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表参道が燃えた日(抜粋)-青山南町五、六丁目南側・高樹町・4

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-青山南町五、六丁目南側・高樹町・4

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/6/4 21:15
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 戦後、青山青南小学校の屋上にて
             相良 久子


 見事なケヤキの並木通り、表参道の華やかな賑わいを折々訪ねるたび、戦後の真黒に焦げて幹だけの連なりになったケヤキ並木と、すすけた白塀が続くだけの焼け跡の参道のイメージが二重になってしまいます。表参道を平常心で見ることができません。

 私が疎開先の九州天草からたった一人で上京し、焼けただれた母校青南小学校の屋上のバラックに住む姉家族の元に身を寄せたのは、敗戦から一年半ほど経った昭和二十二年の春先でした。はじめて屋上から見た東京ははるか遠くまで見通せる無惨な焼け野原でした。ボツボツとバラックの立つ広い広い空間でした。すぐ下の通りを、進駐軍が、「レフト、ライト」「レフト、ライト」「ターン」と耳慣れぬ号令で行進演習をしていました。

 これが私の東京?…。足もとの瓦礫を踏みしめながら、「日本は本当に負けたのだ」とほとばしる涙を止めることができませんでした。

 校舎の中は瓦礫の山、まだそれらを取り除くすべもなかったのです。少しずつ学校に帰ってきた生徒達を迎えるべく、幾つかの部屋は整えられ、何人かの焼け出された先生方のバラックが教室の中にできていました。義兄も青南の教師でしたので、屋上の元養護学級のあったところにバラックを作ったのでした。つい二年前までの青南小学校の懐かしいたたずまいは、すすけたコンクリートの壁と、無惨に曲がった鉄骨のわくだけとなっておりました。桜の木ももちろん焼け焦げています。

 私は、三月十日の下町大空襲のあと、急遽、父母に連れられ疎開したので、五月二十五日の青山大空襲は知らずにおりました。その日、どれ程の惨状があったか…。表参道のケヤキも音をたてて燃え上がり、燃え広がる焔の中を逃げまどって亡くなられた多くの人々、あの安田銀行の回りの黒焦げの人々の山。あとから知った私は、ただただ身の毛がよだち、涙が溢れるばかりです。でも、戦後、この青山の焼け跡で私達は必死に生きていかなければなりません。乳のみ児と幼児をかかえた姉夫婦は、小さい二間のバラックに、総勢五人、着るものも食べるものもどこで工面したものか、今考えると、よく生きていたと不思議な思いがします。ただただ夢中だったのでしょう。

 今、思い起こしても、あの頃の思い出は、ただ毎日の「生活」の断片なのです。

 水道は、一階の蛇口からしか出ません。毎朝、そして女学校から帰宅してからも、コンクリートだけになった狭い階段を昇り降りして一階の蛇口から水をくみ、それを四階の屋上まで運びました。バラックにトイレはなく、屋上の隅の瓦礫に穴を作り、校庭の畠に肥料として兄が運んでいました。その畠からは、ヒョロヒョロしたほうれん草などもとれ、貧しい食卓にのぼりました。薪は焼け跡からどうにか拾ってこれたので、簡易なおくどさんで食事を作りました。食料とて満足なものがあるはずもなく、薄い味噌汁やスイトン、僅かな配給の小麦粉、とうもろこし粉を使って電熱器で固いパンを焼き、それを乳のみ児にまで食べさせました。

 思い切って善光寺さん近くの焼け跡に開いた闇市で、姉の焼け残った着物で、真白い米一升を買いに行った時、ちゃんと正しく量るかと、目を皿のようにして見つめていたことを思い出し、恥ずかしいようです。時折、進駐軍放出の真白いパンが配給となって、その時は思いっきり食べたものでした。白い小麦粉が配給になった時には、姉と二人でうどん作りです。足で踏んで作るのが大行事でした。

 バラックに風呂などもちろんなく、トタンで作ったカンカラを持って、暗い中、焼け跡の表参道を下り、今の明治通りにあるたった一軒の銭湯に行くのも、何かしら恐ろしく大変なことでした。たびたび、あるお寺さんに風呂を拝借しに家族五人で出かけました。何というお寺さんだったでしょうか。焼け残っていたのでしょうか。記憶は定かではありません。

 青山通りにポツポツと建ちはじめた店の中に、PX(進駐軍専用の店)がありました。軍帽を斜めにかぶった背の高い兵士達が、見たこともないアイスクリームをなめながら歩いています。今なら当たり前のソフトクリームだったのですが、驚きました。

 そんな生活の中で、一つ忘れ難い思い出があります。その年も改まった頃、夜中に姉が産気づきました。用意しておいたリヤカーに乗せた姉を、義兄が高樹町の日赤病院まで連れてゆきました。屋上からは、月の青白い光に照らされて、リヤカーを引いた義兄が、焼け跡の道をゆっくりゆっくり歩いてゆく姿がいつまでも見えていました。母を求めて泣き叫ぶ小さな姪を抱き、今にも泣き出しそうな小学一年生の甥にしっかり握りしめられて、屋上に取り残されたまだ十六歳の私は、心細い限りながら、これから生まれてくる新しい生命への期待に、戦争が終わったこと、新しい未来の平和への想いがはじめて湧いてきたのを覚えています。

 そろそろ朧になってきた私の戦後の青山での生活(の記憶)ですが、あの頃の日本人の生活は、今の方々には、到底思いも及ばないことでありましょう。今も、戦火の絶えないところで、このような苦しい生活を強いられている人がいると思うと、耐えられぬ思いがします。

 二度とあの地獄の戦争が、地球のどこにも起きないようにと、ただひたすら祈るばかりです。
  
 (赤坂区青山南町六丁目)

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