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表参道が燃えた日(抜粋)-青山南町五、六丁目南側・高樹町・5

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-青山南町五、六丁目南側・高樹町・5

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/6/7 9:18
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 青山炎上
      斎藤 恭子



 昭和二十年五月二十五日、この日私は十七年間住みなれたわが家を一夜にして失いました。

 夕方からビュービューと電線がうなるほどの風の中、今日だけは鳴らないでとの思いもむなしく空襲警報が響き渡りました。焼夷弾が縄暖簾(なわのれん)のような状態で落ちてきて、消灯しているのに昼間のように明るくなり、襖の下の方から燃えはじめました。もう逃げるしかないと避難袋を背負い、父が大切にしていたカメラを探すのですが、いつも置いてある所に見当たらずまごまごしていると、「恭子早く!」という父の声にあきらめて外へ出ました。もうあちこち炎が上がっていて人っ子一人見当たらず、燃えているのにシーンと静まりかえり不気味な感じ…。

 父母と私と三人で代々木練兵場(現代々木公園)へ向かって逃げるのですが、原宿方面は真っ赤です。西麻布から青山墓地へと思ったのですが、そちらも燃え上がって行かれず、仕方なく青南小学校の脇から立山墓地に抜けることにしました。崖の途中に穴を掘り、ぬらした絨毯(じゅうたん)を敷き背中から頭までかぶって敵機が過ぎるのを待ちました。崖下の谷の向かいに三軒の家があって、端の一軒はあっという間に焼け落ちる、家一軒がこんなに簡単に焼けるとは思いませんでした(でも気が動転していたので何分か何時間だったのかは定かではないけれど)。三軒目にも燃え移り真っ赤な火の玉が降りかかる、その時男性三人が ”火たたき″を手に屋根に上がり、大きな火の玉(五十センチメートルもあったでしょうか)を次々とたたき落とし、下からはバケツで水をかけ、遂に家を守りきりました。おかげで私どもも助かったのですが、熱地獄でした。

 「そろそろ帰ろうか」と父にうながされ立ち上がったのですが、一晩寝ずに生まれてはじめての怖い体験をした頭では何も考えられず、オレンジ色の靄(もや)が立ちこめてこげくさい道をもくもくと歩きました。来た時とは違って一面の焼け野原で、石塀やお蔵の白い壁が点々と残っていて、火事ってこんなになるのかな―と思いました。

 もちろんわが家も残っているわけもなく、家の建っていた場所には木材の焼け残りや、壁土、瓦の割れたもの等、道路から五十センチメートルも高く積もっていました。庭の隅にあった桐の大木が枝葉を焼かれ、幹だけが真っ黒の焼けぼっくいになってひょろりと立っていました。水道管はぐにゃぐにゃに曲がり、裂け目からチューチューと水が噴出していました(神戸震災の焼け跡もそっくりでした)。私は感情も感覚もなくなってしまい、悲しいとも淋しいとも思いませんでした。

 自宅跡にもどってからの事は何も思い出せません。帰ってすぐなのか何日も経ってからなのか、父が桐の木に壕から出した柱時計をかけた事、母と焼け跡の瓦礫(がれき)を掘っていろいろ探していると、父のカメラがいつもの所から見つかり、ジャバラは型のまま灰になり、レンズはぐにゃりととけて…。父に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。おひな様をしまっておいた戸棚の場所からはすすけたお顔が見つかり、まわりを掘ると着物に織り込んだ金糸がピッピッと立ち上がるのは覚えています。どうやって寝たのか、何を食べていたのか全く思い出せません。

 人の噂では表参道は死体の山で、家族全員が亡くなられたのか片付ける人もなく、しばらくは悲惨な状態だったようですが、遠くから手を合わせるのみで現場は見ていません。戦後しばらくは五月二十五日に表参道入り口にテントが張られ御供養されていましたが、今年はその場所に立派な慰霊碑が建立され、空襲を体験したものにとってはほっと心休まる思いです。丸い輪をゆるやかに支える型は平和そのもののようで心が癒されます。御尽力いただいた多くの方に感謝致しますとともに亡くなられた方々の御冥福を祈り、何時までも平和が続くよう願ってやみません。
  
 (赤坂区青山高樹町)

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