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表参道が燃えた日(抜粋)-青山南町五、六丁目南側・高樹町・3

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-青山南町五、六丁目南側・高樹町・3

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/6/3 20:17
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 昭和二十年五月二十五日の記憶
              山形 美智子



  青山墓地(都立青山霊園)

 間もなく私達日本人は六十二年目の終戦記念日を迎えようとしています。しかし地球上のあちらこちらで終わりの見えない戦争が続いているのが現状です。人間は何時まで、何処まで殺し合うのでしょうか?どうしたら世界が一つになって平和に穏やかに暮らせるようになるのでしょうか?その恐ろしさを体験した人々が次の世代に語り継ぎ風化させない努力をしなくてはいけないとの思いから筆を執りました。

  私達家族は青山南町五丁目(現在フロラシオン)に当時両親と姉二人、五人家族で住んでいました。兄は学徒出陣で北京に、長姉は陸軍病院(現在の埼玉病院)の軍医の義兄と成増に住み、父は仕事の関係で地方に出張が多く、私達は何時も母と三人姉妹で心細い日々を送っていました。

 昭和二十年五月二十三日の夜半から二十四日の明け方にかけて空襲があり、前の家と隣の家と次々焼夷弾が投下され、近所の人々が総出で夢中で火事が広がらぬよう消し止めました。なかなか消えぬ青い火の後を追いかけ無事消し止めた安心感から、空襲警報解除後直ぐ防空壕から濡れた品々を取り出し干しながら、昨日の今日だから、今日はもう空襲はないでしょうと、暗くした部屋で夕飯を囲みました。

 二十五日の確か八時か九時頃だったと思います。再び空襲警報がけたたましく鳴り、ごうごうとお腹の底から揺すられるような爆音が聞こえてきました。慌てて防空壕に大事なものを詰め込み、蓋をして土をかぶせ、前日の経験を生かして消火の体制を整え、待機していました。しかし当日の空襲は次から次と飛来するB29爆撃機からの焼夷弾落下で、渋谷の辺りからどんどん燃え広がり、一刻も早く避難するよう命令が出ました。私達は明治神宮方向に逃げるか青山墓地に行くか考えましたが、もう熱風が渋谷の方から青山に向かって押し寄せてきていました。周りには未だ爆弾も焼夷弾も落ちていませんでしたが、青山墓地への広い道を大勢の人々に押されるように、手に持てるだけの荷物を大事に抱え、皆がはぐれないよう確り手をつなぎ、我が家は絶対に焼けないと信じながら避難しました。

 途中お櫃(ひつ)を抱え座り込んでご飯を食べる女性に驚き振り返ると、御近所に住むお姉さまでした。この空襲に耐えられず正気を失ったようで、お年寄りのお母様の困惑の様子が今でもはっきり私の脳裏に残っています。私達の逃げる速度より何倍も早く迫ってくる紅蓮の炎の熱さは、木造建築が殆どのこの地をまるで大きな焚き火のように嘗め尽くしました。墓地に着いて風が少し収まり、もう焼けるものがなくなったのか墓地までは燃えてこないと判り、家の方角を見ると、丁度我が家らしき二階家が焼けおちるところでした。

 次の日、火も段々落ち着いて来た多分お昼過ぎ頃だと思いますが、一先ず焼け跡に帰ろうと垂れ下がった電線を避けながら、焼け落ちた我が家を探しました。そこには煤けた石の門柱が此処ですよと言うように、一本は二つに折れ一本は確(しっか)りと残っていました。私達は綺麗に焼け落ち未だ燻(くすぶ)る焼け跡で、それから一週間ほど晴天に助けられ、青空の下で跡片付けしながらお互い励ましあいながら過ごし、父の帰りを待ちました。

 私は煙で目を痛め苦しんでいました。たまたま表参道の安田銀行(現在みずほ銀行)に救護班が出来たと聞き、急ぎ駆け付け治療を受けました。まともに回りが見えるようになって目に飛び込んできた光景は、銀行の壁に沿って積みあがった見上げるほどの焼死体でした。表参道の交差点の所は、熱風が渦になって逃げ惑う人々を巻き上げ、壁に沿って積み上げられたようです。大勢の大人が鳶口と言う棒を使って一体ずつ引き下ろし、そのたびにぼっと燃え上がる火、それは言いようのない恐ろしさでした。急ぎ家に帰ろうと踵(きびす)を返すと、通りに掘られた防空壕から赤ちゃんを抱いたお母さんが半身潜るようにして亡くなっている光景、なお目を凝らすと、道路のあちこちの同じような光景に唯夢中で母の元に走り帰りました。皆に話そうと思っても言葉にならなく隅っこにじっとしていました。銀行の壁にはその後何年も、亡くなった人々の跡が残っていましたが、今はもう私たちの記憶の中にしかありません。

 その夜食事になり、防空壕で助かった、当時には貴重な油や野菜を使って掻揚げの御馳走でしたが、でもそれを見た時昼間の光景が目に浮かびとても口にする事が出来ませんでした。また、家の周りで焼け残った松や杉の焼けぼっくいのシルエットも、私には恐ろしい物でした。疎開のため菰(こも)でくるんだ何棹(さお)もの箪笥(たんす)がまるで炭俵が焼けたように積み重なり、ああ此処が座敷だったのだ、十六ミリのフィルムがアルミのリールと共に灰となって積み重なり、ああ此処が応接間だったんだと思いながら何一つ残らぬ焼け跡を片付けていました。あの渋谷から明治神宮、青山・赤坂の一帯が見渡す限りの焼け野原の光景が想像出来ますか? このような光景が日本のあちらこちらで起っていたのです。それが戦争なのです。

 周りの人々はそれぞれ避難先に行き、残るは私たち家族だけになりました。父とは連絡取れぬまま立看板に立ち退き先を記し、防空壕で焼け残った荷物を纏めて、姉に手配して貰った荷馬車に乗って表参道から明治通りを池袋方向に向かいました。途中新宿辺りの焼け野原にパンパンに膨れたお腹を上にした馬の死骸を恐々見ながら、又焼けなかった人々が差し出してくださる飲み物などを戴きながら姉の元にたどりつきました。あまりの疲労からかその後数日の記憶が全くないのに驚いています。唯二、三日して出張先の岡山で空襲を受け、怪我をしながらも無事たどり着いた父と再会した時のホットした気持ちは忘れられません。

 引揚げた先が軍の飛行場に近く、その後も空襲の連続で、特に機銃掃射が酷く恐ろしく押入れの布団の中にもぐりこむ毎日でした。八月十五日を迎え暑い暑い部屋でラジオに耳を着けるようにして終戦の詔勅を聞いた時の複雑な思い、特に日本が消えると言う思いが頭をよぎりました。

 私にとって青山で過ごした十五年間は生まれてから両親と一緒に過ごした貴重な十五年でした。その後両親と二人の姉は鹿児島の父の故郷に、私は学業を続ける為東京に残りました。暫くして兄も戦地から無事帰還し大学に戻りました。

 多くの方が家族や大切な方を亡くされた中で、私達家族は家が焼け、沢山の物も失いましたが無事生き延びる事が出来た事に感謝しつつ、平和を噛み締めながら一生懸命働き、今日まで過ごしてきました。今思う事は戦争のない世界、そして世界中の人々が戦争の愚かさを真剣に考えて欲しいという事です。

 (赤坂区青山南町五丁目)

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