表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・1
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表参道が燃えた日(抜粋)-山の手大空襲の体験記- (編集者, 2009/5/17 8:49)
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- 表参道が燃えた日(抜粋)-渋谷区金王町・美竹町・青葉町・1 (編集者, 2009/6/14 8:32)
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- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・1 (編集者, 2009/6/27 20:53)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・2 (編集者, 2009/6/28 21:15)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・3 (編集者, 2009/6/29 8:02)
- Re: 表参道が燃えた日(抜粋)-あとがきにかえて (編集者, 2009/6/30 10:53)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・1- (編集者, 2009/7/2 19:53)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・2- (編集者, 2009/7/3 14:57)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・3- (編集者, 2009/7/4 19:38)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・4- (編集者, 2009/7/5 8:14)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・5- (編集者, 2009/7/6 16:54)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・6- (編集者, 2009/7/6 16:58)
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赤坂台町が焦土となった日
佐藤 靖子
六十二年前の五月二十五日、十五歳になったばかりの私は、兄夫婦と一緒に体験したその日の出来事を今でも鮮烈に覚えています。
当時、私は、両親、上の兄夫婦、下の兄と一緒に、赤坂台町の家に暮らしていました。戦局が厳しくなり始め、道路を隔てた家並みは強制疎開で更地になっており、道路のこちら側は、建物はそのままでしたが、皆さん疎開された様子でひっそりしておりました。私は、両親たちとともに早くから栃木に疎開していましたが、会社勤めのある上の兄は残り、台町の家は兄夫婦が守っていました。
私は、学校に通うといって、ひとり台町の家に戻り、兄夫婦と三人で暮らし始めました。その頃、日に何度となく空襲警報が発令され、そのたびに、防空頭巾を被り急いで家の防空壕に避難していました。
五月二十五日深夜の空襲警報の様子に、いつもとは違う、ただならぬものを感じ、急いで外に出たとき、目の前の空一面に照明弾が落とされ、真昼の如く明るくなり驚いたことが忘れられません。私は、夢中で兄たちと防空壕に駆け込み、不安な気持ちで息を殺してじっとしていました。しーんと静まりかえったとき、爆音をきいた兄に、「ここは危ないから、築山の奥の大木の陰に行きなさい!」と指示され、私と義姉さんは大木に向かって駆けていきました。大木の下に着いた途端、父の書斎に小型爆弾が落とされ、木っ端微塵に吹き飛ばされるのを目の当たりにしました。母屋は無事でしたが、怯えている私たちに、兄は「今のうちに、ふたりとも、先に外苑に逃げるように!」と言いました。私たちふたりは、慌てて表に飛び出し、焼夷弾の炸裂した後の燃えがらを飛び越えながら、無我夢中で青山通りへと走りました。
青山通りにたどり着くと、道路を渡った正面に青山御所の門が見えました。そこには、逃げ場を失った人々が集まり、門の傍らに静かに立っていました。外苑に逃げようと家族で話し合っていたのですが、すでに外苑からは火の手が上がっていて行けず、反対の赤坂見附の方面からも火の手が上がっていて、御所の門の前でおろおろしている時に、兄が毛布を担いで駆けつけてくれました。集まっていた人達も門の開くのをひたすら待っていて、兄も守衛の人に頼みましたが、応じてくれませんでした。
私たちは、兄について青山通りをもどり、高橋是清邸近くの道路端の防空壕にたどり着きました。兄は、私たちをその中に入れ、持ってきた毛布を掛けてくれ、「もうだめかもしれない。」と静かに告げました。私は、もう疲れ切っていて、何も言えませんでした。しばらくすると、兄は、決心した様子で「もう一度行ってくる。」と言い残し、門へと向かいました。
私はいたたまれず、表に立って、兄が、守衛の人に懸命に説得している様子を遠くからじっと見ていました。守衛の人が奥に行き、しばらくすると、数人の方が見えて、ようやく大きな門は全開したのです。集まっていた方々が、緊迫した状況の中落ち着いて対応されたことが、良い結果につながったのだと思います。
私たちは全員誘導されて、防空壕に入ることができ、夜の明けるのをじっと待ちました。ときどき、土壁が揺れ、土埃がかかりましたが、誰もが安堵の気持ちで一杯だったと思います。
夜が明け、また、誘導されて表に出ました。大勢の人たちとともに、私たちも我が家の無事を祈りつつ、家路につきました。ところが、家の近くまで来て目に入ったのは焦土と化した我が家。
ピアノの鉄線の焼け焦げがあるだけで何も残っていませんでした。大好きな家、そして赤坂台町は一夜にして消失していました。
私たちは、数日間、小学校の体育館で寝泊まりし、栃木から駆けつけてくれた両親や下の兄と再会し、無事を喜び合いました。
その後、母が疎開された方から広尾に家を借りてくれ、私はそこから学校にしばらくの間通いましたが、母の薦めで、疎開地に戻りました。
八月十五日、そこで終戦を知りました。赤坂台町で罹災した日、戸惑うばかりの私と義姉さんに、冷静に適格な指示をしてくれた兄に、感謝の気持ちで一杯です。兄が、防空壕の中で「もうだめかもしれない」と静かに告げたとき、意を決して再び門へと向かったとき、兄はどんな思いであったのかと考えると、感慨無量です。現在、元気でいることを大事に、平和のためにささやかでもお役に立てればと思い、筆をとりました。
(平成十九年七月二十九日記)
(赤坂区赤坂台町)