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表参道が燃えた日(抜粋)-青山南町五、六丁目南側・高樹町・2

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-青山南町五、六丁目南側・高樹町・2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/6/3 7:47
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 戦災犠牲者追悼碑に寄せて
        平良 安江 (八十九歳)



 私の実家は、青山南町五丁目(現・南青山三丁目)八十番地にある「小西酒店」で、私は、十人兄弟(女六人、男四人)の七番目です。当時、戦争で男手がなく、すぐ下の妹と酒屋を切り盛りしていました。配給先は三三九軒ありました。この辺りはお屋敷が多く、すぐ裏の佐賀の鍋島家、青山脳病院等がお得意さんでした。また、近くには大隈重信さん宅、根津嘉一郎さん宅(現・根津美術館)がありました。

 五月二十五日は、髪を洗おうとしていた時に空襲警報が鳴り、髪の毛を濡らしたまま物干し場に出ると、飛行機(B29)が飛んでくるのが見えました。飛行機はまるで五本の指を広げたようでした。すぐに逃げなくてはと思い、明治神宮に向かいましたが、途中出会った人から「明治神宮方面は危ない」と言われ、反対方向の青山墓地に逃げました。青山墓地には時限爆弾があると言われましたが、結果的には、大丈夫でした。慌てて逃げて来たためか、皆、頭がおかしくなって、仏壇を背負っている人、タライやバケツを持っている人がいました。私は、予め纏めておいた荷物を背負って逃げました。

 逃げる途中、多くの建物は焼夷弾で焼けて、柱が最後に崩れ落ちていきました。どうしてあんなに強い熱風が吹くのか、善光寺さんも、風で天井が焼け落ちました。すべてが焼けてしまい、辺り一面何もない焼け野原となってしまいました。一夜を青山墓地で過ごし、翌朝、実家に戻ろうとしましたが、すべて燃え尽きてしまい、どこに実家があるのか、全く分かりませんでした。幸い、商品のお塩の俵が焼け残っていて、それでここが自分の家と分かりました。

 焼け跡は、地べたがとても熱く、飛び上がりながら歩きました。青山会館から松本文具店に行く道の途中で、男女も分からない人間が、真っ黒焦げで横たわっていました。それを見て、涙が出て止まりませんでした。アメリカもひどいことをしてくれた、日本もこれで終わりかと、そのとき思いました。

 翌朝、飛行機が一機飛んできましたが、様子を見に来たのだろうと思いました。

 幸い、実家の金庫内の桐の箱も燃えないで残っていましたので、そのお金で、母や姉たちが疎開していた湯田中(長野県)に行くことができました。

 安田銀行(現・みずほ銀行)の脇や川崎第百銀行の中で沢山の人が亡くなりました。

 安田銀行の壁には亡くなった人の手の跡が残っていました。梅窓院も焼けて、多くの人が亡くなりました。防空壕にも火が回り、中にいた人は、皆、焼け死んでしまいました。一部が焼けずに残っていた遺体は、電信柱の油で火葬したといいます。青山脳病院も焼けましたが、根津さん宅だけ残りました。近くの畳屋さんのお家でも三、四人亡くなり、大きなお屋敷(松村家)でも、仕方なく病人を置いて逃げたと聞きました。

 戦争は本当に悲惨です。この戦災犠牲者追悼碑の建立により、戦災により亡くなられた多くの方々を慰霊すると共に、戦争のない平和な世界が続くように、心から願っております。

 (赤坂区青山南町五丁目)

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