大きなものではありませんでしたが、それでも三発の焼夷弾が落ちてきました。一発ならば消すこともできたでしょうが、三発では手の施しようがありません。ご近所の家々でも同様だったでしょう。そのうち北西の方から火災が迫ってきました。叔父がもう危ないからお母さんを連れて逃げろと言ってくれたので、毛布を水に浸して青山墓地を目ざして行きました。叔父はそのまま近所の人と自宅に残りましたが、強制疎開の防火帯に隣接していたためそちらに逃げて何とか生き延びることができました。
私たちは電車通りまで行きましたが、墓地の方角は火勢が強くとても進めそうにありませんでした。そこで赤十字通りを広尾の方に向かいました。赤十字病院は軍事病院になっていて、大勢の傷病兵の人たちが治療を受けていました。焼夷弾がたくさん落ちましたが、兵隊さんたちが消したようでした。さらに進んで突き当たりの祥雲寺の墓地に逃げ込みました。今はコンクリートの塀ですが、当時は生け垣か、トタン塀のようなもので簡単に入ることができました。あのあたりは聖心女子大のあたりまで焼け残ったくらいで、大きなお屋敷が多かったせいで延焼しなかったようです。
翌朝、帰ってみると、一面真っ平らな焼け野原で、赤茶色に焼けた瓦が元の間取りのままに並んでいました。エビスビールの換気塔や、国会議事堂の屋根も見えました。全部焼けてしまったのに水道だけは止まらずに出ていたので助かりました。地面に埋めておいた米や梅干し、漬け物などを掘り出してご飯を食べました。その後は、昼間は防空壕に住み、夜は隣の鉄筋コンクリート邸宅の焼け残りのなかで夜露をしのぎました。一週間くらい後、近所の様子を見に歩き回っていて表参道まで来ました。左側の大石灯籠の下に焼けトタンをかぶせた黒こげの死体が積み上げてあり、線香が上げてありました。見ているだけで背筋が寒くなるような気持ちでした。
最近の地震被害地などでは、すぐに援助物資が来たり、避難所ができたりするようですが、当時は全くそのような援助はなくすべて自分でしなければなりませんでした。地震や台風は自然災害で人間の力ではどうすることも出来ませんが、戦争は違います。およそ戦争とはどんな理由があろうとも、人類の愚行であり許すことは出来ません。ひとたび戦争になれば、戦闘力のない一般市民を殺す無差別爆撃も正当化されてしまいます。これは明らかな戦争犯罪です。戦争によって得られるものは何もなく、失うものが非常に多いことを私は身にしみて体験しました。この地球の上から戦争がなくなる日が来ることを心から願っています。
最近、戦争を知らない世代の政治家たちが、憲法を改めて、再軍備をすべきであると言い出しました。元気が良く、勇気のある発言のようにも聞こえますが、とんでもありません。国会の審議でも、本格的な討論もしないで、単独採決でどんどん危険な法律を作っています。この状況は、第二次世界大戦の前の日本の政情とよく似ています。この程度は仕方がないと思っているうちに、言論統制が厳しくなり、何も発言できなくなり、戦争に突入してしまったのでした。『この道はいつか来た道』という感じがします。軍隊は国を守るのが仕事ですが、国とは国土であり要するに地面なのです。地面を守るために軍隊は一般の市民を平気で犠牲にするでしょう。このことは、沖縄の歴史がはっきりと物語っています。そうなれば、多くの若い兵士が死に、それ以上に多くの市民が死ぬでしょう。
私たちは、憲法九条の精神をしっかり守り、平和な国を作るように努力したいと思います。
(赤坂区青山高樹町)
佐藤 二郎
私は中学三年生、十四歳でしたが、学校へは行かず勤労動員で、汐留の国鉄自動車部で働いていました。父はすでに亡くなっており、高樹町の家には母と私と二人で住んでいましたが、この日は、たまたま叔父が来ておりました。三月に下町が焼け、四月には本郷・小石川あたりが焼け、いずれ山の手にも空襲があるだろうとみんな思っていました
あの日、五月二十五日夜九時か十時頃警戒警報が出ましたが、毎晩のことなので避難もせず家の中で寝ていました。当時は洋服を着たままゲートルまで巻いて寝るのが普通でしたから、身支度はできていました。ラジオの情報によると、いつになくB29の大編隊が来るようでだんだん不安が広がってきます。実際に空襲が始まったのは夜中を過ぎて二十六日になってからでした。空襲警報が出て防空壕に入りましたが、爆弾ではなく、焼夷弾だというのは音で分かりますから、防空壕を出て焼夷弾を消す用意をしました。当時の焼夷弾は直径十センチくらいの六角形で長さ六十センチくらいだったと思います。これが地面に突き刺さって、初めは線香花火のような小さな炎を上げます。このあと本格的に炎を上げて燃え出すのですが、初期であれば水につけるとか、ぬれむしろを掛けることで簡単に消すことができるのです。私の家はあまり大きなものではありませんでしたが、それでも三発の焼夷弾が落ちてきました。一発ならば消すこともできたでしょうが、三発では手の施しようがありません。ご近所の家々でも同様だったでしょう。そのうち北西の方から火災が迫ってきました。叔父がもう危ないからお母さんを連れて逃げろと言ってくれたので、毛布を水に浸して青山墓地を目ざして行きました。叔父はそのまま近所の人と自宅に残りましたが、強制疎開の防火帯に隣接していたためそちらに逃げて何とか生き延びることができました。
私たちは電車通りまで行きましたが、墓地の方角は火勢が強くとても進めそうにありませんでした。そこで赤十字通りを広尾の方に向かいました。赤十字病院は軍事病院になっていて、大勢の傷病兵の人たちが治療を受けていました。焼夷弾がたくさん落ちましたが、兵隊さんたちが消したようでした。さらに進んで突き当たりの祥雲寺の墓地に逃げ込みました。今はコンクリートの塀ですが、当時は生け垣か、トタン塀のようなもので簡単に入ることができました。あのあたりは聖心女子大のあたりまで焼け残ったくらいで、大きなお屋敷が多かったせいで延焼しなかったようです。
翌朝、帰ってみると、一面真っ平らな焼け野原で、赤茶色に焼けた瓦が元の間取りのままに並んでいました。エビスビールの換気塔や、国会議事堂の屋根も見えました。全部焼けてしまったのに水道だけは止まらずに出ていたので助かりました。地面に埋めておいた米や梅干し、漬け物などを掘り出してご飯を食べました。その後は、昼間は防空壕に住み、夜は隣の鉄筋コンクリート邸宅の焼け残りのなかで夜露をしのぎました。一週間くらい後、近所の様子を見に歩き回っていて表参道まで来ました。左側の大石灯籠の下に焼けトタンをかぶせた黒こげの死体が積み上げてあり、線香が上げてありました。見ているだけで背筋が寒くなるような気持ちでした。
最近の地震被害地などでは、すぐに援助物資が来たり、避難所ができたりするようですが、当時は全くそのような援助はなくすべて自分でしなければなりませんでした。地震や台風は自然災害で人間の力ではどうすることも出来ませんが、戦争は違います。およそ戦争とはどんな理由があろうとも、人類の愚行であり許すことは出来ません。ひとたび戦争になれば、戦闘力のない一般市民を殺す無差別爆撃も正当化されてしまいます。これは明らかな戦争犯罪です。戦争によって得られるものは何もなく、失うものが非常に多いことを私は身にしみて体験しました。この地球の上から戦争がなくなる日が来ることを心から願っています。
最近、戦争を知らない世代の政治家たちが、憲法を改めて、再軍備をすべきであると言い出しました。元気が良く、勇気のある発言のようにも聞こえますが、とんでもありません。国会の審議でも、本格的な討論もしないで、単独採決でどんどん危険な法律を作っています。この状況は、第二次世界大戦の前の日本の政情とよく似ています。この程度は仕方がないと思っているうちに、言論統制が厳しくなり、何も発言できなくなり、戦争に突入してしまったのでした。『この道はいつか来た道』という感じがします。軍隊は国を守るのが仕事ですが、国とは国土であり要するに地面なのです。地面を守るために軍隊は一般の市民を平気で犠牲にするでしょう。このことは、沖縄の歴史がはっきりと物語っています。そうなれば、多くの若い兵士が死に、それ以上に多くの市民が死ぬでしょう。
私たちは、憲法九条の精神をしっかり守り、平和な国を作るように努力したいと思います。
(赤坂区青山高樹町)
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赤坂台町が焦土となった日
佐藤 靖子
六十二年前の五月二十五日、十五歳になったばかりの私は、兄夫婦と一緒に体験したその日の出来事を今でも鮮烈に覚えています。
当時、私は、両親、上の兄夫婦、下の兄と一緒に、赤坂台町の家に暮らしていました。戦局が厳しくなり始め、道路を隔てた家並みは強制疎開で更地になっており、道路のこちら側は、建物はそのままでしたが、皆さん疎開された様子でひっそりしておりました。私は、両親たちとともに早くから栃木に疎開していましたが、会社勤めのある上の兄は残り、台町の家は兄夫婦が守っていました。
私は、学校に通うといって、ひとり台町の家に戻り、兄夫婦と三人で暮らし始めました。その頃、日に何度となく空襲警報が発令され、そのたびに、防空頭巾を被り急いで家の防空壕に避難していました。
五月二十五日深夜の空襲警報の様子に、いつもとは違う、ただならぬものを感じ、急いで外に出たとき、目の前の空一面に照明弾が落とされ、真昼の如く明るくなり驚いたことが忘れられません。私は、夢中で兄たちと防空壕に駆け込み、不安な気持ちで息を殺してじっとしていました。しーんと静まりかえったとき、爆音をきいた兄に、「ここは危ないから、築山の奥の大木の陰に行きなさい!」と指示され、私と義姉さんは大木に向かって駆けていきました。大木の下に着いた途端、父の書斎に小型爆弾が落とされ、木っ端微塵に吹き飛ばされるのを目の当たりにしました。母屋は無事でしたが、怯えている私たちに、兄は「今のうちに、ふたりとも、先に外苑に逃げるように!」と言いました。私たちふたりは、慌てて表に飛び出し、焼夷弾の炸裂した後の燃えがらを飛び越えながら、無我夢中で青山通りへと走りました。
青山通りにたどり着くと、道路を渡った正面に青山御所の門が見えました。そこには、逃げ場を失った人々が集まり、門の傍らに静かに立っていました。外苑に逃げようと家族で話し合っていたのですが、すでに外苑からは火の手が上がっていて行けず、反対の赤坂見附の方面からも火の手が上がっていて、御所の門の前でおろおろしている時に、兄が毛布を担いで駆けつけてくれました。集まっていた人達も門の開くのをひたすら待っていて、兄も守衛の人に頼みましたが、応じてくれませんでした。
私たちは、兄について青山通りをもどり、高橋是清邸近くの道路端の防空壕にたどり着きました。兄は、私たちをその中に入れ、持ってきた毛布を掛けてくれ、「もうだめかもしれない。」と静かに告げました。私は、もう疲れ切っていて、何も言えませんでした。しばらくすると、兄は、決心した様子で「もう一度行ってくる。」と言い残し、門へと向かいました。
私はいたたまれず、表に立って、兄が、守衛の人に懸命に説得している様子を遠くからじっと見ていました。守衛の人が奥に行き、しばらくすると、数人の方が見えて、ようやく大きな門は全開したのです。集まっていた方々が、緊迫した状況の中落ち着いて対応されたことが、良い結果につながったのだと思います。
私たちは全員誘導されて、防空壕に入ることができ、夜の明けるのをじっと待ちました。ときどき、土壁が揺れ、土埃がかかりましたが、誰もが安堵の気持ちで一杯だったと思います。
夜が明け、また、誘導されて表に出ました。大勢の人たちとともに、私たちも我が家の無事を祈りつつ、家路につきました。ところが、家の近くまで来て目に入ったのは焦土と化した我が家。
ピアノの鉄線の焼け焦げがあるだけで何も残っていませんでした。大好きな家、そして赤坂台町は一夜にして消失していました。
私たちは、数日間、小学校の体育館で寝泊まりし、栃木から駆けつけてくれた両親や下の兄と再会し、無事を喜び合いました。
その後、母が疎開された方から広尾に家を借りてくれ、私はそこから学校にしばらくの間通いましたが、母の薦めで、疎開地に戻りました。
八月十五日、そこで終戦を知りました。赤坂台町で罹災した日、戸惑うばかりの私と義姉さんに、冷静に適格な指示をしてくれた兄に、感謝の気持ちで一杯です。兄が、防空壕の中で「もうだめかもしれない」と静かに告げたとき、意を決して再び門へと向かったとき、兄はどんな思いであったのかと考えると、感慨無量です。現在、元気でいることを大事に、平和のためにささやかでもお役に立てればと思い、筆をとりました。
(平成十九年七月二十九日記)
(赤坂区赤坂台町)
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二度と戦争のないことを願って
福田 恒子
私は当時女学校三年生、赤坂見附交差点近くで、開業医の父と母・兄・妹の五人で住んでいました。小学校六年の妹は、東洋英和初等科の集団疎開先・栃木県出流山満願寺から、三月五日に帰り、学校で卒業式が行われました。
そのすぐ後、三月十日の下町大空襲で、浅草にお戻りになっていた妹達の担任・中沢先生がお亡くなりになりました。疎開先では親代わりとなって、朝から晩まで生徒たちに付き添って下さっていたお優しい先生が、空襲の犠牲になられたのです。妹は大変なショックを受けて居りました。
五月二十三日には、空き家になっていた隣家に焼夷弾が落ち、我が家は類焼してしまいました。
必死の消火でわずかに焼け残った荷物をもち、青山の親戚の家に避難しました。乃木神社へも近い山王病院そばです。ほっとする間もなく一日おいた、二十五日の夜、不気味な空襲警報のサイレン、そしてB29の襲来。毎晩着たまま寝ている防空服の上に、何枚もセーターを重ね着して、非常袋を肩から掛け、妹と二人、青山通りの方へ走りました。降るような焼夷弾、はじける油脂焼夷弾のすさまじさ、燃えている電柱、そこから垂れ下がる何本もの電線、逃げまどう人々の間をくぐり抜け、青山の第一師団司令部の近くへ来たとき目にしたのは、馬に寄りかかり、肩から大量の血を流している兵隊さんでした。師団司令部は一面火の海、苦しい!息も出来ない! 火の粉を被りながら、焼夷弾の炎の壁に閉ざされて行き先もわからない。ただ人々の流れに沿い、私と妹は青山墓地までたどり着きました。墓地の中は火傷の人、衣類・防空頭巾が焼けこげの人でごった返していました。すると誰かの「時限爆弾が爆発するぞ!」の声、それが流言飛語だったとは後から分かったことで、ただ恐ろしく逃げる、又逃げる、逃げるの状態でした。表参道方面の空は紅に染まっていました。
やがて朝になり、私と妹は避難所になっている赤坂の親戚の「とらやビル」を目指しました。御所の周りの堀には、男か女か子供かも判らない、真っ黒に焼けた死体がぎっしりと詰まり、地獄絵図そのものでした。虎屋は奇跡的に焼け残り、家族にもやっと会うことが出来ました。父は、怪我したり体調をくずした方々を、僅かに焼け残った医療品で、診察、治療をしていました。
赤坂見附の我が家の焼け跡に行くと、そこは余りにも酷い凄惨な情景でした。二日前に焼けなかったら私達も死んでいたかも…と思われました。家の隣の成満寺の地下に避難した人々は、全員蒸し焼きになりました。家族を亡くした方々が、死体に被せてある焼けたトタンを一枚一枚めくり、「真っ黒になった死体が鼻血を出したら、身内だ」と云いながら捜していました。家族の呼びかけが、判別も難しい遺体に通じるとの思いだったのでしょうか。
この空襲で姉の担任だった鶴来先生が亡くなられました。表参道近くにお住まいで、ご遺体もわからないままでした。
姉も妹も、大切な担任の先生を失いました。多くの方が命を落とし、家を焼かれました。これも巨大な「太平洋戦争」の一部だったのでしょうか。あれから何十年も、脳裏に焼き付いて離れない、思い出したくない、忌まわしい光景です。しかし、忘れてはならない事実です。
戦地で、学業も夢も半ばにして親、兄弟から離れ、悲しくも散った若い命。
今、無事に過ごしている日本で、テレビに写る他国で戦争の苦しみを受けた方々や子供達の姿を見る度に心が痛みます。
地球のどこかで起きている戦争が、一日も早く治まりますように、そして、二度と誰もが苦しむ事のない世界にと心から願っています。
(赤坂区赤坂新坂町)
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平和を祈りつヽ
深山 愛子
私の家は、遠く元禄から続いた老舗で屋号「萬屋」と言う紙茶商でした。江戸幕府の御用商人を勤めたそうで、数百坪の敷地に店、住まい、倉、庭などがあり、多くの使用人がおりました。当時、二人の妹は学童疎開で栃木県出流山満願寺へ、小さい弟は神奈川県愛甲石田に祖母とハナちゃん(お手伝いさん)と疎開し、両親、姉、私とキミちゃん(お手伝いさん)の五人が残っていました。
昭和二十年五月二十五日、寒い夜中、十一時ごろ、B29の飛来は空襲警報発令から間もなくでした。目の前にB29が編隊をなして飛んでいる。照明弾が落ちた。一面がまるで昼間のように明るくなる。次ぎにまとまって落ちて来る焼夷弾が目の前で炸裂して油が飛び散り、庭の木が火柱を吹き上げる。目の前のあちこちに火の手があがる。三月十日の東京大空襲からその日まで、数回の空襲があったが、瞬間に「今日のは危ない!お仏壇にご先祖様のお位牌を取りに行きましょう」と母を促し、炎で明るく照らされている家の奥に入り、文庫倉の奥にある大仏壇に半身入り込み、もうすぐ三百回忌を迎える一代目様から十代目様までのお位牌と過去帳を信玄袋に詰め、庭の防空壕まで戻りました。警防団の人に「危ない!逃げろ!逃げろ!」とせかされ、その場で母とはぐれた私はお位牌の入った信玄袋を防空壕の奥に投げ込み、蓋をして土をかけ、空のやかんを一つ持ち、たった一人で自転車を引きずって飯倉の四つ角から右手に水交社のビルのある坂を必死で駆けのぼりました。
炎と風と火の粉、あたり一面の火の海、不気味な轟音、倒れている人達を跨ぎ、火の粉といっても新聞紙大の真っ赤に焼けたブリキが宙を舞う、もう息が出来ない、「水を頭からかぶれ!」と口々に叫び乍ら逃げる人々。でも、水なんて無い、唯々逃げるよりほかにない。周囲の人々が吸い込まれる様に芝公園の大きな横穴式の防空壕に入って行く。私は何故か気が進まず、公園の奥まで逃げて行きました。横穴式の防空壕に入った方々は皆蒸し焼きになったのでした。目の前で増上寺の五重の塔が焼け落ちて行きました。何も考えられない、被っている防空頭巾は焼け焦げ、髪の毛も焦げ、時間の感覚もない。そして気がつくと、ひんやりと静かな暗い木陰に、私と同じ年位の男の子と肩を寄せ合って座っていたのでした。
「君、名前なんて云うの?僕は三月に焼け出されたんだ…」本当に短い会話。胸に「土屋勝太郎」と大きな布の名札が縫いつけてありました。今でもはっきりと覚えている事は「ママー」と云う楕円形の咳止めドロップの小さな缶の中から「食べる?」と煎り米を出して私と二人で食べた事でした。当時はお米を煎って非常食として持っていたのです。
いつの間にか空襲も静かになって東の空が明るくなってきました。遠くから家族を捜す声が聞こえてきて、その中に母と姉の声を知った時の嬉しさ、私は数時間一緒に過ごした土屋勝太郎君に挨拶もせず、有り難うのお礼も云わず、自転車で、声のする方に走り出していました。
坂の上から逃げて来た道の彼方は、数時間ですっかり焼け野原になっていました。でもお倉が残っている~「良かった~!」と思いました。しかし屋根から直撃を受けたお倉は数時間後、空高く火柱を上げて焼け落ちて行きました。
私の家には、文庫倉・新倉・店倉・山倉・茶倉等々、中に納める物により名称の異なる七つのお倉がありました。どんな火災にあっても火の入らない堅固な造りで、いくつもの箪笥・書画・骨董・刀剣など、先祖代々が残した貴重品が納められていました。自信のある倉故、何も疎開しないで、ご近所の物も預かっていました。でも少女の私には大切にしていた白いテディベァや集めていた千代紙・ハンカチーフ・ピアノなどが無くなってしまった事が悲しくて、大声をあげて泣きました。
店倉の前の大きな用水の中に防空服を着た男性が入って死んでいました。頭は焼け棒杭、どんなに熱かったろう、苦しかったろう。しかし、死体はあちこちに転がっていました。
昼頃になって、やっと父に会えました。父は町会長をしていたのです。父が手のひらにラッキョウをのせて食べさせてくれたことを妙に悲しく覚えています。
焼夷弾で足を怪我したキミちゃんを自転車に乗せ、私は愛宕下の慈恵病院にたどり着きました。そこには全身やけどの人達が呻き声をあげて横たわり、何倍にも腫れ上がって目も口も鼻もわからない怪我人の口に、水を含ませた綿をのせる人、家族をここで亡くした人々の悲痛な姿、生き地獄でした。
それから毎日トラックが死体を山積みにしてどこかに運び出す光景が続きました。二週間後、私は姉と従兄弟との三人で朝六時に自転車で東京を出発し、途中何回も機銃掃射や空襲に遭いながら、夜八時過ぎにやっと我が家の疎開先、愛甲石田に着きました。戦争を境に百八十度変わってしまった生活、着のみ着のまま、履く靴もない生活。何十年も脳裏に焼き付いて離れない恐ろしい忌まわしい光景。記憶から消したい!思い出したくない!と誰にも話しませんでした。一九三一年生まれ、当時十四才の私でした。
今、感謝の中、平和を心から祈りつヽ。
(麻布区飯倉二丁目)
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渋谷区金王町・
美竹町・青葉町
空襲の思い出・東京最後の大空襲
森木 和久
忘れもしない今から四十七年前のことである。
昭和二十年五月二十五日。
毎晩のように警戒警報、空襲警報のサイレンが鳴り、今夜も枕元に鉄兜に防空ずきん、足にはゲートルを巻いたまま床についた。午後十時すぎであろうか警戒警報。ラジオの東部軍管区情報は、「B29編隊関東地区に向かいつつあり」とのことである。間もなく空襲警報。庭に作ってある防空壕にふとんその他を入れ(タンス、重要なものは常時入れてある)蓋をしめ、土をかぶせ、たたいてかためた。
当時父は隣組の組長で、鳶口(とびくち)一丁を持って町会事務所に出て行ったまま。B29の聞き慣れた(?)爆音が頭上に来だした。二階の物干し台に出てみると、花火のように焼夷弾が落ち始めた。ドカーンという破裂音に隣家を見ると、二階家の屋根、床を突きとおして、一階の床でエレクトローン焼夷弾が火を吹いていた。これは危険と思い表に出た。すでに家族の姿は見えなかった。
昭和二十年五月二十六日。
近所の家々から火の手があがり出し、空は赤く、火の粉混じりの突風(今でいうフェーン現象)が吹いていた。
トタン板や、看板などが乱れ飛んで来る中、ちょうど飛んできた掛け布団をかぶり、無意識に人の後について電車通りに出て、青山車庫となりの梨本宮邸の門をくぐり邸内に入った。あとで聞いた話であるが、我々が門を入って間もなく門が焼け、あとからきた人が入れず他に逃げたため、かなりの人が焼死したと聞いた。邸内には立派な鉄筋コンクリート造りの防空壕があり、そばに大きな防火用水があった。梨本宮ご夫妻も見えた。
ふと聞き慣れた声がするので、そばに行くと偶然にも母と末姉ではないか。背中には蚊帳、掛時計などを背負い、手には大きなヤカンを提げていた。お互いの無事を喜びあい、怪我もなかった。のどがカラカラにかわいたが飲み水もなく、防火用水の水をすくって飲んだ(今考えると水はきたなくボーフラがいたかもしれない)。
空襲警報も解除になり、夜も明け火勢もおさまった。
三々五々家路についた。通りには焼死体があちこちにころがっていた。勿論家もあとかたもなく、あたり一面焼け野原。涙一つ出なかった。わが家が燃え落ちるのを見ないだけよかったと思った。
父も戻ってきた。代々木練兵場に避難し、偶然長姉親子(当時隣家に住んでいた)にばったり会ったという。次姉も明治神宮の森に避難し戻ってきた。全員かすり傷一つせず無事であった。近所の人の中には、肩に焼夷弾の直撃を受けた人、奥さんが焼死、一家全員防空壕の中で焼死、行方不明の人、さまざまであった。
煙のため目をやられ、あいていられないくらい。日赤の救護班が巡回し、目薬をさして回っていた。また炊き出しのにぎりめしや毛布が配給になった。防空壕は幸いにも直撃をまぬかれ無事であった。
私の兄(昭和十三年青南小卒、池上学級)は二十歳で応召になり、赤坂一ツ木(元TBS)にある東部〇〇〇〇部隊にいた。当時実家が羅災すると特別外出許可が出るので、私は雑嚢に乾パンを入れ、知らせにいくことになった。交通機関もなく歩いた。途中舗道には焼死体がマネキン人形のようにゴロゴロ。警防団が大八車に死体を山に積んで処理している。表参道の銀行の角には、死体の山。思わず目をそむけ、鼻をつまむ。目的地に着くと勿論焼け野原。衛兵にその旨伝えると「部隊は神田の共立小学校に移動した」とのこと。赤坂見附~三宅坂~九段~神保町と歩きさがしてやっと目的地に。衛兵に面会を申し入れ、しばらくすると「隊長が来るからしばらく待て」と別室に通された。隊長の某少佐が入ってきた。当方は直立不動である。本人が出てこず、一瞬いやな予感がした。
「お前は男の兄弟は何人おるか」
「三人であります」
「よし!お前の兄貴の森木兵長は今暁戦死した。遺体は確認し既に火葬した。両親に一度来るように」
瞬間頭をハンマーで殴られたようであった。出された昼食の麦飯も殆どのどを通らず、戦友に慰められながら、もと来た道を戻った。我が家の焼跡に着き、両親の顔を見るなり、溜まっていたものが一遍に吹きだした。
両親はその様子で察したようで、一部始終を報告した。
その後五月二十九日であったが、横浜の空襲を最後に大規模な空襲は終わったと記憶している。
追記
最近年をとってくると、数日前のことでも忘れることがあるが、不思議に四十数年前のことは、鮮明に記憶しているものである。
私の家は当時、渋谷区金王町五番地。青山車庫前を入り、青山学院のやや渋谷寄りのところにあった。
戦時中のことでもあり、私も当時は血気にはやっており、もし戦争があと半年から一年続いていたならば、兄の敵討ちと、志願していたと思う。間違いなく靖国神社であったろう。戦災から終戦後しばらくの間、住居、食糧には苦労したことはいうまでもない。兄がもし生きていたなら、私の人生は変わっていたかも知れない。
苦労をかけた両親もその後長生きし、八十数歳の天寿を全うし今は亡く、姉弟もそれなりの年齢になってきた。
あのような悲惨な戦争は、二度とあってはならない。
(一九九二年五月記)
-青南小学校三十六回同期会発行「あの頃 青山・青南時代」より
(渋谷区金王町)
父森木和久、平成十八年十一月二十日死去。亡くなる二週間位前に後半部分に書かれている父の兄の話を少しだけ聞きました。
その当時の様子を次々思い出し、涙する父の姿は初めて見たような気がして忘れられません。終戦記念日には必ず「すいとん」を作って食べていました。(長女 宇納京子)
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戦後六十年を振り返って
田之上 濱子
表参道の今日の繁栄の裏には、なんとたくさんの方々の犠牲があったことでしょうか。
「和をのぞむ」と記された追悼碑の前に立ち、しばし感無量の思いで眺めていました。あれから六十年以上もの歳月が経ってしまいました。
昭和二十年当時、私ども一家は渋谷区美竹町八番地に住んでいました。家の後ろの塀は、梨本宮家の三万坪にも及ぶお屋敷につながっていました。五月二十五日の夜は、焼け出された父の友人、両親と子供四人、手伝いの者、総勢八名が自宅におりました。
空襲警報と同時に、庭に掘った防空壕の中に入りましたが、B29爆撃機の地鳴りするようなすさまじい響きに、身の危険を感じ、壕から飛び出しました。そして、近所の方々とともに宮家の林の中に逃げ込みました。
林の中はすでに建物が焼け落ち、宮様方は避難されていました。空中を火の風が吹き走り、護衛していた衛兵たちも目が血走り、なにを聞いても答えもなく、ただ呆然と立っているばかりでした。
突然耳を切り裂くような焼夷弾の落下音に私は思わず、「伏せろ!」「逃げろ!」と大声を出し、家族の先頭に立って叫んでいました。燃え盛る火の粉をさけて、熱風の中を父は五歳の妹を背負い、母は三歳の弟を抱き、必死になって走っては逃げ、走っては逃げ続けました。
どのくらいの時が経ったでしょうか。咽喉がカラカラに渇き、少し休まなければと思い、土手の上から下を見ると、通りを隔てた向かい側に市立青山病院の裏門が見え、そこに置いてある防火用水を見つけました。
「あーよかった。これで助かった」と思い、土手を飛び降りました。子どもたちを次々に抱き下ろし、全員がやっと一緒になって残り少ない防火用水の水を互いに掛け合いました。
やっと一息ついた頃、東の空がほんの少しずつ明るくなってきました。目に入って来た建物は、国会議事堂と青山通りにあった郵便局しかありませんでした。
父と母は、両目を火傷して涙が止まらず、私は土手を飛び降りた時に捻挫したらしく、左の足首が大きく腫れ上がり動けない状態になっていました。その日は、救援の方々に助けられて、青山学院の焼け残った一角に休ませてもらいました。まもなく私どもは東京を離れ、島根に疎開しました。
戦争がもたらした数々の苦しみは、一人ひとりが身にしみて忘れることのできない思い出として残っています。いつの日かこの地球上で戦火のなくなる日がくるでしょうか。戦争はすべてを破壊し、地球までも破壊してしまいます。人類のために、この美しい地球のために、平和の世界をと祈らずにはいられません。
(渋谷区美竹町)
田之上 濱子
表参道の今日の繁栄の裏には、なんとたくさんの方々の犠牲があったことでしょうか。
「和をのぞむ」と記された追悼碑の前に立ち、しばし感無量の思いで眺めていました。あれから六十年以上もの歳月が経ってしまいました。
昭和二十年当時、私ども一家は渋谷区美竹町八番地に住んでいました。家の後ろの塀は、梨本宮家の三万坪にも及ぶお屋敷につながっていました。五月二十五日の夜は、焼け出された父の友人、両親と子供四人、手伝いの者、総勢八名が自宅におりました。
空襲警報と同時に、庭に掘った防空壕の中に入りましたが、B29爆撃機の地鳴りするようなすさまじい響きに、身の危険を感じ、壕から飛び出しました。そして、近所の方々とともに宮家の林の中に逃げ込みました。
林の中はすでに建物が焼け落ち、宮様方は避難されていました。空中を火の風が吹き走り、護衛していた衛兵たちも目が血走り、なにを聞いても答えもなく、ただ呆然と立っているばかりでした。
突然耳を切り裂くような焼夷弾の落下音に私は思わず、「伏せろ!」「逃げろ!」と大声を出し、家族の先頭に立って叫んでいました。燃え盛る火の粉をさけて、熱風の中を父は五歳の妹を背負い、母は三歳の弟を抱き、必死になって走っては逃げ、走っては逃げ続けました。
どのくらいの時が経ったでしょうか。咽喉がカラカラに渇き、少し休まなければと思い、土手の上から下を見ると、通りを隔てた向かい側に市立青山病院の裏門が見え、そこに置いてある防火用水を見つけました。
「あーよかった。これで助かった」と思い、土手を飛び降りました。子どもたちを次々に抱き下ろし、全員がやっと一緒になって残り少ない防火用水の水を互いに掛け合いました。
やっと一息ついた頃、東の空がほんの少しずつ明るくなってきました。目に入って来た建物は、国会議事堂と青山通りにあった郵便局しかありませんでした。
父と母は、両目を火傷して涙が止まらず、私は土手を飛び降りた時に捻挫したらしく、左の足首が大きく腫れ上がり動けない状態になっていました。その日は、救援の方々に助けられて、青山学院の焼け残った一角に休ませてもらいました。まもなく私どもは東京を離れ、島根に疎開しました。
戦争がもたらした数々の苦しみは、一人ひとりが身にしみて忘れることのできない思い出として残っています。いつの日かこの地球上で戦火のなくなる日がくるでしょうか。戦争はすべてを破壊し、地球までも破壊してしまいます。人類のために、この美しい地球のために、平和の世界をと祈らずにはいられません。
(渋谷区美竹町)