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表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・2

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/6/12 8:59
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 二度と戦争のないことを願って
              福田 恒子



 私は当時女学校三年生、赤坂見附交差点近くで、開業医の父と母・兄・妹の五人で住んでいました。小学校六年の妹は、東洋英和初等科の集団疎開先・栃木県出流山満願寺から、三月五日に帰り、学校で卒業式が行われました。

 そのすぐ後、三月十日の下町大空襲で、浅草にお戻りになっていた妹達の担任・中沢先生がお亡くなりになりました。疎開先では親代わりとなって、朝から晩まで生徒たちに付き添って下さっていたお優しい先生が、空襲の犠牲になられたのです。妹は大変なショックを受けて居りました。

 五月二十三日には、空き家になっていた隣家に焼夷弾が落ち、我が家は類焼してしまいました。

 必死の消火でわずかに焼け残った荷物をもち、青山の親戚の家に避難しました。乃木神社へも近い山王病院そばです。ほっとする間もなく一日おいた、二十五日の夜、不気味な空襲警報のサイレン、そしてB29の襲来。毎晩着たまま寝ている防空服の上に、何枚もセーターを重ね着して、非常袋を肩から掛け、妹と二人、青山通りの方へ走りました。降るような焼夷弾、はじける油脂焼夷弾のすさまじさ、燃えている電柱、そこから垂れ下がる何本もの電線、逃げまどう人々の間をくぐり抜け、青山の第一師団司令部の近くへ来たとき目にしたのは、馬に寄りかかり、肩から大量の血を流している兵隊さんでした。師団司令部は一面火の海、苦しい!息も出来ない! 火の粉を被りながら、焼夷弾の炎の壁に閉ざされて行き先もわからない。ただ人々の流れに沿い、私と妹は青山墓地までたどり着きました。墓地の中は火傷の人、衣類・防空頭巾が焼けこげの人でごった返していました。すると誰かの「時限爆弾が爆発するぞ!」の声、それが流言飛語だったとは後から分かったことで、ただ恐ろしく逃げる、又逃げる、逃げるの状態でした。表参道方面の空は紅に染まっていました。

 やがて朝になり、私と妹は避難所になっている赤坂の親戚の「とらやビル」を目指しました。御所の周りの堀には、男か女か子供かも判らない、真っ黒に焼けた死体がぎっしりと詰まり、地獄絵図そのものでした。虎屋は奇跡的に焼け残り、家族にもやっと会うことが出来ました。父は、怪我したり体調をくずした方々を、僅かに焼け残った医療品で、診察、治療をしていました。

 赤坂見附の我が家の焼け跡に行くと、そこは余りにも酷い凄惨な情景でした。二日前に焼けなかったら私達も死んでいたかも…と思われました。家の隣の成満寺の地下に避難した人々は、全員蒸し焼きになりました。家族を亡くした方々が、死体に被せてある焼けたトタンを一枚一枚めくり、「真っ黒になった死体が鼻血を出したら、身内だ」と云いながら捜していました。家族の呼びかけが、判別も難しい遺体に通じるとの思いだったのでしょうか。

 この空襲で姉の担任だった鶴来先生が亡くなられました。表参道近くにお住まいで、ご遺体もわからないままでした。

 姉も妹も、大切な担任の先生を失いました。多くの方が命を落とし、家を焼かれました。これも巨大な「太平洋戦争」の一部だったのでしょうか。あれから何十年も、脳裏に焼き付いて離れない、思い出したくない、忌まわしい光景です。しかし、忘れてはならない事実です。

 戦地で、学業も夢も半ばにして親、兄弟から離れ、悲しくも散った若い命。

 今、無事に過ごしている日本で、テレビに写る他国で戦争の苦しみを受けた方々や子供達の姿を見る度に心が痛みます。
 地球のどこかで起きている戦争が、一日も早く治まりますように、そして、二度と誰もが苦しむ事のない世界にと心から願っています。
 
 (赤坂区赤坂新坂町)

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