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表参道が燃えた日(抜粋)-渋谷区金王町・美竹町・青葉町・2

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-渋谷区金王町・美竹町・青葉町・2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/6/15 8:17
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 戦後六十年を振り返って
           田之上 濱子




 表参道の今日の繁栄の裏には、なんとたくさんの方々の犠牲があったことでしょうか。

 「和をのぞむ」と記された追悼碑の前に立ち、しばし感無量の思いで眺めていました。あれから六十年以上もの歳月が経ってしまいました。

 昭和二十年当時、私ども一家は渋谷区美竹町八番地に住んでいました。家の後ろの塀は、梨本宮家の三万坪にも及ぶお屋敷につながっていました。五月二十五日の夜は、焼け出された父の友人、両親と子供四人、手伝いの者、総勢八名が自宅におりました。

 空襲警報と同時に、庭に掘った防空壕の中に入りましたが、B29爆撃機の地鳴りするようなすさまじい響きに、身の危険を感じ、壕から飛び出しました。そして、近所の方々とともに宮家の林の中に逃げ込みました。

 林の中はすでに建物が焼け落ち、宮様方は避難されていました。空中を火の風が吹き走り、護衛していた衛兵たちも目が血走り、なにを聞いても答えもなく、ただ呆然と立っているばかりでした。

 突然耳を切り裂くような焼夷弾の落下音に私は思わず、「伏せろ!」「逃げろ!」と大声を出し、家族の先頭に立って叫んでいました。燃え盛る火の粉をさけて、熱風の中を父は五歳の妹を背負い、母は三歳の弟を抱き、必死になって走っては逃げ、走っては逃げ続けました。

 どのくらいの時が経ったでしょうか。咽喉がカラカラに渇き、少し休まなければと思い、土手の上から下を見ると、通りを隔てた向かい側に市立青山病院の裏門が見え、そこに置いてある防火用水を見つけました。

 「あーよかった。これで助かった」と思い、土手を飛び降りました。子どもたちを次々に抱き下ろし、全員がやっと一緒になって残り少ない防火用水の水を互いに掛け合いました。

 やっと一息ついた頃、東の空がほんの少しずつ明るくなってきました。目に入って来た建物は、国会議事堂と青山通りにあった郵便局しかありませんでした。

 父と母は、両目を火傷して涙が止まらず、私は土手を飛び降りた時に捻挫したらしく、左の足首が大きく腫れ上がり動けない状態になっていました。その日は、救援の方々に助けられて、青山学院の焼け残った一角に休ませてもらいました。まもなく私どもは東京を離れ、島根に疎開しました。

 戦争がもたらした数々の苦しみは、一人ひとりが身にしみて忘れることのできない思い出として残っています。いつの日かこの地球上で戦火のなくなる日がくるでしょうか。戦争はすべてを破壊し、地球までも破壊してしまいます。人類のために、この美しい地球のために、平和の世界をと祈らずにはいられません。

 (渋谷区美竹町)

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