表参道が燃えた日(抜粋)-渋谷区金王町・美竹町・青葉町・1
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表参道が燃えた日(抜粋)-山の手大空襲の体験記- (編集者, 2009/5/17 8:49)
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- Re: 表参道が燃えた日(抜粋)-あとがきにかえて (編集者, 2009/6/30 10:53)
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渋谷区金王町・
美竹町・青葉町
空襲の思い出・東京最後の大空襲
森木 和久
忘れもしない今から四十七年前のことである。
昭和二十年五月二十五日。
毎晩のように警戒警報、空襲警報のサイレンが鳴り、今夜も枕元に鉄兜に防空ずきん、足にはゲートルを巻いたまま床についた。午後十時すぎであろうか警戒警報。ラジオの東部軍管区情報は、「B29編隊関東地区に向かいつつあり」とのことである。間もなく空襲警報。庭に作ってある防空壕にふとんその他を入れ(タンス、重要なものは常時入れてある)蓋をしめ、土をかぶせ、たたいてかためた。
当時父は隣組の組長で、鳶口(とびくち)一丁を持って町会事務所に出て行ったまま。B29の聞き慣れた(?)爆音が頭上に来だした。二階の物干し台に出てみると、花火のように焼夷弾が落ち始めた。ドカーンという破裂音に隣家を見ると、二階家の屋根、床を突きとおして、一階の床でエレクトローン焼夷弾が火を吹いていた。これは危険と思い表に出た。すでに家族の姿は見えなかった。
昭和二十年五月二十六日。
近所の家々から火の手があがり出し、空は赤く、火の粉混じりの突風(今でいうフェーン現象)が吹いていた。
トタン板や、看板などが乱れ飛んで来る中、ちょうど飛んできた掛け布団をかぶり、無意識に人の後について電車通りに出て、青山車庫となりの梨本宮邸の門をくぐり邸内に入った。あとで聞いた話であるが、我々が門を入って間もなく門が焼け、あとからきた人が入れず他に逃げたため、かなりの人が焼死したと聞いた。邸内には立派な鉄筋コンクリート造りの防空壕があり、そばに大きな防火用水があった。梨本宮ご夫妻も見えた。
ふと聞き慣れた声がするので、そばに行くと偶然にも母と末姉ではないか。背中には蚊帳、掛時計などを背負い、手には大きなヤカンを提げていた。お互いの無事を喜びあい、怪我もなかった。のどがカラカラにかわいたが飲み水もなく、防火用水の水をすくって飲んだ(今考えると水はきたなくボーフラがいたかもしれない)。
空襲警報も解除になり、夜も明け火勢もおさまった。
三々五々家路についた。通りには焼死体があちこちにころがっていた。勿論家もあとかたもなく、あたり一面焼け野原。涙一つ出なかった。わが家が燃え落ちるのを見ないだけよかったと思った。
父も戻ってきた。代々木練兵場に避難し、偶然長姉親子(当時隣家に住んでいた)にばったり会ったという。次姉も明治神宮の森に避難し戻ってきた。全員かすり傷一つせず無事であった。近所の人の中には、肩に焼夷弾の直撃を受けた人、奥さんが焼死、一家全員防空壕の中で焼死、行方不明の人、さまざまであった。
煙のため目をやられ、あいていられないくらい。日赤の救護班が巡回し、目薬をさして回っていた。また炊き出しのにぎりめしや毛布が配給になった。防空壕は幸いにも直撃をまぬかれ無事であった。
私の兄(昭和十三年青南小卒、池上学級)は二十歳で応召になり、赤坂一ツ木(元TBS)にある東部〇〇〇〇部隊にいた。当時実家が羅災すると特別外出許可が出るので、私は雑嚢に乾パンを入れ、知らせにいくことになった。交通機関もなく歩いた。途中舗道には焼死体がマネキン人形のようにゴロゴロ。警防団が大八車に死体を山に積んで処理している。表参道の銀行の角には、死体の山。思わず目をそむけ、鼻をつまむ。目的地に着くと勿論焼け野原。衛兵にその旨伝えると「部隊は神田の共立小学校に移動した」とのこと。赤坂見附~三宅坂~九段~神保町と歩きさがしてやっと目的地に。衛兵に面会を申し入れ、しばらくすると「隊長が来るからしばらく待て」と別室に通された。隊長の某少佐が入ってきた。当方は直立不動である。本人が出てこず、一瞬いやな予感がした。
「お前は男の兄弟は何人おるか」
「三人であります」
「よし!お前の兄貴の森木兵長は今暁戦死した。遺体は確認し既に火葬した。両親に一度来るように」
瞬間頭をハンマーで殴られたようであった。出された昼食の麦飯も殆どのどを通らず、戦友に慰められながら、もと来た道を戻った。我が家の焼跡に着き、両親の顔を見るなり、溜まっていたものが一遍に吹きだした。
両親はその様子で察したようで、一部始終を報告した。
その後五月二十九日であったが、横浜の空襲を最後に大規模な空襲は終わったと記憶している。
追記
最近年をとってくると、数日前のことでも忘れることがあるが、不思議に四十数年前のことは、鮮明に記憶しているものである。
私の家は当時、渋谷区金王町五番地。青山車庫前を入り、青山学院のやや渋谷寄りのところにあった。
戦時中のことでもあり、私も当時は血気にはやっており、もし戦争があと半年から一年続いていたならば、兄の敵討ちと、志願していたと思う。間違いなく靖国神社であったろう。戦災から終戦後しばらくの間、住居、食糧には苦労したことはいうまでもない。兄がもし生きていたなら、私の人生は変わっていたかも知れない。
苦労をかけた両親もその後長生きし、八十数歳の天寿を全うし今は亡く、姉弟もそれなりの年齢になってきた。
あのような悲惨な戦争は、二度とあってはならない。
(一九九二年五月記)
-青南小学校三十六回同期会発行「あの頃 青山・青南時代」より
(渋谷区金王町)
父森木和久、平成十八年十一月二十日死去。亡くなる二週間位前に後半部分に書かれている父の兄の話を少しだけ聞きました。
その当時の様子を次々思い出し、涙する父の姿は初めて見たような気がして忘れられません。終戦記念日には必ず「すいとん」を作って食べていました。(長女 宇納京子)