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表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・3

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・3

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/6/13 8:48
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 平和を祈りつヽ
       深山 愛子




 私の家は、遠く元禄から続いた老舗で屋号「萬屋」と言う紙茶商でした。江戸幕府の御用商人を勤めたそうで、数百坪の敷地に店、住まい、倉、庭などがあり、多くの使用人がおりました。当時、二人の妹は学童疎開で栃木県出流山満願寺へ、小さい弟は神奈川県愛甲石田に祖母とハナちゃん(お手伝いさん)と疎開し、両親、姉、私とキミちゃん(お手伝いさん)の五人が残っていました。

 昭和二十年五月二十五日、寒い夜中、十一時ごろ、B29の飛来は空襲警報発令から間もなくでした。目の前にB29が編隊をなして飛んでいる。照明弾が落ちた。一面がまるで昼間のように明るくなる。次ぎにまとまって落ちて来る焼夷弾が目の前で炸裂して油が飛び散り、庭の木が火柱を吹き上げる。目の前のあちこちに火の手があがる。三月十日の東京大空襲からその日まで、数回の空襲があったが、瞬間に「今日のは危ない!お仏壇にご先祖様のお位牌を取りに行きましょう」と母を促し、炎で明るく照らされている家の奥に入り、文庫倉の奥にある大仏壇に半身入り込み、もうすぐ三百回忌を迎える一代目様から十代目様までのお位牌と過去帳を信玄袋に詰め、庭の防空壕まで戻りました。警防団の人に「危ない!逃げろ!逃げろ!」とせかされ、その場で母とはぐれた私はお位牌の入った信玄袋を防空壕の奥に投げ込み、蓋をして土をかけ、空のやかんを一つ持ち、たった一人で自転車を引きずって飯倉の四つ角から右手に水交社のビルのある坂を必死で駆けのぼりました。

 炎と風と火の粉、あたり一面の火の海、不気味な轟音、倒れている人達を跨ぎ、火の粉といっても新聞紙大の真っ赤に焼けたブリキが宙を舞う、もう息が出来ない、「水を頭からかぶれ!」と口々に叫び乍ら逃げる人々。でも、水なんて無い、唯々逃げるよりほかにない。周囲の人々が吸い込まれる様に芝公園の大きな横穴式の防空壕に入って行く。私は何故か気が進まず、公園の奥まで逃げて行きました。横穴式の防空壕に入った方々は皆蒸し焼きになったのでした。目の前で増上寺の五重の塔が焼け落ちて行きました。何も考えられない、被っている防空頭巾は焼け焦げ、髪の毛も焦げ、時間の感覚もない。そして気がつくと、ひんやりと静かな暗い木陰に、私と同じ年位の男の子と肩を寄せ合って座っていたのでした。

 「君、名前なんて云うの?僕は三月に焼け出されたんだ…」本当に短い会話。胸に「土屋勝太郎」と大きな布の名札が縫いつけてありました。今でもはっきりと覚えている事は「ママー」と云う楕円形の咳止めドロップの小さな缶の中から「食べる?」と煎り米を出して私と二人で食べた事でした。当時はお米を煎って非常食として持っていたのです。

 いつの間にか空襲も静かになって東の空が明るくなってきました。遠くから家族を捜す声が聞こえてきて、その中に母と姉の声を知った時の嬉しさ、私は数時間一緒に過ごした土屋勝太郎君に挨拶もせず、有り難うのお礼も云わず、自転車で、声のする方に走り出していました。

 坂の上から逃げて来た道の彼方は、数時間ですっかり焼け野原になっていました。でもお倉が残っている~「良かった~!」と思いました。しかし屋根から直撃を受けたお倉は数時間後、空高く火柱を上げて焼け落ちて行きました。

 私の家には、文庫倉・新倉・店倉・山倉・茶倉等々、中に納める物により名称の異なる七つのお倉がありました。どんな火災にあっても火の入らない堅固な造りで、いくつもの箪笥・書画・骨董・刀剣など、先祖代々が残した貴重品が納められていました。自信のある倉故、何も疎開しないで、ご近所の物も預かっていました。でも少女の私には大切にしていた白いテディベァや集めていた千代紙・ハンカチーフ・ピアノなどが無くなってしまった事が悲しくて、大声をあげて泣きました。

 店倉の前の大きな用水の中に防空服を着た男性が入って死んでいました。頭は焼け棒杭、どんなに熱かったろう、苦しかったろう。しかし、死体はあちこちに転がっていました。

 昼頃になって、やっと父に会えました。父は町会長をしていたのです。父が手のひらにラッキョウをのせて食べさせてくれたことを妙に悲しく覚えています。

 焼夷弾で足を怪我したキミちゃんを自転車に乗せ、私は愛宕下の慈恵病院にたどり着きました。そこには全身やけどの人達が呻き声をあげて横たわり、何倍にも腫れ上がって目も口も鼻もわからない怪我人の口に、水を含ませた綿をのせる人、家族をここで亡くした人々の悲痛な姿、生き地獄でした。

 それから毎日トラックが死体を山積みにしてどこかに運び出す光景が続きました。二週間後、私は姉と従兄弟との三人で朝六時に自転車で東京を出発し、途中何回も機銃掃射や空襲に遭いながら、夜八時過ぎにやっと我が家の疎開先、愛甲石田に着きました。戦争を境に百八十度変わってしまった生活、着のみ着のまま、履く靴もない生活。何十年も脳裏に焼き付いて離れない恐ろしい忌まわしい光景。記憶から消したい!思い出したくない!と誰にも話しませんでした。一九三一年生まれ、当時十四才の私でした。

 今、感謝の中、平和を心から祈りつヽ。

 (麻布区飯倉二丁目)

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